無能だと捨てられた第七王女、前世の『カウンセラー』知識で人の心を読み解き、言葉だけで最強の騎士団を作り上げる〜心を閉ざした辺境伯様と辺境改革をしていたら、祖国が助けを求めてきましたが、もう遅いです〜

☆ほしい

第1話

ひやりと冷たい石の壁に、私は背中を預けた。

固く閉じた扉の向こうから、遠く騒がしい音が聞こえてくる。


今日はたしか、兄である第一王子の婚約者を発表する祝宴のはずだ。

私、リリアーナ・フォン・エルミートは、このエルミート王国の第七王女である。

しかしその祝宴に、私が招かれることはない。


物心ついた頃から、私はこの『北の塔』と呼ばれる場所で暮らしてきた。

理由はとても、はっきりしている。

私にはこの国で最も大切にされる『魔力』が、全くないからだ。


王族なのに魔力を持たない『無能』が、私への評価だった。

父である国王陛下や、兄姉たちが私に与えたものだ。


与えられる食事は日に一度だけで、冷え切ったパンと水だけだった。

まともな教育も受けられず、ただ息を殺して生きている。

そんな存在が、今の私なのだ。


「……寒い」


思わずもれたつぶやきは、がらんとした石の部屋にむなしく響いた。

すり切れた薄い毛布を肩にかけ直すが、すきま風が体温をうばっていく。


窓の外は、すでに闇に包まれていた。

星の光だけが、地上を冷たく見下ろしている。


あの華やかな王城の中で、私のことなど誰も気にしていないだろう。

寂しいとか悲しいとか、そんな感情はとうの昔にすり切れてしまった。

ただ、生きるために生きる。

そんな毎日が、続くだけだった。


不意に、強い寒気が背中をかけ上がった。

頭が割れるように痛み、視界がぐにゃりとゆがむ。


「……っ」


立っていることすらできなくなり、私はその場に崩れ落ちた。

石の床の冷たさが、薄いドレスを通して直接伝わってくる。


意識が、急速に遠のいていくのがわかった。

このまま、死ぬのかもしれない。

そう思った。


何の価値もなく、誰からも必要とされない人生だった。

それでも心のどこかで、あきらめきれない何かが叫んでいる気がした。

熱にうなされ、ぼんやりする意識の中で、私は夢を見ていた。

全く別の人生の記憶が、激しい流れとなって流れ込んでくる夢を。


高いビルが立ち並ぶ、見たこともない街。

鉄の箱が道を走り、人々は色とりどりの服を着ていそがしそうに行き交う。

その中で私は、『臨床心理士』として働いていた。


相談者の話に耳をかたむけ、心を閉ざした人の扉を辛抱強く叩く。

傷ついた心に寄り添うのが、私の仕事だったのだ。

たくさんの知識と、数えきれないほどの経験があった。

人の心の動きを分析し、言葉によっていやしへと導く技術を持っていた。


働きすぎて倒れ、短い人生を終える最後の瞬間まで、私は誰かの心と向き合い続けていた。

そうだ、それが前の私だったのだ。


「……そうだ、私は」


次に目を覚ました時、熱はうそのように引いていた。

だが頭の中に流れ込んできたたくさんの記憶は、現実として私の中に根づいていた。

私はリリアーナ・フォン・エルミートで、同時に前世の記憶を持つ人間なのだ。

混乱はしたが、それ以上に自分の状況を客観的に見られるようになった。

これは『心理的虐待』であり、育児放棄を意味する『ネグレクト』だ。


長い間の隔離と無視によって、私の自分を大切に思う心はとても低くさせられていた。

栄養不足と悪い環境が、心と体の成長にどれほど悪い影響をおよぼすか。

前世の知識が、今の私をはっきりと教えてくれた。

今までは、ただ無力に耐えることしかできなかった。

だが今の私には知識があり、人を動かす『言葉』の力がある。


その日の午後、固く閉ざされていた扉が、珍しく大きな音を立てて開かれた。

現れたのは宰相の側近を名乗る、いかにも役人という感じの男だった。

彼は私をちらりと見ると、何の感情もない目で告げる。

その目は、まるで価値のない物を見ているかのようだった。


