第15話
アシュトン様の腕の温もりを感じ、私は覚悟を決めた。
この穏やかな日常を、何者にも奪わせてはならない。
私達の本当の戦いが、今まさに始まろうとしていた。
翌日から辺境領は、かつてない活気に満ちあふれる。
領主アシュトン様が発した知らせが、全ての領民へと伝えられたからだ。
それは『第一回復興祭』の開催という、驚くべき知らせであった。
最初は誰もが、戸惑いの表情を隠せない。
戦いが終わったばかりで、まだ傷も癒えていないのだ。
なぜ今祭りなどを開くのかと、多くの民が疑問に思った。
だがアシュトン様が自ら街へ降り、その空気は変わっていった。
彼は民の一人ひとりに、真剣な眼差しで語りかける。
「これはただの祭りではない、我々の勝利を祝う大切な儀式なのだ」
「未来への希望を誓うために、君たちの力が必要だ」
「敵が絶望を操るというのなら、我々は希望の力でこの地を守る」
彼の真摯な言葉は、領民たちの心を確かに動かした。
人々の顔から不安の色は次第に消え、力強い決意が浮かび上がる。
自分たちもこの戦いに参加するのだと、皆がそう思ったのだ。
こうして辺境領の全てを巻き込んだ、前代未聞の作戦が始まった。
城の大会議室には、多くの人々が集められていた。
騎士団の幹部に加え、ハンスさんや街の有力者たちの姿もある。
祭りの具体的な内容を決めるための、第一回準備会議が開かれた。
「まずは祭りの中心となる、大きな催し物が必要だな」
ギデオンさんが、腕を組んで深く唸った。
「ここはやはり俺たちの強さを見せる、模擬試合でしょう」
ダリウスさんが、拳を握りしめて大きな声で提案する。
その言葉にレオさんをはじめとする若い兵士たちが、歓声を上げた。
彼らは自分の力を、皆に示す機会を待っていたのだ。
しかし私はその提案に、静かに首を横に振った。
皆の視線が、一斉に私へと集まる。
「それも素晴らしいとは思います、ですが今回の目的は違います」
「最も大切なのは、ここにいる全ての人が一体感を感じることです」
「騎士も領民も大人も子供も、皆が一緒に楽しめるものがいい」
私の言葉にダリウスさんは、少し不満そうな顔を見せた。
だが彼は、何も言い返してはこなかった。
彼もまた私の考えを、心のどこかで理解してくれているのだろう。
すると今まで黙っていたハンスさんが、しゃがれた声で口を開く。
その意外な人物からの発言に、皆が注目した。
「それなら、料理対決というのはどうじゃろうか」
「この土地で採れる食材だけを使い、最高の料理を作るのじゃ」
「騎士団も領民もいくつかの組に分かれ、競い合うのが良い」
「わしが、審査員をしてやってもいいぞ」
その思いがけない提案に、皆が驚いてハンスさんの顔を見る。
彼は少し照れたように顔をそむけたが、どこか楽しそうだった。
彼の心にも、確かな変化が訪れている。
「それはいいですね、食べ物なら皆が幸せな気持ちになれます」
エマが、ぱあっと顔を輝かせて賛成した。
「それから、音楽も必要だと思います」
「皆で歌えるような、簡単な歌を作りませんか」
レオさんが、少し照れながらそう提案した。
彼は騎士団の中でも、一番の美声の持ち主として有名だ。
そこから次々と、様々な意見が活発に飛び交い始めた。
アシュトン様はその様子を、穏やかな笑みを浮かべて見守っている。
彼は決して自分の意見を押し付けず、皆の言葉に耳を傾けていた。
議論が円滑に進むように、時折的確な助言を与えるだけだ。
その姿はかつての『氷の辺境伯』ではなく、民と共に歩む真の指導者だった。
会議は夜遅くまで続き、祭りの概要がようやく固まった。
昼間はハンスさん提案の料理対決と、チーム対抗の力比べ大会を行う。
丸太運びや綱引きといった競技で、皆が汗を流すのだ。
そして夜には広場の中央に大きな焚き火を灯し、皆で歌い踊る。
レオさんがこの日のために、辺境領の新しい歌を作ってくれることになった。
私は子供たちが楽しめるような、小さな遊びを企画する役目を引き受ける。
木の実を使った的当てや、動物のパン食い競争を考えた。
そして私の寺子屋の子供たちによる、小さな劇の発表会も行う。
演目は勇気あるウサギが、知恵で大きなオオカミを打ち負かす物語だ。
準備はものすごい速さで、着々と進められていった。
城も街も祭りの準備のために、昼も夜も活気に満ちている。
誰もが自分の役割に誇りを持ち、生き生きとした表情で働いていた。
その光景を見ているだけで、私の胸は温かいもので満たされる。
希望の光は、確かにこの土地に根付き始めていた。
私は寺子屋での活動の合間に、街の女性たちと一緒に飾り付けを作った。
色とりどりの布を繋ぎ合わせた旗や、森で集めた木の実のリース。
決して豪華なものではないが、そこには温かい心が込められていた。
私達は他愛もない話をしながら、手を動かし続ける。
そんな穏やかな時間の中で、私はトムのことがずっと気にかかっていた。
あの日『黒い太陽』のことを話してくれてから、彼はまた心を閉ざしたように見えた。
