第5話 星の道と月の影
朝は、まだ夜の名残を肩に乗せていた。
藍が薄くなる空の下、尾根筋を渡る風は乾いて冷たく、草の穂先には白い霜が固く残っている。山肌を縫って延びる古い街道は、ところどころ石が浮いており、馬車の轍が固まった溝が日の光を受けて鈍く光った。
リュミエールは歩いていた。
杖の小鈴が、歩幅に合わせて控えめに鳴る。首元の小星盤は静かで、目盛りは落ち着いた位置のまま。昨夜、谷の上で一帯を走った“空のさざ波”は、今は遠のいている。
背嚢の中でトマの白い石がこつりと鳴る。
彼女は指先でその丸い感触を確かめ、息を吐いた。冷気が肺の中で細く裂け、胸の奥の緊張を持ち上げる。
山の向こうに海がある。潮の匂いはまだ届かないが、風の向きが変わり始めているのがわかる。
――海都マール。
――月の脈が強く打つ場所。
その先には、時が粘つくという廃都。
星暦盤とヘルメの言葉を思い出しながら、彼女は歩みを速めた。
◇
尾根道を下ってすぐ、谷底の小さな宿場が見えた。
木組みの茶屋の軒に干し草が吊られ、人影はまばら。煮込みの香りが漂う中、旅籠の前で荷を積み直す隊商がひとつ。二台の荷馬車に布と塩、そして湾曲した金属の板が積まれている。
「嬢ちゃん、道は東かい?」
声をかけてきたのは、皺の深い隊商頭。
リュミエールは頷く。
「海へ。マールに」
「なら良かったら一緒に行こう。峠の先で“影鳥”が出る。数が多いと、ひとりじゃ空を見上げてばかりで足元をすくわれるからな」
「……借りるよ。風下側を歩く。影が増えたら合図する」
「話が早い。俺はダリオ。こいつらは若い衆だ。お嬢ちゃんは?」
「リュミエール」
名を名乗ると、若い衆のひとりが「あ」と短く声を漏らした。
その目に宿る色を、彼女は見慣れている。憧れと、少しの畏れ。
言い出したい言葉――“星降りの”――を彼は呑み込んだ。隊商頭の気遣いか、彼自身の賢さか。どちらにせよ、ありがたい。
「じゃあ、出るぞ。風上は俺たちが行く。嬢ちゃんは後尾を頼む」
列が動く。
荷の軋み、蹄の鈍い音、人の短い号令。
山道は狭く、片側が斜面、もう片側が切り立った岩。上から落ちた小石が時折、先へ先へと跳ねていく。
やがて風が変わった。
匂いが、薄く海に傾く。
同時に、地面に落ちる影がほんの一瞬だけ濃くなる。
上を見るな――影を見ろ。
ヘルメの教えを反芻し、彼女は隊商の後尾で視線を地表に這わせる。
影の輪郭が増える。輪郭の縁がぼやけ、濃度の違う黒が二重に重なる。
……いる。
「影、三! 前方右上!」
リュミエールの声に、ダリオが手を振る。列が即座に縮まり、荷台と荷台の間に布が引き渡された。即席の天幕が影を遮る。
次の瞬間、空から音もなく落ちた黒いかたまり――影鳥――が天幕に触れて歪み、じゅっと焦げるように縮む。
リュミエールは杖を上げた。
「星光――矢」
無音の光が一筋、影鳥の“節”へ吸い込まれ、黒の形が分解する。二筋目、三筋目。
粉のように砕けた黒は、地面へ落ちる前に消えた。
隊商の若い衆が、唾を飲む音がはっきり聞こえる。
「……嬢ちゃん、すげぇな」
「足を止めないで。群れの後ろが来る」
彼女が言い終えるより早く、小星盤が胸の上でチ、と短く鳴いた。
“欠け”。
どこかに小さな空白がある。
耳で風を裂き、目で影を数え、皮膚で空気の吸い込みを嗅ぎ分ける。
道の左、岩壁にぶら下がる蔦の影が、風に合わず内側へすこし凹む。
そこだ。
「左壁、蔦の下! 寄るな!」
リュミエールは指先を払う。
光の針がすっと走り、見えない穴の縁を縫い止める。
空気の吸い込みは一瞬で止み、蔦の影はただの影に戻った。
「……助かった」
ダリオが短く言い、同時に笑う。
笑いは短いが、腹の底からのものだ。
「嬢ちゃん、名乗ってよかったな。名前ってのは人を落ち着ける。“星降りの魔女が一緒にいる”、それだけで、みんなの足が前に出る」
