第4話

翌日、私はエマに案内されて、城の北側にある書庫へと向かった。

ギデオンさんから言い渡された外出の禁止は、騎士団とのお茶会以来、少し曖昧になっている。

私が城の中を歩いていても、兵士たちは遠巻きに見ているだけだった。咎めようとは、しない。

むしろ、すれ違いざまにぎこちなく会釈をしてくる者さえいる。

昨日までとは、大違いだ。


書庫の扉は重く、開けるのに少し力が必要だった。

中は、エマの言った通り、埃っぽくてかび臭い。

窓がほとんどないため薄暗く、書架の本は分厚い埃の層に覆われていた。


「わあ、本当に、誰も使っていないのですね」


「はい。先代の辺境伯様は本がお好きだったと聞いていますが、アシュトン様は、ここに入られることはありません」


エマが、申し訳なさそうに言う。

私は構わず、書庫の中へと足を踏み入れた。


並んでいるのは、歴史書や軍記物ばかりだ。この土地の古い伝承を記したものも多い。

物語や、詩集のようなものは見当たらない。

いかにも、実用を重んじる辺境伯の書庫、という感じだった。


私はその中から、比較的状態の良い数冊の歴史書を手に取った。


「リリアーナ様、歴史書を読まれるのですか」


「ええ。この土地のことを、もっと知りたいですから。それと、もう一つ、別の目的もあるのです」


私は、意味深に微笑んでみせる。

部屋に戻ると、私はその本を自分の机ではない、小さなテーブルの上に置いた。

そして、エマに頼んで、もう一つ椅子を持ってきてもらう。

二人分の椅子と、テーブルの上の数冊の本。

私の、ささやかな計画の準備は整った。


その日の夕食の席で、私はいつも通り、食事を始めた。

アシュトン様も、いつも通り、食事に手をつけず、窓の外の闇を見つめている。

食事が終わり、彼が席を立とうとした瞬間、私は初めて、こちらから彼に話しかけた。


「アシュトン様」


私の声に、彼の肩がかすかに揺れた。

彼は、ゆっくりとこちらを振り返る。

その灰色の瞳には、何の感情も浮かんでいない。


「なんだ」


「もし、お時間がおありでしたら、食後に少しだけ、私の部屋でお茶でもいかがでしょうか。書庫から、いくつか興味深い本を見つけましたので」


唐突な私の誘いに、アシュトン様は明らかに戸惑った表情を見せた。

隣に控えていたエマも、驚いて息を呑んでいる。

彼はしばらく黙っていたが、やがて、低く呟いた。


「断る」


その返事は、予測通りだった。

私は少しもがっかりした様子を見せず、穏やかに微笑んだ。


「そうですか。残念です。もし、気が向かれましたら、いつでもいらしてください。お茶の用意をして、お待ちしておりますので」


私は、それ以上、何も言わなかった。

彼は訝しげな視線を私に向けた後、無言で食堂を去っていった。


私の目的は、彼を部屋に招くことそのものではない。

彼に、あなたはいつでも歓迎されている、というメッセージを伝えることだ。

そして、彼が自分の意志で行動できる、選択肢を示すこと。

心を閉ざした人に対して、無理強いは逆効果にしかならない。

必要なのは、安全な距離を保ちつつ、いつでもあなたを受け入れますよ、という合図を送り続けることだ。


その日から、私は毎晩、夕食の後に同じようにアシュトン様を部屋に誘った。

返事は、いつも同じ「断る」の一言。

それでも、私は毎日続けた。


部屋のテーブルには、いつも二人分のお茶と、書庫から借りてきた本を数冊、広げておく。

私が本を読んでいると、エマが不思議そうに尋ねてきた。


「リリアーナ様。アシュトン様は、来てくださらないのに」


「いいのです。いつか、気が向く時が来るかもしれませんから。その時のために、準備をしておくだけです」


私は、焦らずに待ち続けた。

その間にも、騎士団では少しずつ変化が起きていた。

私が毎日、訓練の休憩時間にお茶を持って顔を出すようになったからだ。


最初は遠巻きに見ていた兵士たちも、次第に私の周りに自然と集まるようになった。そして、その日の出来事や、他愛もない話をしてくれる。

しかし、彼らの間では、些細なことから言い争いが起きることも少なくなかった。


「おい、レオ。お前のせいでさっきの連携、むちゃくちゃだったじゃないか」

「なんだと。ダリウスさんこそ、動きが早すぎるんですよ」


彼らは、戦争のストレスからか、些細なことで感情的になりやすいのだ。

自分の意見を主張する際に、相手を攻撃するような言い方をしてしまう。

これでは、せっかく築き始めた信頼関係が、また壊れてしまうかもしれない。

私は、彼らに新しいコミュニケーションの方法を教える必要があると感じた。


「皆様、少しよろしいでしょうか」


ある日の休憩時間、私はいつものように集まってきた彼らに声をかけた。


「皆様は、ご自身の気持ちを、誰かに伝えたい時、どのように話しますか」


私の唐突な問いに、兵士たちは顔を見合わせる。


「どう、と言われてもな。思ったことをそのまま言うだけだろ」


ダリウスさんが、頭を掻きながら答えた。


「では、ダリウスさんがレオさんに何かを伝えたい時、『レオはいつもこうだ』と言うのと、『私は、レオさんがこうしてくれると助かる』と言うのとでは、どちらがレオさんの心に届きやすいと思いますか」


