第14話 未来を裂く光

 朝がほどけ、森に縫い直されていく。

 葉先の露がわずかに震え、沢の音は昨日より“順当”だった。

 輪の内側には旅草の青い匂いが薄く残り、輪の外側には“夜の冷え”がまだ骨の奥に触れる温度で漂っていた。


 リュミエールは小星盤を胸に押し当て、針の迷いを確かめる。

 針は北へ、なのに、ときどき半拍だけ横へ寄り道する。寄り道はすぐ戻るが、その“戻る前の記憶”が胸骨の裏で小さく疼いた。

 カナタは砂時計を立て、耳で砂の落ちる音を数える。

 落下はまっすぐ、だが最下部でひと粒だけ“上へ”跳ねる。上下が一瞬、入れ替わる。夜の癖が、朝の端にまだ残っている。


「……森の呼吸、二拍子がうっすら残ってる」


「落下の拍も同じ。戻りきってない。――杭、叩き直す?」


「叩こう。叩いてから、朝ごはん」


 薄い笑いで、緊張の結び目をひとつ緩める。

 昨夜の輪の縁を指でなぞり、星糸の端をもう一度だけ締め直す。

 カナタは四隅の“今”に軽く触れ、止めすぎない停止を置き直した。完全停止は夜に似すぎる。似ると、夜は入りやすい。


 包みを開けば、マリーナの平パンがふた切れ。

 冷めているのに、噛むと甘い。

 噛む回数は戻る回数。

 戻る回数を増やすほど、拍は太くなる。

 太い拍は、夜の“列”を鈍らせる。


「行こうか。……でも、今日は“戻る歌”、長めにしよう」


「賛成。名が先、足あとがあと、――笑う」


 短い節を二人で唱え、輪を畳む。

 輪は畳むが、印は残す。

 印は道の影。影があれば、迷っても戻れる。



 窪地を離れると、森の色が少し濃くなった。

 葉の重なりは音を吸い、土の湿りは匂いを押し上げる。

 押し上げられた匂いに、鉄の粉のような乾いた粒が混じっているのに気づく。


「夢核の“皮”が擦れた匂い」


「擦れた分、眠りは浅い。……目を覚ますの、早いかも」


 沢は順当に跳ね、石は昨日より乾いている。

 だが、風が一度だけ止まり、空気の奥で“低いうなり”が始まった。

 風ではない。

 水でもない。

 土が、夢のために息を吸う前の音。


「来る」


 カナタの声は短いが、落ち着いていた。

 砂時計を横倒しにし、砂の落ちる方向を“横”へ広げる。

 空間全体の動きが半拍、薄く遅れる。

 遅れの上から、リュミエールが星幕を薄く敷いた。夜の“硬い口”は柔らかい膜を噛み損ねる。


 ……それでも、地面は突き破られた。

 苔の下から黒い筋が束になり、鞭のようにしなる腕が土を押し分けて出てくる。

 一本、二本、三本――口の裂け目を持つものまで混じって。


「現像夢……夢が形で現れてる!」


 リュミエールの星糸が震え、小星盤の針先が喉を刺す。

 視界の周りで、まだ起きていない光景が無数に芽吹いては枯れた。

 ――マールの鐘が逆回りする。

――灯台の光が海底を照らす。

――自分の杖が折れている。

――カナタが笑っている。

――空から星が「音」として降る。

――誰かが「もう遅い」と言う。


 胸が凍り、足が一瞬だけ“これからの地面”へ滑った。


「リュミエール!」


 名が杭になる。

 カナタの呼び声で、彼女の視線は“今”へ戻った――戻ったはずだった。

 だが、未来視の疼きが星糸を“勝手に”引き延ばす。

 光は空へ、森の樹冠を突き抜け巨大な光輪を描いた。

 星屑が、雨のように降り始める。


「止めろ! それ以上は昼を焼く!」


 星の光は夜を押し返すが、同時に“昼の拍”まで焼いてしまう。

 森の音が死に、風が逆流し、色が白く退く。

 光輪の中心で、黒い腕が焼け、しかし焼け残った“言葉の芯”が宙を漂った。


「――な」


