欠片
胃酸
1
外の空気がやけに旨い。雨のあと、屋根裏の箱みたいに仄かに黴の匂いが立ちのぼると、子どもの頃の僕がふいに戸を叩く気がする。今日は妙に身体が重い――薬のせいで朝から鉛を抱えているみたいだ。空気を吸い込むたび、心臓の鼓動が一瞬遅れ、ほんの一拍だけ現実から切り離される。それなのに、具合は決して良くならない。むしろ、いよいよ悪化しているような気さえする。今日も世界は僕を無視するかのように明るく輝き、否応なく朝を連れてくる。だが僕の目にはその光景が一切届かない。世界はとても眩しく光を放っているのに、僕の眼は全部を鉛の裏側として見ている。ただ灰色の幕がかかっているばかりで、遠くの景色も人の顔も皆同じ色に沈んで見えるのだ。
僕が生きる価値のない人間だということは、幼い頃から理解していたつもりだ。生きることに悩む幼子などどこにいるだろうか――そう自問しながら。周囲の子供たちが遊びに夢中になる間も、僕はひとりで死について考え込んでいた。友達をつくるよりも前に、孤独というものを知ってしまったせいで。そうして気づけば、背中に目に見えぬ棺桶を背負いながら歩いているような感覚に取り憑かれていたのだ。
今日の僕はことさら酷い。昨夜飲んだ睡眠薬のせいで、朝から体が鉛のように重くて、布団から抜け出すだけでも一苦労。起き上がるたび関節が軋むし、歩こうとすれば膝が泥の中に沈むようで呼吸さえもぎこちなくなって――まるで壊れかけた歯車の動きを繰り返しているようだ。僕はとうとう人間ではなく、ただそこに据え置かれた鉛の塊になってしまったのだと錯覚する。
そんなときに限って父の怒鳴り声が部屋に響き、僕は渋々立ち上がらざるを得なくなるのだ。二十歳を過ぎた身でなお僕の暮らしは独房のようであり、そこから押し出されるたびに自分がいかに無力であるかを思い知らされる。成人したというのに僕には自分の一日すら支配する権利がないらしい。心の中で、ああ、僕はもう大人なのになあと呟く。しかし呟きは虚空に消えるだけで誰の耳にも届かない。僕の会話は、他者と交わす言葉ではなく常に独白でしかなかった。動物や虫ですらもっと豊かに音を交わし合っているように思える。
光にばかり目を晒していたせいで視力はどんどん落ちていっていた。ブルーライトを浴び続けた眼は焦点を結ぶ力を失い、遠くも近くも曖昧にしか映さない。形は歪み輪郭は滲み、結局のところ僕が見ている世界はスクリーンの光の中に閉じ込められている。現実の肉体はすでに薄れ、代わりに仮初めの光だけが僕を形作っているのだろう。
それでも僕は待っている、死期が訪れるのを。待ち遠しいものを抱える子供のように、クリスマスの朝を夢見る子供がそうであるように、僕もまたその時を愚かしいほどに待ち焦がれている。今日ではなく、明日でもなく、ただ遠いどこかにある「終わり」を。そんな時、僕は精神科の待合室にあった古びた時計の針を思い出す。秒針の進む音がいつも以上に遅く、けれど確実に命を削っていく――鬱病と告げられてから六年が過ぎていた。六年という年月は祝辞のようであり、記念碑のようでもあった。僕はその時点でようやく理解したのだ。これは一過性の災いか、生涯の伴侶か――もはやこれは治らぬ病であり、ただの持病などではなく僕の生涯を彩る本性そのものなのだと。そう考えるのは幼稚か、それとも悟りに近いのか。答えはわからない。ただ一つ、わかっていることがある。
――生きるとは、僕にとって死の練習に過ぎぬということ。死を夢見て生を擦り切らし、なおも呼吸を繰り返す愚かなる生物。それが僕の正体だ。
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