「第七王女リリアーナ殿下にご報告いたします。この度、殿下とグレイウォール辺境伯、アシュトン・グレイウォール様との婚姻が決定いたしました」


「……グレイウォール、辺境伯?」


聞き慣れない名前に、私は問い返す。

男は面倒くさそうに顔をしかめ、続けた。


「はっ。エルミート王国北の果て、魔物の森と国境を接する極寒の地をおさめる方でございます。三日後にはご出発いただきますので、そのおつもりで」


それは、報告というよりは命令だった。

私の気持ちなど、最初から存在しないかのように話は進められる。

北の果て、極寒の地、魔物の森。

それは、事実上の追放と同じ意味だった。


厄介払いとして、危険な辺境へ送られるのだ。

おそらく、第一王子である兄が考えたことだろう。

自分の婚約というめでたい話の邪魔になる、魔力なしの妹の存在が目障りだったに違いない。

前世の記憶がなければ、私はきっと絶望していただろう。

だが、今の私は違った。


臨床心理士としての考えが、この状況を冷静に分析していた。

これは『環境の変化』であり、長年続いた閉じられた状況からの脱出だ。

たとえそれが危険な場所でも、新しい人間関係を作れる可能性がある。

私にとって、それはまぎれもない『機会』だった。


「承知いたしました。つつしんでお受けいたします」


私がおだやかにそう答えると、役人の男は意外そうな顔をした。

泣きわめいて断るとでも、思っていたのだろう。

彼は一瞬だけとまどいの表情を見せたが、すぐに無表情に戻る。

そして、おじぎをして部屋を出て行った。


扉が閉まる音を聞きながら、私はそっと息を吐く。

ここからが、私の新しい人生の始まりだ。


三日後の朝、私は塔の前に用意された一台の質素な馬車へと案内された。

見送りに来る王族は、もちろん誰もいない。

侍女たちが、遠くからささやき合っているのが聞こえてくる。


「無能者が、やっといなくなるわ」

「辺境で、魔物に食われればいいのに」


前の私なら、その言葉の一つ一つに深く傷ついていただろう。

だが今の私には彼女たちの言葉が、自分の方が上だと確かめるための攻撃にすぎないと理解できた。

彼女たちもまた、この王宮というゆがんだ環境の被害者なのかもしれない。

そう思うと、不思議と怒りはわいてこなかった。

私が持っていくことを許された荷物は、今着ている古いドレスと毛布だけだ。

私は馬車に乗り込む前に振り返り、宰相の側近に一つだけ願い出た。


「お願いがございます。塔の私の部屋にある、古い本を一冊だけお許しいただけないでしょうか」


それは、この塔に最初から置かれていた本だった。

誰の物かもわからない、ほこりをかぶった本だ。

文字の練習のために、何度もくり返し読んだ、唯一のなぐさめだった。

高熱を出した日、私はその本を抱きしめていた。

前世の記憶がよみがえる、きっかけになった本だ。


「……くだらん。だが、まあよかろう。すぐに持ってこさせろ」


役人は吐き捨てるように言い、部下に指示を出す。

やがて一人の兵士がその本を無造作に持ってきて、私に手渡した。

私はその本を大切に胸に抱き、馬車に乗り込んだ。

御者がむちを鳴らすと、馬車はゆっくりと動き出す。

生まれ育った王城が、みるみるうちに遠ざかっていった。


これから向かうのは、誰もが行きたがらない危険な辺境だ。

待ち受けているのは、心を閉ざした『氷の辺境伯』と呼ばれる人物である。

だが私の胸には不思議なほどのおだやかさと、そしてかすかな期待があった。

人の心をいやすのが、前世の私の仕事だった。


この世界でも、きっと私にできることがあるはずだ。

言葉の力は、魔力にも劣らない。

使い方しだいでは、それ以上の奇跡を起こせる。

私は、これから出会うだろう人々を思い浮かべた。


辺境への旅は、想像以上に大変なものだった。

王都のきれいな道はすぐに途切れ、馬車ははげしく揺れ続けた。

護衛としてつけられた数名の騎士たちは、私に一切話しかけてこない。

それどころか、まるで汚い物でも見るかのような視線を向けてくる。


