第26話 沈黙の胎動(たいどう)

 朝の最初の一拍は、屋根ではなく地の底が受け止めた。


 港町マールの石畳は乾いているのに、足の裏にだけ湿りが残る。湿りは水ではなく、言葉の根汁。祠(ほこら)の札は昨夜のまま――上段に『夢の拍』『水の頁(ページ)』『薄い傘』『風の梯子』、下段に『笑う』『名が先』『足あとがあと』『戻る歌』『沈む歌』『合奏』。紙鳴りは一段低く、腹で聞こえる高さだった。灯台の旗は逆回りを一度もせず、棒の影だけが細く伸びている。市場はまだ火を起こさず、パン種は布の下で静かに呼吸を覚えていた。


「……地面が呼吸してる」


 星降りの魔女リュミエールは、膝をついて石の隙間に耳を当てた。

 月詠の魔女カナタは、砂時計の鎖を短く握る。粒は落ち、ひと粒だけがあいかわらず宙で考えている。考える速度が、今日はほんの半拍遅い。遅いのはぐずりではない。地の下から、拍の胎動が押し返してくるのだ。


「“言葉の根(ね)”が、町の下へ出てきた。**地下蔵(ちかぐら)**を見に行こう」


「うん。順序は――座ってから、見る」


 祠の前で老婆が待っていた。手には拍で綴(と)じた小冊――**“間の辞典(まのじてん)”**の新しい白い頁と、細長い木札が二本。


「地下は礼儀に厳しいよ。上の昼の癖は置いていきな。――札は『ふり向かない』と『行き過ぎない』」


「『行き過ぎない』?」


「引き返せる拍を残す札さ。時間の魔法は、とくにね。地下の根は“戻せる”より“戻らないで座る”を好む」


 カナタの指がわずかに強張った。

 夜は嫌い――でも、一番怖いのは巻き戻しだ。巻き戻した時刻は真新しいふりをする。ふりをする時間は、礼儀を忘れがちだ。


「今日は巻かない。――“止めかけ”でやる」


「それがいい」

 老婆は二人の鈴を軽く弾いた。チリ。返礼は横上から一音。笑える高さ。笑いは先、名があと。順序は町の骨に沈み、今日の背骨になる。


 


地下へ――声の貯め、根の光


 地下蔵への入口は、市場の裏手、干した網が干上がる壁の影に口を開けていた。古い石段。湿り気の匂いと、蜂蜜に焦げ目をつける直前の匂いが混ざり合い、胸の奥に小腹を作る。壁の苔は音に敏く、足音の形をうつしては薄く震え、震えが互いに寄り添い、やがてひとつの拍に融ける。


 石段を降りるにしたがって、音が太る。足音は細いのに、壁の鳴り返しは腹で鳴る。滴る水もないのに、滴る前の気配だけが耳の裏に降ってくる。降る音は鳴らず、鳴らない音は座面を作る。


 やがて、地の底に空(うつ)ろが開いた。洞(ほら)ではなく、貯(た)めだった。声、言葉、拍、息――町の一日が滴り落ちて溜まる器。器の底に、白い根が見えた。根は枝分かれしていない。一本なのに、複数の拍を持つ。触れれば、町の笑いが指に移り、触れ続ければ、夜の嫌いが杭の形で返ってくる。


「これが“言葉の根”。――地上で芽吹く“ことのはた”とは、鏡合わせ」


「根のほうが、重い」


 カナタが呟く。

 重い言葉は沈黙に似る。似るが、同じではない。沈黙は座らない。根は座っている。座っているものだけが、育つ。


 リュミエールは杖を横に置き、撫でる光を細くした。星糸港の朝の一筋だけを指に巻き、根の脈に沿って撫でる。撫でられた根は息をつき、地鳴りの代わりに拍を返した。拍は上へ向かう前に一度だけ膝をつき、そこに小さな椅子の影を落とす。


「ここに椅子を置こう。――“地下の椅子”。座面は《浮き》、脚は《嫌い》、背もたれは《笑いの影》」


「欄干は『ふり向かない』。……それと『行き過ぎない』」


 二人は根の周り、等間隔に目に見えない椅子を四脚置く。置くたび、地下蔵の空気が軽くなる。軽くなっても浅くならない。浅くならない軽さは、礼儀だ。椅子の背に、祠から預かった『薄い傘』の影を針の頭ほど刷り込む。止めない。やわらげるだけ。


