第11話 余韻の町にて

 港町マールは、朝いちばんの鐘で目を覚ます――はずだった。


 鐘は確かに鳴った。空気が震え、塔の石がわずかに共鳴する。けれど、その響きは途中で薄くほどけ、路地の角で一度だけ“躓いた”。音の輪郭が角砂糖みたいに欠け、その欠片が遅れて耳の奥にコツリと当たる。


「……半拍、落ちてる」


 鐘楼の上で、リュミエールは風を掴むように手を伸ばした。手のひらの上で音は形を保てず、砂のように零れ落ちる。

 カナタは護符の石を親指で撫で、白い粒の上下を確かめる。粒は正しく上下するが、ときどき“横に迷う”。迷った拍は、町じゅうに小さな引っかかりを生む。


「昨日の波が、ここまで来てる」


「……濁りは“生きてる証”って、老婆は言ってた。戻ってるから濁る。――だから、太くしよう。朝の杭」


「うん。朝のうちに“名”を重ねて回る」


 二人は階段を降り、町の“名”をなぞるように歩き出した。



 祠の前。老婆は札の束を掌で支え、指先で短い節を刻んでいた。

 節は昨日より一つ多い。カナタが近づくと、老婆は目尻を下げ、二人のあいだにそっと指を差し入れる。


「名が先。足あとがあと。――覚えてるね」


「はい。昨日、広場の縫い目が一度“思い出す”ところまでは持っていけました」


「上出来さね。思い出せる場所は、また思い出せる。たとえ忘れても、思い出しやすい」


 老婆は小さな袋を差し出した。中には乾いた草――旅草が二本。青い匂いが朝の光の中で広がる。


「一本は昼の市場の隅に、もう一本は灯台に。匂いの輪は、夜の列を“人の列”に引き戻す」


「匂いも杭になるの?」


「なるとも。舌で覚えた季節、鼻で覚えた家路、手触りで覚えた戸の木目――それら全部、夜に勝つ“いまここ”の証拠だよ」


 リュミエールは星糸を一本、祠の注連縄の下に通した。目には見えないが、祠の斑な影が一拍だけ深くなる。

 カナタは札の束へ掌をかざし、札の間に薄く“時差”の紙を差し入れる。札を読むとき、ほんの一瞬、読み手の呼吸が整うように。


「町の人に、“笑いの拍”を足してもらおう。濁りは、拍が太いほど解ける」


「笑い、ね。難しい時ほど忘れがち」


「だから、呼び水が要るんだよ」



 市場に入ると、朝の芯が温まり始めていた。

 干魚の並ぶ台、塩の袋を積む少年、赤い布の切れ端を値切る客。

 けれど、どの会話もどこかで小さな空白を挟む。話者と聞き手の間に“半拍のよそよそしさ”が生まれ、視線がうまく合わない瞬間がある。


「おかえり!」


 粉だらけの手をぶんぶん振りながら、マリーナが走ってきた。

 頬にも髪にも粉が舞って、薄い陽を受けて白く光る。


「昨日、町ぜんたい“冷やっ”としたんだよ。海のほうで風が逆さに回ってさ。で、みんな――あなたたちの鈴、聞いた気がした」


「鈴、届いてたんだ」


「うん。だから、今日も鳴らして」


 マリーナは竈から焼きたての平パンを取り出し、塩を指でつまんで――迷ってから、もうひとつまみ足した。


「濁りには塩。塩は“今の味”。噛んだ数だけ今を取り戻す」


 パンを半分ずつ受け取り、二人は大げさに一口齧って見せた。

 マリーナがわざとらしく目を丸くする。

 それを見て、周囲の店主たちが笑う。笑いは拍を太らせ、太った拍は、ふとした沈黙を飲み込む。


「市場の真ん中に旅草、一本置いていい?」


「いいよ。大鍋の横があったかい」


 カナタは旅草を束ごと持ち、鍋の下の石の隙間に差し入れた。青い匂いが広がり、香辛料の匂いと混じって新しい“市場の匂い”になる。

 匂いの輪。輪は境界。境界は護り。


「ついでに――“言の葉網(ことのはあみ)”を張る」


 リュミエールが小声で言って、小星盤の縁を爪で軽く鳴らした。

 見えない薄膜が市場の頭上にふわりとかかり、人々が交わす“名前”だけを柔らかく拾い上げて、空へ逃がさない。

 名の出入りを整える網。大仰な魔法ではない。ただ、名前が列にされず、名の持ち主の手元に戻りやすくする“癖付け”だ。