「え、そりゃあ、後者の方が」


レオさんが、少し驚いたように答える。


「そうですね。相手を主語にして非難するのではなく、私を主語にして、自分の気持ちや要望を伝えるのです。そうすることで、相手を不快にさせることなく、自分の意見を伝えることができます」


私は、自分も相手も尊重する、対等な自己表現の方法について説明した。

攻撃的でもなく、言いたいことを我慢するのでもない、誠実で率直な伝え方だ。


最初は「なんだそりゃ」と半信半疑だった兵士たちも、私が具体的な例を挙げて説明すると、次第に興味を示し始めた。


「なるほどな。確かに、いつも『お前のせいだ』と言ってしまっていたかもしれん」


ボルツさんが、腕を組んで唸る。


「じゃあ、ちょっと練習してみましょうか。最近、誰かとのやり取りで、困ったことはありましたか」


私がそう促すと、一人の兵士が気まずそうに手を挙げた。


「俺、相部屋のやつのいびきがうるさくて、全然眠れないんだ。でも、本人には悪くて言えなくて」


これは、自分の気持ちを伝えられない、非主張的な悩みの典型例だ。

私は、彼に尋ねた。


「では、そのお相手に、今学んだ方法で伝えてみるとしたら、どんな言葉になりますか」


彼はしばらく考え込んだ後、おずおずと口を開いた。


「ええと、『君のいびきがうるさくて眠れないから、何とかしてくれ』では、ダメだよな」


「それは、少し攻撃的かもしれませんね。『私』を主語にしてみましょう」


「『私』か。『私は、夜なかなか眠れなくて困っているんだ。もし、君が横向きに寝るなど、何か工夫をしてくれると、とても助かるのだけれど、どうだろうか』とかか」


「素晴らしいです。それなら、お相手もきっと、あなたの気持ちを理解して、協力してくれるはずですよ」


私が褒めると、彼は照れくさそうに笑った。

その日から、騎士団の訓練場では、奇妙な光景が見られるようになった。

兵士たちが、休憩時間になると二人一組になり、「私は、君にこうしてほしいと思う」「なるほど、君はそう感じていたんだな」などと、ぎこちなく話し合っている。

彼らは、楽しみながら、新しいコミュニケーションの形を学んでいった。


その結果は、すぐに表れた。

今まで絶え間なく起きていた、兵士同士の些細な口論や衝突が、目に見えて減っていったのだ。

訓練中の連携も、以前とは比べ物にならないほどスムーズになった。

お互いの意思を尊重し、確認し合いながら動けるようになったからだ。


ギデオンさんは、その変化を信じられないという目で見つめていた。

ある日、彼が私に話しかけてきた。


「殿下。あなたは、一体何者なのですか。魔力もなしに、言葉だけで、これほどまでに騎士団を変えてしまうとは」


その声には、もはや疑念ではなく、畏怖に近い感情が込められていた。


「私は、ただの私ですよ。皆さんが、元々持っていた優しさや強さを、少しだけ引き出すお手伝いをしているに過ぎません」


「元々持っていた、だと。こいつらは、王都の騎士団からはじき出された、ならず者の集まりだ。優しさなんぞ」


「いいえ、違います」


私は、彼の言葉をはっきりと遮った。


「彼らは、傷ついているだけです。あなたと同じように」


私の言葉に、ギデオンさんは息を呑んだ。

彼の瞳が、激しく揺れる。


「俺と、同じ」


「はい。先代様と、多くの仲間を失ったあなたの悲しみは、どれほど深いものだったでしょう。そして、戦うための腕を失ったあなたの絶望は。その苦しみを、あなたは誰にも打ち明けることなく、ずっと一人で耐えてこられたのではありませんか」


私は、彼の心の奥底にある、最も深い傷にそっと触れた。

ギデオンさんは、何も答えられなかった。

ただ、唇を固く結び、悔しそうに顔を歪めている。

その表情が、彼の苦しみの深さを物語っていた。


「あなたに、何がわかる」


長い沈黙の末、彼は絞り出すようにそう言った。


「わかりません。あなたの痛みを、完全に理解することなど、誰にもできないでしょう。でも、私は知りたいのです。あなたのことを。そして、あなたの力になりたい。そう、心から願っています」