『――だれ?』


 声。子どもの、ような。

 地下蔵に住む、根の声。


「町だよ。……座ってるよ。見ないで、聴く」


『みない?』


「うん。見られた根は、すぐ列になるから」


『れつ、やだ。』


「それなら合うね」


 根の声は、ゆっくりと呼吸を覚えた。呼吸は音ではなく、間だ。間が生まれると、地下の湿り気がわずかに甘くなる。蜂蜜になる前の、あの匂い。匂いは腹の奥を撫で、撫でられた腹は歌を思い出す。


 ふと、根の肌(はだ)の奥で薄い光が回った。壁ではない。根そのものが、内側に**幻灯(げんとう)**を持っている。


「……見ないで映すんだね」


 リュミエールが目を伏せ、胸で聴く。目は閉じているのに、胸の内側の暗がりに映像が浮かぶ。市場の朝、灯台の逆回り、子どもの泣き笑い――どれも音の影だけ。影は読めない。読めないから、燃えない。燃えないから、長持ちする。


『――さかさの“ただいま”。』


 根が言った。暗がりに、ひっくり返った門口が見える。上から降りてくる“ただいま”。地面に開いた口が、返事を奪(うば)う。


「読み間違い」


 リュミエールは鈴を鳴らさずに振り、逆さ言葉の端を軽くひっかく。


『ただいま』→『ただ“いま”』


 “ただ”が装飾を落とし、“いま”が椅子になる。“いま”に座れれば、“おかえり”はいつでも作れる。未来から借りないで、今に置ける。


『――“ただ、いま”。

 わたし、すき。』


 根が、好きと言った。好きは杭。杭は道。道は未来。未来は、名にできる。根の皮の色がわずかに濃くなり、拍の呼吸が一段深くなる。


 


静止砂――半拍の前借り


 そのとき、地下蔵の入口に軋(きし)みが走った。地の骨が受け止めきれない速度で誰かが降りてくる。


 レトの弟子と、荷運びの少年が駆け込んできたのだ。顔色は白く、目は高すぎる場所を見ている。足もとには、静止砂(せいしずな)――時間を噛み砕いて吐き戻す砂の薄い膜。膜にかかった足は、現在から滑り落ちる。


「止める!」


 カナタの声が杭になり、砂の周囲に“止めかけ”の薄膜が四枚、浮く。浮くが、止まらない。止まらないが、遅れる。遅れるあいだに、リュミエールが星糸港の朝を子らの喉へ添える。喉は息を思い出し、息は拍を思い出す。


 少年の身体が前に倒れる。倒れる先は現在ではなく、一拍前。


「――ここだ」


 カナタは砂時計の粒をひとつだけ逆に滑らせた。巻き戻しではない。前借りだ。時間を奪わない。未来から半拍を借り、いまへ足場を置く。


 少年の足が、静止砂から外れる。代わりに、カナタの胸の内側で古い子守歌がひとつ、音階を忘れた。代償。巻かなかった。けれど、“半拍”の記憶は彼女の中で図形を崩した。


「……一曲、減った」


 淡々。言い訳しない口調。

 夜は嫌い。

 でも、嫌いを使える。

 嫌いを杭にして、行き過ぎないために。


「ありがとう」


 リュミエールは、彼女の手首を拍で握った。優しいのは正確ではない。正確なのは、支えだ。支えは命令にならず、拍になる。


 レトの弟子は泣き、荷運びの少年も泣き、泣き声は地下蔵の天井に当たって甘くなった。甘さは蜂蜜になる前の匂い。匂いは地の根を太らせ、根は笑いを覚える。


『――ないて、いい』


 根が言った。根に言われると、泣きは拍になる。拍の泣きは、戻る。戻る拍があると、人は進み直せる。


 