「ちっ、なんで俺たちが『無能』の姫様の護衛をしなきゃならんのだ」

「辺境伯も気の毒なことだ。こんな役立たずを、押しつけられるとはな」

「どうせすぐに凍え死ぬか、魔物に食われるのが最後だろうよ」


彼らは、私に聞こえるようにわざとそんな言葉を交わしていた。

これも一種の、弱い者への攻撃だ。

自分たちの不満や不安を、弱い立場の私に向けている。

私は何も答えず、ただ静かに座席に座り、彼らの様子を見ていた。

彼らの装備は立派だが、どこか手入れがされていない。

表情には、あせりと疲れの色が濃く浮かんでいた。


おそらく、こんな役目を押しつけられたことへの不満だけではないのだろう。

辺境へ向かうこと自体に、強い恐怖を感じているのだ。

彼らもまた、いやしを必要としているのかもしれない。

何日も馬車に揺られ、景色はだんだんと寂しいものに変わっていった。

緑はなくなり、ごつごつとした岩と、枯れた木々ばかりが目立つようになる。

空気は日に日に冷たくなり、薄いドレスでは寒さを防げなくなってきた。

護衛の騎士たちも口数はさらに減り、誰もがいらだちを隠せずにいた。


そんなある日の夕暮れ時、野宿の準備をしている時だった。

一人の若い騎士が、たき火の火の粉を上官のマントに飛ばしてしまった。


「この間抜けが、何をやっている!」


上官のどなる声が響きわたる。

若い騎士の顔が、恐怖でこわばった。


「も、申し訳ありません!」


「謝って済むか、このマントがいくらすると思ってるんだ!」


殴りかからんばかりの勢いで、上官が詰め寄る。

周りの騎士たちは、見て見ぬふりをしている。

このままでは、暴力にまでなってしまうだろう。

私は馬車を降り、彼らに近づいた。


「お待ちください」


私の声に、その場にいた全員の視線が一斉に突き刺さる。

上官は、いまいましそうな顔で私をにらみつけた。


「なんだ姫様、口出しなさるおつもりか」


「いいえ。ただ、彼を許してあげてはいただけないでしょうか。長旅の疲れで、注意力がなくなるのも無理はありません」


私はできるだけおだやかな声で、ゆっくりと話した。

相手を刺激しないように、言葉を選ぶ。

これは、カウンセリングの基本だ。


「それに、あなた様のマントを心配なさるお気持ち、お察しいたします。とても立派なマントですもの、きっと大切なものでしょう」


私は上官の怒りそのものではなく、その裏にある『マントを大切に思う気持ち』に注目した。

そして、その気持ちを認めてあげた。

自分の感情を理解されたと感じたのか、上官の険しい表情が少しだけやわらぐ。


「……ふん。当たり前だ、これは陛下からいただいた…」


「まあ、そうなのですか。それは素晴らしいですね。そのような大切なものを汚されそうになったのですから、お怒りになるのも当然です」


私は彼のプライドを傷つけないように、さらに言葉を重ねた。

彼の怒りの勢いが、だんだんとなくなっていく。

しばらくの沈黙の後、上官は気まずそうにせきばらいをした。

若い騎士に向かって、吐き捨てるように言う。


「…ちっ。今回は姫様のお言葉にめんじて許してやる。次はないぞ」


そう言って、彼はたき火から離れていった。

残された若い騎士は、ぼうぜんと私を見つめていた。

やがて、深く頭を下げる。


「あ、ありがとうございました、殿下…」


「いいえ。あなたも、お疲れでしょう。少し休んでください」


私は小さくほほえんで返し、馬車へと戻った。

他の騎士たちが、何か言いたげにこちらを見ているのを感じる。

ほんの少しの変化だが、確かに何かが変わり始めた。

言葉の力は、ここでも通じるのだ。

私は凍える手で、胸に抱いた古い本をにぎりしめた。


その日から、騎士たちの私に対する態度は、少しだけやわらかくなったように感じられた。

あからさまな悪口は、聞こえなくなる。

食事の時には、ほんの少しだけ私の分が多くなることもあった。

彼らが私に心を開いたわけではないが、小さな認識の変化が生まれただけだ。

それでも、それは大きな一歩だった。


