第30話 星と月のあいだに

朝は来ていた。けれど、音の少ない朝だった。

灰が薄く降り、屋根の輪郭は昨日よりも柔らかい。祠の札はまだ沈黙をつづけ、紙鳴りの代わりに布の匂いだけがした。風は、拍を覚えたまま、広場の端から端へゆっくり歩くように移動し、角で二度だけ止まってから、また歩き出す。


リュミエールは広場の中央にしゃがみ込んで、地面に散った破片を指で撫でた。破片はガラスではなく、光の殻だった。昨夜、空亡の白い眼孔を覆った星布の繊維がほどけて、薄い殻になって散ったのだ。殻の内側には、砂粒ほどの光点が残っている。触ると、指の腹にぬるい温度が移った。


「――星の種だよ」


彼女が言うと、カナタは頷いた。砂時計の鎖は胸骨の上でほどけたまま、彼女の指先にまとわりついている。夜が明けきる前、カナタは一度も鎖をきつくは握らなかった。ただ、撫でて位置を確かめるだけで、時間の道を太いまま保った。


「落とす?」


「ううん。座らせる」


二人は広場の欠けた石目に沿って、光の殻を一つずつ“座らせた”。座らせるというのは、置くのと違う。置けば、重心は地面のほうへ落ちる。座らせれば、重心は自分の中心に戻る。座らされた星の種は、灰の中でゆっくり呼吸し始め、呼吸のたびに淡い音を立てた。音は鈴より軽く、砂よりも丸い。


市場の骨組みは、まだ“数式”の名残を残していた。鉄でありながら、小数点の気配が抜けない。近づくと、柱の中で不等号がわずかに震えているのが分かる。マリーナがそこに触ろうとして、手を引いた。


「触って、壊れない?」


「触らないでいると、壊れっぱなしになる」


カナタはそう言って、柱に“順序”を挿した。砂の細線で〈“重さが下、屋根が上、客は真ん中、風は外から内”〉と四つの位置だけを書く。文字ではない。位置だ。位置が入ると、柱の中の小数点がにじみ、記号が鉄へ戻る。戻るとき、柱は短く音を鳴らし、その音が広場の椅子――未来の座――へ吸い込まれた。吸い込まれた音は、座面の弾力になって返ってくる。


灯台の膝に据えた白い椅子は、昨夜より背もたれが低くなっていた。低くなった分、座面は広い。誰でも座れる高さ。リュミエールは杖を横に置き、椅子の縁を撫でた。縁は冷たく、すぐ温かくなる。温かくなる速度が、彼女の胸の拍と一致した。


「未来は静か?」


「うん。ほとんど、音だけ」


「それでいい」


カナタは砂時計を逆さにする代わりに、真横に倒した。喉の部分に指を入れて、砂の流れを“歩かせる”。落ちるのでも、登るのでもない。歩く。砂が歩くと、町の影が薄く“伸び”た。伸びた影は冷えず、熱をもたない。ただ、場所の輪郭をなぞる。影に沿って、子どもたちが足を出した。歩いてみると、足首は沈まず、膝だけが少し重くなる。重さは、戻るときの“合図”になる。


港では、海が拍に合わせて息をしていた。《ひかりのしずみ》は水底で反響を減らし、音を床に変えている。床は硬くはないが、抜けない。抜けない床は、船を支え直す。昨夜の崩壊で、船の舳先は空へ向いていた。今朝は、舳先が海へ戻り、ロープは張りすぎず、緩みすぎず、ちょうど良い。


空は裂け目を閉じつつあった。白い目は瞼を覚え、ひどくゆっくりと、礼儀を思い出すようにまばたきをくり返す。まばたきのたびに、薄い灰が一度だけ舞い上がり、すぐ落ちる。空亡の声は聞こえない。声がないのは、退散ではない。眠りだ。眠る破壊は、起きる破壊より、扱いを知っている。


「壊れた分、座り方を増やすよ」


リュミエールは広場に跪いて、石の割れ目に星の種を押し当てた。種はひと息だけ光って、割れ目に沿って細い線を伸ばす。線は根ではない。筋だ。筋は、次に笑う位置を忘れないための印だ。彼女の指先は昨夜から薄い。指が先に動き、意識があとから付いてくる。付いてくるのをあえて遅らせる。遅いほうが、無理がない。


アオイが返礼紙を抱えてやって来た。昨日までの紙には言葉が書かれていたが、今朝の束は空白だ。空白は燃えない。燃えないから、長持ちする。アオイは紙を一枚ずつ、広場の端に“座らせて”歩いた。紙は座面であり、戸でもある。開けっぱなしを避けるための、薄い戸。