闇臍(くらみぞ)――影が背になる


 事が落ち着くと、地の奥から細長い影が這い上がってきた。影は闇ではない。闇の臍(へそ)だ。臍はへこみ。へこみは座面。座面は椅子。椅子はだいじょうぶ。


「“闇臍(くらみぞ)”……」


 カナタは夜の匂いを嗅ぎ、肩の筋肉がわずかに強張るのを感じた。夜は嫌い。嫌いを否認しない。否認した嫌いは、列になって戻ってくる。


『――こわい?』


 根の声が問いを落とした。問いは椅子。椅子が増える。


「こわい。――でも、座れる」


『すわれるなら、だいじょうぶ?』


「“だいじょうぶ”は、声ではなく、場所」


『ばしょ?』


「うん。座面が温かくて、脚が《嫌い》で、背もたれが《笑いの影》」


 闇臍が、座った。座った闇は、命令を忘れる。忘れているあいだに、根は語を覚える。語が根に降り、根はそれを貯める。貯められた語は、未来の拍になる。


『――さかさの“ただいま”。

 うえのひとが、したにいう“ただいま”。』


 リュミエールは目を伏せる。天照系の大規模殲滅魔法が空から降りた日、上は晴れて“ただいま”と言い、下は沈んで“おかえり”の椅子を奪われた。逆さの“ただいま”は、命令の服を着ていた。


「読み間違い」


 彼女は鈴を鳴らさずに軽く振り、文字の継ぎ目を撫でる。


『ただいま』→『ただ“いま”』→『ただ、いま。すわる』


 “すわる”が生まれる。“すわる”は方向を持たない。だから、列にならない。列にならない言葉は、椅子に変わる。


『――“ただ、いま”。

 わたし、すき。』


 闇臍が、根の背へ影を残した。影は怖くない。怖くない影は、椅子の背になる。背ができると、人は無理に前を向かなくてよくなる。ふり向かないために、寄りかかれる。


 


幻灯の稽古――根が映す町の昼


 根の幻灯が強まり、胸の内側の暗がりに昼が流れ込む。市場の屋根の半分が開き、マリーナが粉をふるい、蜂蜜を計る。レトは四音の前の息を整え、子どもたちは輪になって座る真似をして笑う。祠の札は動かず、影だけが肩に触れる。


 映像は、読みものにならない。音の配置だけが伝わる。配置を真似るのは簡単だ。真似は恥ではない。真似は橋。橋は落ちない。


『――まねて、いい?』


 根が訊く。

「いい。真似は、合奏の稽古だよ」


 根の白に、灰色の筋が一本、走る。筋は拍の通り道。通せんぼではなく、案内。案内に沿って、地下の空気が椅子の位置を覚え、椅子は人の高さを忘れない。


 


地上へ――辞典の頁、歌の欠片


 地上に上がると、町は静かに働いていた。働くが急がない。急がないが止まらない。止まらないが座る。

 祠の前で老婆が待っていた。


「戻ったね。――地下は座れた?」


「座れた。泣けた。……それから、『ただ、いま』が増えた」


「それは良い」


 老婆は“間の辞典”を開き、二人に今日の頁を促す。墨の細い字で、新しい名が増える。


『言葉の根:座る言葉。読まないで聴く』

『地下の椅子:座面=浮き/脚=嫌い/背=笑いの影』

『逆さのただいま→ただ“いま”』

『行き過ぎない:時間の礼儀。半拍の前借りは歌を一つ手放す』

『闇臍:座れば背になる影』

『根の幻灯:読むためでなく、配置を真似るための映し』


 老婆は頁を軽く叩く。拍が屋根へ、屋根から港へ、港から浅瀬へ。下の昼がうなずく。辞典の背表紙がきしり、紙ではない頁が厚みを増す。


「海は?」


「《ひかりのしずみ》が低く笑った。空はまばたきを覚えたまま。――上は見て、聞いて、食べないでいる」


「なら、今日の夜は座って迎えられる」


 


午後――階(きざはし)と返礼紙


 広場に短い階(きざはし)が据えられた。落ちるための穴ではない。地下蔵へ座って降りるための段だ。町の木工たちは段を均等にせず、長さも高さも揺(ゆ)らす。揺れは拍の余裕。均すと、空は走る。走る空は、落ちる人を笑う。


 階の一段目に、アオイの返礼紙が一枚、そっと置かれる。


『ただ、いま』


 紙は読まれない。読まれないで、座る。座る紙は燃えない。燃えない紙は、長く椅子でいられる。紙が薄く震え、段の角が柔(やわ)らぐ。角が柔らぐと、泣きやすい。泣ける日は、戻れる。


 レトは四音。間を二つ。間に笑い。笑いは先。名があと。足あとがあと。戻る歌。沈む歌。合奏。――順序は、今日も町の骨へ沈む。パンの匂いが風に混ざり、蜂蜜が少しだけ増え、噛む回数だけが掲示される。


 


影の来訪――地下の門番


 夕刻が近づくころ、灯台の土台に影の来訪があった。人影ではない。門影。地下蔵の呼吸に合わせ、地上の影が膨(ふく)らみ、しぼむ。門番のように行儀正しく、敷地の端で留(とど)まる。