 たった一音に、百の影が乗る。

 「な」「な」「な」「な」。

 空気の板が軋む。

 座られたら、名になる。

 名になれば、呼ばれてしまう。


「合わせる!」


 カナタは砂時計を逆さに掲げ、砂を上下へ同時に落とした。

 時間の二重反転――“無拍”。

 世界の動きが一瞬、まだ起きないへ留められる。

 宙の星糸が止まり、暴走の勢いが失速する。


「……戻った。ありがと」


 リュミエールは唇を噛み、光輪を解いた。

 光が収束すると同時に、地の底から“寝返りの音”が響く。

 夢核が、本格的に起きようとしている。



 森の地表が“音もなく”裂けた。

 地鳴りではない。

 拍そのものの歪み。

 昼と夜の境がずれ、空が二重に見える。

 裂け目の中央から黒い輪が浮き、内側で光る目がゆっくりと開いた。


 闇を照らす光ではない。

 “光を喰う光”。

 眩しさの皮を被った冷たさが、視神経の裏側に触れる。


「見られてる……!」


「違う、星を狙ってる」


 星は夜の兄弟だ。

 だから夜は星を知っている。

 知っているものほど、飲み込みたくなる。


「同時詠唱!」


「了解!」


 二人は声を合わせた。

 星の線と時間の粒が空中で交差し、白と銀の渦が回る。

 拍は八分、十二分、十六分へ分解され、ふたたび一つへ束ねられる。


「星縫い・螺旋環!」


「時縫・位相停止!」


 螺旋の光が目を包み、位相を固定する時間が呼吸の隙間を奪う。

 世界が裏返り、空が下、地が上。

 未来が現在を押し、過去が息を吸う。

 森全体が一つの心臓になって、打つ。


 目の奥から、言葉が出た。

 人間の言語の形だが、意味が遅れて届く。


『――星よ、沈め。

 月よ、止まれ。

 汝らは、我が夢の果て。』


 夜がしゃべった。

 夢核の人格。

 眠る世界の“意志”。


「黙れ」


 リュミエールは杖を高く掲げ、足下に星図の紋様を浮かべる。

 彼女の髪が白く発光し、星屑が肩から散った。


「星縫い・終光陣!」


 空から降るものは、破壊ではない。

 命名の光。

 夜を名に変え、形を与え、境界に縫い止める光。


「カナタ!」


「合わせる――“時差書き換え”!」


 砂が宙へ解け、粒は文字の骨になる。

 時間の粒が光の線に沿って走り、夢の出来事を過去形へ変えていく。

 “起きつつあること”を“もう起きたこと”にし、“起きないこと”を“起きる前のまま”に固定する。


 目が細くなり、光を飲み込もうとする。

 だが、命名が速い。

 光糸はすでに黒を指でさし示す言葉に変換していた。


『……これは、名か』


「そう。あなたを、名に変える」


 星光と言語が一点で交差し、爆発のない終結が訪れた。

 音は消え、風だけが残る。

 森の裂け目は閉じ、黒い輪は消え、そこに白い花が一輪だけ咲いていた。


 花弁は月光のように淡く光り、中心はわずかに温かい。

 触れると、眠りなおす拍が指先に伝わる。


「終わった、の?」


「“この森の夢核”は縫えた。――でも、根はまだ他所にある」


 リュミエールは目を伏せ、花と同じ高さで呼吸を整えた。

 頬を伝うものは、悲しみでも安堵でもなく、ただ“実感”。

 たしかに今、ここで夜を名にした。


 カナタは砂時計をひっくり返し、正確に一度だけ振る。

 砂は正常に流れ、小さな粒の一つも逆らわない。

 時間は“今へ落ちること”を思い出した。



 崩れた体力の分だけ、手順で補う。

 帰路は“来た道と同じ”でありながら、意図して“別の並び”を選ぶ。

 谷に近づくと、向こう岸から四音が風に乗って届いた。

 ピ、ピ、ピ、ピー。