そして長い長い旅の終わりは、突然やって来た。

馬車が急に速度を落とし、窓の外を見ていた私は息をのんだ。

地平線のかなたに、巨大な灰色の壁が見える。

その向こうには、天を突くかのように鋭くとがった、黒い岩山がそびえていた。

あれが、グレイウォール辺境領だ。

空気はまるでガラスの破片のように冷たく、肌を刺す。

空は、どんよりとした鉛色におおわれていた。


王都の華やかさとは、何もかもが違う。

厳しく、荒れ果てた世界だ。

馬車が城門をくぐると、そこには活気のない光景が広がっていた。

石だたみの道を行き交う人々は皆、厚手の毛皮をまとい、厳しい表情で足早に歩いている。

その目は、誰もが険しかった。

私たち一行を、あからさまな敵意と警戒心で見つめている。

彼らの心は、この土地の凍てついた大地と同じように、固く閉ざされているのだ。

馬車は、領地の中心にそびえる城の前で止まった。

城というよりは、ようさいと呼ぶ方がふさわしい。

飾りなど一切ない、実用性だけを考えた石造りの巨大な建物だ。

護衛の騎士団長が扉を開け、私に降りるようにうながす。

私が馬車から降り立つと、城の大きな扉がきしむような音を立てて開かれた。

中から現れたのは、一人のたくましい男だった。


年の頃は、四十代だろうか。

顔には深いしわが刻まれ、片方のそでがむなしく揺れている。

左腕を、失っているようだ。

その鋭い目は、まるでえものを射ぬくかのように、私をまっすぐに見ていた。


「第七王女リリアーナ殿下におかれましては、長旅ご苦労様でした。俺は、グレイウォール騎士団副団長、ギデオンと申します。当主、アシュトン様がお待ちです。こちらへ」


彼の声は低く、感情の動きが全く感じられない。

歓迎の言葉を口にしながらも、その全身からはあからさまな拒絶と警戒心が出ていた。

私はうなずき、ギデオンと名乗った男の後に続く。

冷たく、長い廊下を進んだ。

壁には松明がかかげられているだけで、窓はほとんどない。

すれ違う兵士や使用人たちも、皆同じように無表情だった。

私たちを、ちらりと見るだけだ。


やがて一番奥にある、他よりも少しだけ大きな扉の前でギデオンが立ち止まった。


「アシュトン様。リリアーナ殿下がお見えになりました」


中から、返事はなかった。

ギデオンはためらうことなく、重い扉を押し開ける。

部屋の中は、薄暗かった。

暖炉に燃える火の明かりだけが、壁に長い影を落としている。

その部屋の中央、大きな椅子の前に、一人の男が背を向けて立っていた。

窓の外の、鉛色の空をただじっと見つめている。

その背中は、あまりにも多くのものを背負っているように見えた。


男が、ゆっくりとこちらを振り返る。

その瞬間、私は息をのんだ。

手入れされていない黒い髪に、鋭く、しかしどこかうつろな灰色のひとみ。

整っているはずの顔には、痛々しい傷跡がいくつも刻まれている。

そして何より彼がまとう空気は、この北の地そのもののように、凍てついていた。

彼が、アシュトン・グレイウォール。

『氷の辺境伯』で、私の夫となる人だ。


彼は私をちらりと見たが、そのひとみに何の感情も映らなかった。

まるで、道端の石でも見るかのようだ。

やがて彼は、低く、乾いた声でつぶやいた。


「……来たか」


たった、それだけだった。

歓迎も、自己紹介も、何もない。

ただ事実だけを告げる、感情のこもらない響きだった。

私はこの人が深い絶望の中にいることを、一目で理解した。

彼の心は、厚い氷の壁でおおわれている。

誰にも触れさせないように、自分自身を守るために。

私の新たな人生は、この凍てついた心をとかすことから始まるのだ。

私は彼に向かって、静かにおじぎをした。


「リリアーナ・フォン・エルミートと申します。本日より、お世話になります」


私の言葉に、彼は答えなかった。

ただ再び窓の外に視線を戻し、終わらない冬のような景色を眺め続けるだけだった。

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