「言の葉網……好き」


「でしょう? 声は風になる前に、いちど“人のもの”でいてほしいから」


 近くの黒板の前で、レトが笛を吹いた。昨日より一音多い。間違える。笑う。笑いながら、今度はちゃんと三音を吹く。

 間違いと正しさの順番――その“順番”が人を人に戻す。



 港では、網の修繕が始まっていた。

 縄の上で光が跳ね、糸の毛羽が風をつかまえている。

 灯台守が無骨な手で旗を巻き、短く言う。


「昨日、灯が一瞬だけ海の底へ向いた。逆回りだ。すぐに直したが、骨が冷えた」


「骨が冷える、わかる」


 カナタが頷く。

 灯台守は二人の顔を見比べ、帽子を後ろへ押しやった。


「港の東、浅瀬に“浅い凹み”。昼には消えた。たぶん、お前らが向こうで何か“思い出させた”おかげだろう」


「思い出しは、繋がる。――港にも旅草を一本、置いていい?」


「ああ。灯室の踊り場だ。上がれ」


 灯台の石段を上る。

 踊り場に草束を置き、青い匂いの輪を作る。

 リュミエールは灯室の縁に星糸を一筋通し、光の“回り方”が逆さに噛み損じるよう、ほんのわずかな癖を刻んだ。


「逆回りは“列の勝手”。勝手は、鈴でほどける」


「鈴、鳴らしていきな」


 灯台守の言葉に頷き、二人は塔を降りた。

 外へ出ると、海鳥が三度鳴き、風が順当に頬を撫でた。順当は、宝物だ。



 昼、鐘楼の陰で子どもたちが遊んでいた。

 影踏み。鬼ごっこ。地面に円を描いて、飛び石のように跳ぶ。

 円の中へ入る前、子どもたちは自然に数を数える。「いち、に、さん!」

 その数えの拍が、昨日よりほんの少し揃っているのに、リュミエールは気づいた。


「数えるって、いいね」


「うん。数えるは、揃える。揃えるは、杭」


 子どもたちの一人が、カナタの腰の砂時計を見上げた。

「それ、なに?」


「時間の砂。落ちる音で、今を撫でるやつ」


「今、撫でられるの?」


「撫でられるよ。ほら」


 カナタはしゃがみ、砂時計の上を指で軽く弾いた。

 砂はほんのわずかに弾み、落下の拍が“目に見えない円”を描く。

 子どもは目を丸くし、次の瞬間、笑った。

 笑い声が輪になって広がり、鐘楼の壁で柔らかく折り返す。


「“撫でられる今”は、夜の嫌い」


 カナタが小さく呟く。

 リュミエールは頷き、子どもの額にそっと人差し指で点を打つ。

 “点”は一拍の印。名前と同じ。

 彼女はその指で、子どもの名を一度だけ心の中で呼んだ。

 名は心に触れる拍。拍は、帰る場所の輪郭。



 午後、祠の側で“声の市”が開かれた。

 老婆の提案だ。

 「濁りのある日は、声を使って物々交換をしな」と。


 魚屋は「今日は潮が機嫌よし!」と叫び、客は「明日の汁に合うやつ!」と応える。

 大工は「釘十本、声で一本足すよ」と言い、客は「じゃ“ありがとう”を二回」で値引きをもらう。

 馬鹿らしい。けれど、馬鹿らしさは拍を太らせる。

 言葉が音楽みたいに往復し、人と人の間に“今日だけの節”が生まれた。


「これ、いいね」


「うん。声に“意味”を持たせすぎないほうが、濁りは薄まる。意味は夜の好物だから」


 リュミエールは言い、屋台の端っこに小さな紙片を吊るした。

 紙には、短い言葉だけ。


 > 「おはよう」

 > 「どうぞ」

> 「ありがとう」

> 「ただいま」

> 「おかえり」


 それらを声に出してから買い物をすると、店主がちょっとだけオマケをくれる。

 ルールはやがて子どもたちの間で勝手に広がり、町のいろんな角で“ただいま/おかえり”が飛び交った。

 名のない声が、名のある声へ変わる。

 変換を手伝う“粗い網”――言の葉網は、市場を超えて広がった。



 夕方。

 鐘楼の下で、レトが新しい曲を練習していた。

 音は三つ。

 最初の二つは同じ高さ、三つ目だけ少し上がる。

 何度やっても三つ目で指が迷い、レトは悔しそうに眉を寄せた。


「迷う音も、拍」