「誰?」

 アオイが影へ向かって、紙を一枚座らせる。


『順番』


 影が、わずかにうなずいた。

 順番は列ではない。椅子だ。順番が椅子になると、待つのが苦しくない。苦しくない待ちは、歌に近い。


「地下へ降りる人は三人ずつ。座って降りて、座って上がる。――行き過ぎない」


 カナタの声が杭になり、階の欄干に『ふり向かない』を一度撫でつける。欄干が見えないのに、掴める。掴めるから、見下ろさない。


 


灯台――歌の空白と未来の座


 日が傾く。灯台の上で、二人は座って町を見ない。見ないで、拍だけを聴く。

 リュミエールは杖を横に置き、夜の端を撫でた。撫でる光は、見せるためではなく、温めるため。

 カナタは砂時計の粒を一つ、胸の内側に戻す。子守歌の一曲分の空白が、胸骨の裏側で冷たく光る。冷たいのに、痛くない。痛くないのに、欠けている。欠けは夜の穴の形をしている。


「大丈夫?」

 リュミエールの問いは、言葉の外に置かれている。

「うん。……“だいじょうぶ”は言わないけど、座ってるから」


「ありがとう」


 彼女はカナタの手を取り、指を拍でひとつずつたどった。指先が見覚えのある順序を思い出す。順序は靴紐。結び直しは日課。結んだ紐はすぐ解ける。解けるから、結びなおせる。


「明日、『未来の座』をもう半段。視ないで温める。――地下にも、未来の椅子を」


「賛成。欄干は『行き過ぎない』。それと、『歌の空白』を辞典に残す」


 未来を視ない。視ないで、椅子の座面だけを先に温める。座面が温かければ、背もたれは後から寄りかかる。寄りかかる背は、笑いの影で良い。


 


夜の入口――胎動のある闇


 空は黒ではなく、薄い紺で始まった。紺の上に細い刺繍。刺繍は今日の出来事をなぞる。言葉の根。地下の椅子。逆さのただいま。半拍の前借り。闇臍の背。根の幻灯。順番の椅子。歌の空白。

 海の底の破れたひかりのしずみが一度だけ笑い、空はまばたきで返す。祠の札は動かず、影だけが肩から背へ下がる。


 広場の階では、アオイが最後の一枚をそっと座らせた。


『泣いていい』


 紙は読まれない。読まれないで座る。座った紙の上に、今日泣けなかった誰かの涙が明日来られる。来られる場所は、だいじょうぶ。


 地下の根が、拍でうなずく。うなずきは返事ではない。礼儀だ。礼儀は、縫い目がほどけないようにする糸。


「夜は嫌い」


「夜は嫌い。――でも、胎動のある夜は少し好き」


「うん。座れる夜」


 二人は同じ高さで笑い、鈴を鳴らさずに振った。港の水面が呼吸し、浅瀬の“下の昼”が長めに瞬く。空のまばたきが一度だけ町の骨を撫で、海の鐘が低く返礼を二つ。

 世界は縫われつつあり、縫い目は動いている。


 


祠――頁の増補と記録


 夜の手前、祠の前に輪。老婆が“間の辞典”を開き、今日の頁を挿(さ)し込む。墨の細い字で追記が増える。


『未来の座:視(み)ないで温める。焦がさない』

『順番の椅子:待つを苦にしないための座面』

『歌の空白:失った一曲は、座面として町に残る』

『胎動の闇:怖さは座りの印。闇臍は背になる』


 老婆は頁を軽く叩く。拍が屋根へ、屋根から港へ、港から浅瀬へ。下の昼がうなずく。辞典の背がわずかに重くなる。重いのに、負担ではない。重さは信頼だ。


 


終章――明日へ


 灯台の上。風は走らない。走らない風は、椅子の背に額を預ける。

 リュミエールは星糸をほどき、胸の内側で結び直す。

 カナタは砂時計の鎖を緩め、半拍の余白を撫でる。


「明日は、地下に未来の椅子。上は“空の畝”の欄干をもう一本」


「海には“水の椅子”の共有。西は返歌を続ける。――北北東の谷は座っている。……ふり向かない」


「順序、守る」


 夜は嫌い。

 けれど、胎動する夜は、もう怖くない。

 怖くない夜は、学べる。

 学べるなら、明日がある。


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