老婆は“間の辞典”を胸に抱いたまま、まだ開かない。開かないまま、膝で二度叩いた。叩くたび、辞典のなかの拍が温まり、温まった拍が屋根へ、港へ、灯台へと配られる。書き記すのは夜だ。朝は、座る。


レトは笛を持たず、肩を使うことにした。四音分の肩の上下。音は出ないが、広場の空気が拍を思い出し、屋根の瓦が一枚だけ鳴って、すぐ黙る。黙るのは、悪いことではない。黙る場所があると、歌が焦げない。


マリーナは凍ったままのパン生地を持ち上げ、祠の影の近くでゆっくり回した。影はもう刃ではない。背もたれだ。背に置くと、凍りの表面に“焼き目の記憶”がじわりと浮かび、完全に解ける前に、粉の匂いが戻ってきた。火を入れなくても、食べられる。食べるというより、口の中で“座らせる”。彼女は試しにひとかけらを噛み、噛む回数を三本の指で示した。


昼までに、町は“歩く”ことを思い出した。走らない。走らないで、歩く。歩くと、壊れかけの戸口が“開く前に止まる”。止めかけは、昨日学んだ礼儀だ。止め切ると閉じる。閉じると、壊す合図になる。止めかけで置く。置かれた戸は、風に対して頑固で、命令に対して柔らかい。


昼下がり、空の灰が薄くなると、灯台の上の白い椅子の背もたれが、さらに低くなった。低くなっても、座面は広いまま。リュミエールとカナタはそこへ並んで座った。町全体が深く息を吐き、海が一度だけ笑う。《ひかりのしずみ》は床として鳴り、鳴り終わる前に鳴り止む。鳴り止みは、約束だ。次があるという約束。


「――空亡は、眠った」


カナタが言った。眠りの深さを測るため、彼女は砂時計の喉を撫でる。砂は歩くのをやめて、ほんの少し落ちた。落ちた一粒が、椅子の脚に触れて止まった。止まった粒は、杭になり、杭は道になり、道は未来の方角だけを指した。方角は一つでいい。速度は多いほどいい。


「眠りの見張りは、誰がする?」


「風。――拍を覚えたから」


広場の角で、風が低く首肯した。人の言葉ではない。けれど、拍は返事をする。返事があると、命令は疲れる。疲れた命令は、眠い。


夕方前、壊れた屋根を集める作業が始まった。屋根は落ちていない。座っている。座っているものは、持ち上げやすい。レトと子どもたちが三人で向きを合わせ、マリーナが端を支え、アオイが返礼紙の上に一枚ずつ“置く”のではなく“座らせて”いく。座らせられた屋根は、次の場所でまた座る用意ができた板になる。板は道具だ。道具は、命令ではない。使い方が先で、名があと。


灯台の膝から見下ろすと、町の動きが、昨日までの“暮らし”に似ている。似ているが、少しずつ違う。誰も急がない。誰も立ちっぱなしで号令をかけない。祠の前に輪ができ、老婆が二度だけ膝を叩いたあと、辞典をようやく開いた。開いた頁はまだ空白だ。空白は、夜のために置かれる。


「書くのは、暗くなってから。――朝から昼までは、『座り』で埋めるものだよ」


老婆の声は低く、広場の石に落ち付いた。落ちた声は、石の中で拍に変わる。拍に変わった声は、誰のものでもない。誰でも使える。


日が傾き、港の水面が金色をやめるころ、空の上のほうで細い光の粒が動いた。星ではない。星の種が、空へ戻る稽古を始めたのだ。光は一度だけ止まり、灯台の椅子の背に小さく触れてから、また上がっていく。上がる速度は遅い。遅いのに、確かだ。


「ねえ、リュミエール」


「なに」


「夜は、まだ嫌い?」


「……少しだけ、好きになった」


「どうして?」


「座れるから」


二人は笑った。笑いは声ではない。欄干だ。欄干があると、見下ろさないで済む。見下ろさない笑いは、町の高さを一定に保つ。高さが一定だと、風はぶつからない。ぶつからない風は、歌になる。


祠の前で、アオイが一枚だけ紙に言葉を挿した。長い文章ではない。行も少ない。紙には、たった一行だけ。


『夜が続くかぎり、明日はある』


紙は祠の札の下に座り、風が端をめくって確かめ、すぐ戻す。戻した風は、灯台のほうへ歩き、背もたれの高さを指で測った。もう、見上げずに届く高さだ。


空は、藍の前の灰をやめて、薄い金から深い金へ、そして藍へ移る準備を始める。準備は、儀式ではない。順序だ。順序があると、時間は礼儀を思い出す。礼儀があると、破壊は疲れる。