私は、彼の目をまっすぐに見つめて言った。

ギデオンさんは、私の視線から逃れるように顔をそむけた。そして、何も言わずにその場を立ち去ってしまった。

彼の背中は、今まで見た中で、一番小さく見えた。

彼の頑なな心の氷も、いつかきっと、溶かすことができるだろう。

私は、そう信じていた。


そして、その日の夜。

いつものように、私は夕食の席でアシュトン様を部屋に誘い、そして断られた。

部屋に戻り、一人でテーブルに向かい本を読んでいると、控えめなノックの音がした。

エマかと思い、「どうぞ」と声をかける。

しかし、開かれた扉の向こうに立っていたのは、予想外の人物だった。


アシュトン様だった。

彼は、気まずそうに部屋の入り口に立ったまま、中に入ろうとしない。


「茶は、まだあるのか」


ぼそりと、彼は呟いた。

私は驚きを表情に出さないように、精一杯の笑顔を作った。


「はい、もちろんです。どうぞ、お入りください。今、温かいものを淹れ直しますね」


心臓が、早鐘のように鳴っている。

何日も、何日も続けた、静かな誘い。

彼が、ついに自分の意志で、この部屋を訪れてくれたのだ。


彼は、ぎこちない足取りで部屋に入ると、私が用意していたテーブルの、向かい側の椅子に深く腰掛けた。

私はエマに合図して新しいお茶を運ばせると、彼の前のカップに、そっと注いだ。

湯気が、穏やかに立ち上る。

部屋には、沈黙だけが流れていた。


私は、無理に話しかけようとはしなかった。

彼が、何かを話したくてここに来たとは限らない。

ただ、一人でいることに耐えられなくなっただけなのかもしれない。

今は、この時間を共有するだけでいい。

私は、自分のカップを手に取り、お茶を啜った。


彼も、少し躊躇った後、カップに手を伸ばした。そして、一口だけ、お茶を口に含んだ。

それから、長い、長い沈黙が続いた。

私は、テーブルの上に広げていた歴史書に視線を落とす。

それは、数年前にこの地で起こった、大規模な魔物の侵攻について書かれたページだった。

先代辺境伯が、戦死したあの戦いだ。


「それを、読んでいたのか」


不意に、アシュトン様が呟いた。

彼の視線が、本のページに注がれている。


「はい。この土地の歴史を知りたくて」


私は、静かに答える。

彼は、どこか遠くを見るような目で、続けた。


「歴史、か。俺にとっては、つい昨日のことのようだ」


その声には、押し殺したような、深い痛みが滲んでいた。

彼は、初めて私に、自分の内側のかけらを見せてくれた。

私は、慎重に言葉を選んだ。


「とても、激しい戦いだったと記されていますね」


「ああ。多くの者が死んだ。親父も、部下たちも。俺が、未熟だったせいで」


彼の声が、かすかに震える。

罪悪感。

それが、彼を縛り付けている最も重い鎖なのだろう。


私は、彼の言葉を否定しなかった。

安易な慰めは、かえって彼を傷つけるだけだ。


「ご自身を、責めていらっしゃるのですね」


私は、ただ彼の感情を映す鏡になる。

彼は、驚いたように私を見た。

その灰色の瞳が、わずかに見開かれている。

誰も、彼の罪悪感を正面から受け止めてはくれなかったのだろう。

「あなたのせいではない」「仕方がなかった」という言葉で、彼の本当の気持ちから目を逸らさせてきたのかもしれない。


「当たり前だ。俺が、あいつらを死なせたんだ」


「そのように感じていらっしゃるのですね。大切な方々を亡くされた上に、ご自身を責め続けなくてはならない。それは、本当に、お辛いことだと思います」


私は、彼の痛みに寄り添う。

アシュトン様の呼吸が、少しずつ荒くなっていくのがわかった。

彼の固く閉ざされた心の扉が、ほんの少しだけ、軋む音がしたような気がした。


彼は、何かを言おうとして、しかし言葉にできず、固く唇を結んだ。

その時、部屋の外から、騒がしい声が聞こえてきた。


「大変です。見張りの兵士から報告が」


慌てた様子の兵士が、部屋の扉を叩く。

アシュトン様は、はっと我に返ったように表情を険しくし、低い声で入室を許可した。


「どうした、騒がしい」


息を切らして駆け込んできた兵士は、アシュトン様と、同じ部屋にいる私を見て一瞬戸惑った。しかし、すぐに敬礼し、叫ぶように報告した。


「はっ。魔物の森の方面から、大規模な魔物の集団が、こちらに向かってきております。その数、およそ五百」


「なんだと」


アシュトン様が、鋭く立ち上がる。

部屋の空気が、一瞬で凍りついた。

大規模な、魔物の襲来。

この辺境に、再び悪夢が訪れようとしていた。


アシュトン様の顔から、血の気が引いていく。

その瞳には、あの日の絶望が、再び色濃く映し出されていた。

彼の体が、かすかに震えている。


「また、だ。また、俺は」


トラウマが、彼を苛んでいるのだ。

このままでは、彼は指揮を執ることすらできないかもしれない。


私は、静かに立ち上がった。

そして、絶望に囚われている彼の前に、そっと歩み寄る。

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