「名は、便利だね」
「便利さは大事だ」
道は再び穏やかになり、木々の間から海の切れ端が見え始めた。
薄い銀色の線。
遠いが、確かに広い。
彼女の胸の内で、鈴がひとつ鳴る。
――待っている者がいる。
――夜を嫌って、それでも夜を縫う者が。
◇
海が視界いっぱいに広がるころ、雲が走り始めた。
潮の匂いは濃く、港町の屋根が段々畑のように斜面に重なるのが見える。突堤の先には灯台が一本、昼の光に沈黙して立っている。
マールだ。
隊商は町外れで別れを告げた。
ダリオが塩を固めた小袋をひとつ、彼女に押しつける。
「海の塩は旅に効く。旨いときは旨いし、傷にもしみる。どっちでも、目が覚める」
「ありがとう。……返す」
「返すなら、無事で戻ることだ」
隊商の列が市場へ飲み込まれていくのを見送り、リュミエールは息を吸った。
潮と魚、木と油、人の声。
アルセーヌとは違う、生活の匂いが濃い。
港の外れ――丘の端に、古い鐘楼が見える。
壁は剥がれ、鐘は沈黙しているが、上階の窓に布がかかっているのが遠目にもわかった。
指先に、短い鈴の音。
小鈴ではない。胸の小星盤が微かに震えただけ。
それでも、彼女は確かに感じた。
――そこに、いる。
「……行こう」
◇
市場を横切ると、塩の強い声が飛び交い、刃物がまな板に叩き付けられる音が重なった。
リュミエールは塩の強い平パンを買い、包みを片手に歩く。
路地の先で、黒板に数字を書く子どもたちの姿が見えた。粉だらけの指。笑う声。
彼女の視界の端に、ふっと小さな影が走る。
黒の欠片――違う、ただの猫。
緊張は解けず、そのまま丘の坂道へ足をかける。
坂の途中、祠の前に老婆がいる。
老婆は祈りの札を撫で、風に紐を結び直している。
リュミエールが軽く会釈すると、老婆は彼女を見上げて言った。
「鐘楼の子に用かい?」
胸がわずかに跳ねる。
「知っているの?」
「知ってるとも。夜が嫌いなくせに、夜の真ん中を歩く子だ。天の綻びを縫って、朝の形を戻してくれる」
「……会いたい。彼女に」
「なら、月が薄くなるまで待ちな。いま上がれば、あの子は目を逸らすだけだ。夜に近いほど、あの子は人から目を逸らす」
「――待つ」
階段の縁に腰を下ろす。
塩のパンをひと欠片ちぎり、口へ運ぶ。
塩が舌に刺さって、意識がはっきりする。
風の匂いが微かに変わった。
胸の小星盤が、チ、と短く鳴く。
“欠け”。
遠くない。
港の沖――いや、もっと岸に寄っている。
「……行く」
彼女は立ち上がり、坂を駆け下りた。
祠の前の老婆が驚き、「気をつけな!」と声を掛ける。
市場を抜け、突堤の付け根へ走る。
風が巻く。
人々が板戸を閉ざし始める。
灯台の上で、灯が一度、強く回る。合図だ。
波止場に出ると、波の縁が不自然に沈んだ。
黒い窪みが、水の膜の下で口を開ける。
彼女は杖を構え、呼吸を整えた。
「光楯――展け」
半球の透明な膜が岸の縁に沿って広がり、寄せる水の力を受け止める。
“欠け”の縁が膜に触れる。
触れた場所から、光がわずかに削がれる。
欠けは光を喰う――いや、位置そのものを喰う。
膜の一部が、存在そのものを薄くされる感覚。
鳥肌が立つ。
「星光――縫(ぬ)い」
針のような光が欠けの輪郭をなぞり、縁を細く縫い縮める。
距離と角度を選ぶ。真正面は危ない。斜めから。
縫い目が数目、十目。
欠けの口が狭まる。
だが――
(足りない)
水の流れが、時間の流れを一段早める。
縫った端から、別のところが解ける。
追いかけているあいだに、別の口が生まれる。
これは、時間の縫い目でもある。
――月の糸が要る。
そのときだ。
背中のほう、鐘楼の方向から、空気の“張り”が変わった。
世界が薄い膜に入ったみたいに、音が一瞬、糸のように細くなる。
「止まれ」
別の声。
彼女の声ではない。
時間が、伸びた。