 リュミエールがそばに座り、肩越しに覗き込む。

「“迷う前に笑う”って拍を入れるの。すると、迷いが笑いに寄る」


「むずかしい……」


「じゃ、合わせよう。わたしたちの鈴で三拍、あなたが四拍目」


 チリ、チリ、チリ。

 笛が、ピ。

 すこし高すぎる。

 でも、良い。

 次の回は、もう少しだけ低く、柔らかく。

 三度目で、町の角にちょうどいい高さに落ちた。


「できた!」


 レトが跳ねる。

 跳ねる拍、笑いの拍、笛の拍――三つが重なって“今日の夕方の音”になる。

 遠く、灯台の旗が水平に伸びた。順回りの合図だ。



 日が傾く。

 影が長くなり、路地の奥で風が“ささやき”の形をとる。

 余韻は、夜へと形を変える。


 鐘楼の上で、二人は夜営の手順をすり合わせた。

 丘へは上らない。今日は町の中で夜を受け止める。

 祠、鐘楼、灯台、市場――四箇所に“薄い輪”と“言の葉網”。

 輪と輪を細い星糸で結び、四角の結界を“ゆるく”張る。

 きつい結界は、夜を怒らせる。怒った夜は“別の入口”を探してしまう。

 ――怒らせない。迷わせる。居心地を悪くする。

 それが、二人のやり方。


「夜は嫌い」


「夜は嫌い。けど、今日は“町の夜”を取り戻す」


 市場の隅、旅草の匂いが薄く濃く、濃く薄く。

 祠の札が風に鳴り、紙の擦れる音が“拍”に寄る。

 灯台の光は順当に回り、海へ円を描く。

 鐘楼の上で鈴が鳴り、二つの小さな光が町の中心を“いまここ”に縫い止める。



 夜の一番最初の“擦れ”は、市場の角で起きた。

 風がないのに布が揺れ、布の影が“口”の形を作る。

 口は言葉を探す。探す声は、名を欲しがる。


「――かな」


 布の影が、カナタに似せた音を吐く。

 けれど、それは列に乗り切らない。

 言の葉網が、名の“椅子”をわずかに高くしているからだ。

 座りにくい椅子に、言葉は座らない。


「輪の内側へ誘導」


 リュミエールが指で輪郭を撫で、影の口を旅草の匂いの中へ滑らせる。

 匂いは“今”。

 今の匂いは、過去の声を苦手とする。

 影の口は二度ほど動いて、やがて“息”に戻った。

 息は、風になる。風は、通り過ぎる。


「……今夜は“町の拍”が勝ってる」


「勝ってるうちに、手順を身体に入れる」


 二人は町を巡る。

 市場から祠へ、祠から灯台へ、灯台から鐘楼へ。

 四角の角で鈴を鳴らし、角から角へ細い糸を渡す。

 渡した糸に“嫌い”の印を一つずつ残す。

 嫌いは境界。境界は護り。


 夜の二度目の擦れは、灯台の踊り場で起きた。

 灯室の影が“足”の形を作り、階段を降りようとする。

 降りる足は、拍に乗っていない。

 拍に乗らない足は、階段で躓く。


「四分割」


 カナタが掌を広げ、階段の四段に“違う落ち方”を置く。

 影の足は一段目で迷い、二段目で遅れ、三段目で焦り、四段目で消えた。

 消えた足は、ただの暗がり。暗がりは、灯りの下で形を持てない。


「灯は正しく回る」


 灯台守が低く呟いた。

 その声は“今日の声”で、夜のものではなかった。



 夜の三度目の擦れは、鐘楼の下で起きた。

 子どもたちが昼に描いた円が、闇の中で“穴”の形になりかける。

 穴は呼吸を持ち、口を開こうとする。


「昼の遊び、夜の護り」


 リュミエールが笑い、円の縁に光の“飾り”をつけた。

 飾りはただの飾り――に見える。

 けれど、その一つ一つが“拍の目印”。

 目印がある円は、穴になりにくい。

 カナタはそこへ“数える”を重ねる。


「いち、に、さん」


 昼に子どもが置いた拍を、夜に大人が借りる。

 借りた拍は、夜の入口を“遊び場”に変えた。

 穴は口を閉ざし、円はただの円に戻る。



 深夜。

 二人は鐘楼の屋上に腰を下ろした。

 風は潮の匂いを運び、旅草の青がときどき混じる。

 町は眠っている。けれど、眠りの拍は整っている。

 整った拍は、夜の“列”よりも強い。