灯台の上で、リュミエールは星布をゆっくりたたんだ。たたむというより、撫でて重ねる。布は軽い。軽いのに、重いものを止めた記憶を保持している。保持している記憶は、重さにならない。重さにならない記憶は、歌になる。彼女は布を胸に当て、目を閉じた。未来は静かだ。静かだけれど、空白ではない。白い座面の触覚だけが、地図のように広がっている。触覚の地図は、方向を教えない。座り方だけを示す。


カナタは砂時計を起こして、鎖を指先で“結び直す”。結びは固くない。ほどけるための結びだ。ほどける結びが胸の前にあると、息が深くなる。息が深いと、時間は歩幅を合わせてくれる。合わせた歩幅は、町に移る。町の歩き方が、今日の壊れ方のままにならない。


「灯り、どうする?」


マリーナが問う。灯台のふもとの戸口に、古いランタンが三つ残っている。油は少ない。夜を全部照らすだけの明るさはない。


「全部は照らさない。――座る場所だけ、灯す」


カナタはランタンを二つだけ点け、ひとつを祠の前の輪へ、もうひとつを広場の白い椅子の足元へ置いた。灯りは高くない。低い灯りは、見下ろす視線を作らない。見上げる視線も作らない。視線が水平だと、会話は命令にならない。


空は藍になり、最初の星が上がる。昨夜の星とは違う。昨夜は武器のように光った。今夜の星は、道具のように光る。使い方のほうが先に見える。星は、町のどの屋根にも等しく到達するのではない。座面の上だけに降りる。座面がなければ、降りない。降りない星は、待つ。待てる光は、壊さない。


《ひかりのしずみ》が、床として低く鳴る。鳴り終える前に、灯台の上の布が波を打ち、風がその波を数える。数え間違いはない。間違う前に、止めかけで置く。置かれた拍は、合唱の準備をする。


リュミエールは立ち上がり、灯台の縁から町を見た。見下ろさない高さだ。見下ろさない目つきで、彼女は言った。


「夜は、もう怖くないね」


「夜があるから、星が降る」


カナタの声は低く、広場の石に沈んでいく。沈んだ声が拍に変わり、その拍が屋根へ上がり、屋根に座っている人の背に当たって、背もたれの角度を“ちょうど良く”する。


空亡は、眠っている。眠っているのに、世界から消えてはいない。消えないものは、また起きるかもしれない。けれど、起きる前に“座らせる”方法を、町は覚えた。覚えたことは、奪われにくい。


祠の老婆が辞典の空白の頁を撫で、墨を含ませた筆を置いた。まだ書かない。夜が深くなってから、少しずつ書く。書く内容は決まっている。命令ではなく、位置。教訓ではなく、座面。英雄譚ではなく、だいじょうぶの場所。


星は増える。増えるのに、騒がしくない。増えるたびに、広場の白い椅子にうっすら光が降り、座面の温度がわずかに上がる。誰かがそこに座り、誰かが隣に座り、誰かが肩で拍を取る。子どもが笑い、笑いは先。名があと。足あとがあと。戻る歌。沈む歌。合奏。――順序は、今日も町の骨へ沈む。


灯台の上で、リュミエールは星布を空へ返す準備をした。布はほどける。ほどけると、夜の高いところで薄い帯になって広がり、見えない欄干になる。欄干が空にあれば、星は見下ろさない。見下ろさない星は、降りるときに人を選ばない。選ばない光は、礼儀を覚える。


カナタは砂時計を胸の前で軽く揺らし、鎖を指一本ぶんだけ締めて戻した。締めたままにしない。時間を従わせない。従わない時間は、いっしょに歩ける。


二人は、灯台の膝から広場へ降りた。降りるというより、座りに行った。座って、同じ高さで息をした。風がその息を真似し、海が床で受け、地下の根が「ただ、いま」とうなずいた。


「旅は、終わり?」


アオイが聞く。


「終わったところと、始まったところが、同じ場所に座ってる」


リュミエールは笑った。カナタも笑った。笑いは声ではない。欄干だ。欄干は、ここにある。


夜は続く。

星は降り、月は詠う。――夜が続くかぎり、明日はある。

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星振りの魔女と月詠の魔女 桃神かぐら @Kaguramomokami

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