 レトの合図。

 町の声が、森の底へ降りる。


「戻ろう」


「戻る。――帰りの歌、長めで」


 鏡拍の薄膜を谷の上に二枚、早返しと遅返しで重ねる。

 カナタは歩幅を十二分割して指先へ結び、右親指に速い一、左小指に遅い十二。

 チリ、チリ、チリ。

 鈴が橋になり、三歩で渡る。


 背後で膜がほどけ、朝の風に混じって消えた。

 沢は順当に跳ね、倒木は“最初からなかった”顔で道の外に立っている。

 窪地へ戻ると、昨夜の輪の跡は草の匂いに変わり、旅草はただの青へ戻っていた。


「今日の分、十分」


「うん。町に拍を足して、明日は“南”。月沈(つきしず)みの水面が、時間を歪める」


 出発の前に、白い花へ頭を下げる。

 花の拍が、微かに応えた。

 眠りなおす“夜の心臓”に、昼の名前がひとつ残ったまま。



 マールの外れが見える頃、風の匂いが塩へ戻る。

 灯台の旗は順回り、祠の札は一枚多く結ばれ、市場の屋根の下では「おかえり」と「ただいま」が先に飛び交っていた。


 マリーナが粉だらけの手をぶんぶん振る。

 レトは四音に“短い休符”を足して吹く。

 老婆は札の束に“笑う”を一番上にして、二人の間に手を差し入れ、同じ長さの拍を三つ作った。


「無事の顔だね」


「はい。森の“夢核”は縫えました」


「縫ったなら、次も縫える。拍が先、名があと。……それから、笑いが最後」


 老婆は白い花の匂いに気づいたのか、鼻先で小さく息を鳴らした。


「それ、夜が昼のことを覚えた証拠だよ」


「覚えてくれるなら、何度でも教える」


「そうとも。人は教えるのが得意でね」


 彼女は二人の鈴を軽く弾き、わずかに高い音を引き出した。

 高く、しかし落ち着いた音。

 今夜の町の“眠り”にちょうどいい高さ。



 鐘楼で道具の手入れ。

 リュミエールは小星盤の軸に油を極少量差し、カナタは砂を篩(ふる)って異物を取り除く。

 記録。

 『現像夢=“眼”の増殖は、位相停止+鏡拍で分解可/暴走兆候:未来視が拍を食う→無拍で凍結→命名光と過去化で封/夢核:重輪低速+四隅今/嫌い→反復鏡+非対称時差→縁剥離→終光陣+時差書換で命名完了/副作用:昼の拍の一部が焼ける→要:即時の拍補強(歌・匂い・食)』


 書きながら、リュミエールはふいにペンを止めた。

 ――星を殺す。

 暴走の中で、もう一人の自分が言った。

 星を殺せば、月が導く。

 彼女は、窓の向こうの昼の空ではなく、見ないと決めた夜のほうへ片目だけを細める。


「……カナタ」


「なに」


「もし、わたしが“未来を見たくなる”ほうへ傾いたら、止めて。手荒でも」


「止める。――私も言って。私が“時間を止めすぎたら”、叱って」


「約束」


「約束」


 指先が触れ、拍が一つ、二人の間で同じ重さになった。



 夕暮れ。

 港の波が三度、堤(つつみ)で砕ける。

 祠の札は“笑う”を一番上にして風に鳴り、灯台は順当に回り続ける。

 市場の角で、レトが四音のあとに“ただいま”の高さを笛に覚えさせ、子どもたちは地面に円を描いて「いち、に、さん、ただいま」と跳ねる。


 町が“自分で自分を守る拍”を少しずつ覚えはじめている。

 覚える町は、夜に強い。

 強い町がある限り、彼女たちは“遠く”へ杭を打ちに行ける。


「夜は嫌い」


「夜は嫌い。――でも、縫える」


 鈴が二つ、同じ拍で鳴った。

 夜がゆっくり来る。

 来るたびに、拍で杭を打つ。

 杭が道になる。

 道は未来になる。


 未来は――名にできる。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る