劇の練習にも、彼は決して参加しようとしない。
ただ隅の方で、その様子をじっと見つめているだけなのだ。
彼が描いたあの不吉な絵は、彼の心に深く刻まれた傷跡である。
その傷を、無理やりこじ開けることはできない。
彼が自分の力で恐怖を乗り越えるのを、待つしかないのだ。
祭りの二日前、温室の建設がついに完了した。
陽の光を浴びて、油紙の壁がキラキラと輝いている。
その完成を祝うための、ささやかな式典が開かれた。
ハンスさんが、皆を代表して挨拶に立つ。
彼は集まった領民たちと騎士団の面々を、ゆっくりと見渡した。
そして深く、深く頭を下げる。
「感謝する、わし一人の力では決して成し遂げられなかった」
「この温室はお前たち一人ひとりの、汗と努力の結晶じゃ」
「そして、我々の未来そのものなのじゃ」
彼の目には、うっすらと涙が浮かんでいるように見える。
その言葉にダリウスさんたちが、照れくさそうに頭を掻いた。
領民たちからは、温かい拍手が自然と巻き起こる。
その夜私はアシュトン様と一緒に、完成した温室の中を歩いていた。
中は地熱のおかげで、ほんのりと温かい。
まだ何もない土の畝が、整然とどこまでも並んでいた。
「ここに、たくさんの野菜が実るのですね」
「ああ、そうなれば子供たちにも腹一杯食べさせてやれる」
アシュトン様は、愛おしそうに畝の土をそっと撫でた。
「これも君のおかげだ、君がハンスの心を溶かしてくれた」
「いいえ、ハンスさんはずっと待っていたのだと思います」
「ご自身の知識と情熱を、この土地のために役立てられる日を」
「私達は、そのきっかけを作ったに過ぎません」
私達は顔を見合わせ、穏やかに微笑んだ。
その時だった、温室の外が急に騒がしくなったのは。
私達が慌てて外へ出ると、一人の偵察兵が息を切らし駆け寄ってきた。
「アシュトン様、森の様子がおかしいのです」
「どうした、何があったのか」
「はっ、南の森の一部が急に枯れ始めています」
「動物たちの姿も、一匹も見当たりません」
その衝撃的な報告に、私とアシュトン様の顔から血の気が引いた。
敵の儀式が、すでに始まっているのだ。
土地の生命力が、少しずつ吸い上げられているに違いない。
「思ったよりも、ずいぶんと早いな」
アシュトン様が、厳しい顔で森の方角を睨みつけた。
「祭りは明後日です、それまで持ちこたえられるでしょうか」
「いや持ちこたえるのではない、こちらから仕掛けるんだ」
アシュトン様は、きっぱりとした声でそう言い切った。
「敵が絶望を広げるというのなら、私達はそれを上回る速度で希望を広げる」
「リリアーナ、祭りの準備をさらに加速させる」
「君にも、手伝ってもらうぞ」
「はい、もちろんです」
その夜私達はほとんど眠らずに、祭りの最後の準備を進めた。
レオさんが作った、辺境領の新しい歌。
その歌詞を大きな布に書き写し、広場の壁に掲げる。
料理対決で使う特別な香辛料を、ハンスさんと一緒に調合した。
子供たちの劇で使う、衣装の最後の仕上げも行う。
やるべきことは、まるで山のようにあった。
でも不思議と、疲れは感じなかった。
むしろ特別な高揚感が、全身を駆け巡っているようだった。
私達は今、確かに戦っているのだ。
剣や魔法ではなく、歌や料理や飾り付けで。
私達の未来を、この手で守るために。
祭りの前日の夜、全ての準備がようやく整った。
街は手作りの旗やリースで彩られ、まるでおとぎ話の世界のようだ。
広場の中央には天を突くほど高く、焚き火用の薪が積み上げられている。
私はアシュトン様と二人で、城のバルコニーからその光景を眺めていた。
街のあちこちから、楽しそうな話し声や歌声が聞こえてくる。
明日の祭りを、人々が待ちきれないでいるのだ。
その一つ一つが、私達の力になっていくようだった。
「きれいだな」と、アシュトン様がぽつりと呟いた。
「はい、本当に」
「君が、この景色を守ってくれたんだな」
「いいえ、皆で守ったのです」
私は彼の大きな手を、そっと握った。
彼は力強く、その手を握り返してくれた。
その時遠くの森の空が、一瞬不気味な黒い光を放つ。
それはほんの一瞬の出来事で、街の人々は誰も気づいていない。
だが私達には分かった、敵がすぐそこまで来ていることを。
そして明日の祭りが、私達の運命を分ける決戦になることを。
「怖いか」と、アシュトン様が尋ねた。
私は首を横に振り、こう答える。
「いいえ、少し震えているだけです」
「あなたと皆がいるから、私は何も怖くありません」
私の言葉に、彼は穏やかに微笑んだ。
「俺もだ」と、彼は力強く言った。
私達はもう何も言わず、明日決戦の舞台となる街を見下ろす。
夜空には雲一つなく、満天の星が輝いていた。
だが星々の輝きさえ飲み込みそうな闇が、すぐそこまで迫っている。
私達はそれを、肌で感じていた。
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