「今日、町は自分で自分の声を取り戻した」


「わたしたちは、ちょっと手を貸しただけ」


「手を貸すのが、術」


「術があるから、未来を細くできる」


 リュミエールは小星盤を掌に乗せ、カナタは砂の落ちる音を耳で拾う。

 目を閉じても、拍は耳の内側で輪になり、輪が胸の内側で杭になる。

 明日の道が、狭く、けれど確かに見える。


「西側から、“根”を探ろう」


「うん。昼のうちに、町の四角をもういちど撫でてからね」


「西は風下。匂いが運ぶものが多い。――匂いは杭になる」


「新しい“匂いの輪”、作る?」


「作ろう。港の古い倉庫に一つ、廃井戸に一つ。……それから、行商人の跡の路地にも」


 話しながら、二人はゆっくりと立ち上がった。

 夜はまだ深い。けれど、深い夜ほど拍ははっきり聞こえる。

 鈴が二つ、同じ拍で鳴る。

 その音に、町の眠りがわずかに笑った。



 夜明け前。

 東の空が薄くほぐれ、青と灰の間で最初の白が生まれる。

 旅草の匂いは弱まり、代わりにパンの焼ける匂いが市場のほうから届いた。

 祠の札は湿気を吸って重くなり、灯台の光は朝の光に自分の順番を譲る。


「戻る歌、言っておく?」


「うん。朝にも杭」


 二人は声を合わせ、短い節を唱えた。


「名が先。足あとがあと。

 名が先。足あとがあと。

 帰る歌、いま、ここ」


 節は風に乗り、屋根の上を滑って市場へ、港へ、祠へ届く。

 届いた先で、人の呼吸が少し深くなる。

 深くなる呼吸は、夜を遠ざける。


「……夜は嫌い」


「夜は嫌い。――でも、夜明けが好き」


「わたしも」


 笑いながら、二人は屋外の階段を降りた。

 足音が石に返り、返った音が“普通の”反響で戻ってくる。

 普通は、美しい。



 朝の市場で、マリーナが両手を振った。

「おはよう! 今日は塩を減らしても、ちゃんと味がするよ!」


「旅草の輪、効いてる」


「うちの竈、夜じゅう“パンの夢”みたいな匂いがしてたの。……あ、レト!」


 黒板の前に立つレトが、三音のあとに、きれいな四つ目を足した。

 ピ。

 朝の色だ。

 市場の空気がそれに軽くうなずき、人々が自然に拍を合わせる。

 言の葉網に絡まった“おはよう”が落ちずに戻り、口々の「どうぞ」「ありがとう」と一緒に市場の屋根の下を巡回する。


 老婆が祠から顔を出し、二人に小さく手を振った。

 灯台守は旗を高く掲げ、順回りをもう一度示した。

 港で網を繕う老人は「昨日より手が速い」と呟いた。

 子どもたちは地面の円を踏みながら、「いち、に、さん、ただいま!」と遊びを新しくしていた。


 町は、声を取り戻している。

 濁りはゼロにならない。

 けれど、ゼロにしないほうがいいのかもしれない――と、リュミエールはふと思った。

 わずかな濁りは、拍を意識させる。

 拍を意識できる町は、夜に強い。


「行こう」


「うん。西へ」


 マリーナから小さな包みを、レトからは新しい四音の合図を受け取り、老婆からは札一枚を預かった。

 札には、昨日と同じ言葉――『帰る』『戻る』『忘れない』。

 それに今日は、一つだけ増えている。


 『笑う』


 カナタは札を胸に当て、深く息を吸った。


「夜は嫌い。――でも、笑う」


「夜は嫌い。――だから、笑う」


 二人の鈴が、朝の光の中で一度だけ澄んで鳴った。

 その音は、港の波に三度砕かれて、海へ返り、また町へ戻ってくる。

 戻ってきた音は、少しだけ甘い。


 歩き出す足の裏に、石畳の重さが確かにあった。

 重さは、戻るための手触り。

 進むための自信。


 西の丘は、まだ灰の帯の縁に眠っている。

 そこへ向かう道に、二人は今日も杭を打つ。

 名の杭。拍の杭。匂いの杭。笑いの杭。

 杭は道。

 道は未来。


 未来は――縫える。


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