伸びた時間の上で、水が遅れ、欠けの縁の動きが鈍る。
リュミエールは迷わず、縫い目を増やした。
縁に光針を落とし、欠けを薄く延ばしては海へ戻す。
何度か、何度も。
最後の目を拾った瞬間、世界の張りがほどけ、音が戻った。
波が砕け、光の膜が静かに元の透明へ沈む。
息が合った。
まだ名前も知らない誰かと、息が合った。
彼女は振り返る。
風の中、坂の上。
鐘楼の影から、白い外套の影がひとつ。
黒髪が、潮風に揺れる。
その目は月を見ない。
地面を見て、こちらを見た。
胸の小鈴が一度だけ鳴る。
相手の胸の鈴も、同じ拍で応えた。
たった一度。
けれど、十分だった。
◇
「助かった」と最初に言ったのは、港の見張りだった。
板戸の向こうで息を殺していた気配が、一斉に緩む。
歓声はない。
夜の掟に従って、人々は静かに扉に額を寄せる。
その静けさの中で、ふたりの魔女は向き合った。
「ありがとう」
リュミエールが言う。
黒髪の少女は、ほんのわずかに首を横に振った。
「……わたしは、ただ伸ばしただけ。縫ったのはあなた」
「伸ばしてくれなきゃ、間に合わなかった」
沈黙。
波の音が、ふたりの間を埋める。
少女は視線を落とし、口を結んだ。
「月は、見ないの」
「知ってる。見たら、痛むんでしょう」
少女の肩が、ほんの少しだけ揺れた。
驚き――ではない。
理解されたことに戸惑う、微細な震え。
「カナタ」
彼女が言った。
名を渡すことに、少し躊躇いが混じる。喉の奥に棘が刺さるような痛みが走り、彼女は一瞬、目を閉じた。
「……わたしは、カナタ」
「リュミエール」
名は、橋だ。
短い橋。
けれど、橋は橋だ。
ふたりの間にひとつ、渡された。
そのとき、胸の小星盤がチ、と短く鳴った。
欠けは完全に消えたわけではない。
沖に、薄い歪みが残っている。
リュミエールがそちらを見ると、カナタもわずかに顔をそちらへ向け――すぐに視線を落とした。
「夜は、長い。……今は戻る。わたし、夜が嫌いだから」
「うん。明るいときに、また」
カナタは頷く。
白い外套が、坂の上へ消えた。
リュミエールはしばらくその背中を見送り、それから海へ向き直る。
最後の薄い歪みを指先で撫で、光の縫い目をひと目だけ足して、ほどいた。
◇
夜が明けた。
港は早い。
船腹を叩く音、網を引く掛け声、氷の割れる音が一斉に始まる。
リュミエールは市場の端で平パンをもう一つ買い、鐘楼のほうへ向かった。
途中、黒板の前で笛を吹く少年に会い、指使いを少し直してやる。少年の母は彼女を見、胸に手を当てて小さく礼をした。
祠の前の老婆は、昨日と同じ場所で新しい札を束ねている。
「会えたかい?」
「うん。……夜だったけど」
「なら、昼にもう一度おいで。あの子、昼のほうが少しだけ人の目を見られる」
「わかった」
鐘楼の階段を上る。
海鳥が一羽、鳴いて飛び立つ。
二階の扉は半分壊れている。軋む音とともに押すと、部屋の中に砂時計がいくつも見えた。
光は斜めに差し、砂の粒が空中で金色に返る。
机の前に、カナタが座っていた。
彼女は窓に布を掛け、月を閉め出し、砂の流れを指で整えている。
「……おはよう」
「おはよう」
短い挨拶。
昼の光は、夜ほど鋭くない。
カナタの表情は夜よりも柔らかい。
彼女は机の端を指で叩き、小さな護符の石を示した。
「これ、母の。中の粒が“今”へ戻る道を指すって、昔、聞かされた」
「綺麗」
「あなたの首のは?」
「天文院でもらった小星盤。欠けが近いと鳴る。……ねえ、昨日、ありがとう。本当に」
「こちらこそ。伸ばすのは、縫うのより楽」
「でも、代償が」
カナタは薄く笑い、視線を砂に落とした。
砂は落ち続ける。
落ち続けるから、時は流れる。
時が流れるから、夜は来る。
夜が来るから、彼女は嫌いになる。
それでも、夜を縫う。
「星は、未来を見せる。……だけじゃだめだって、あなたに会ってやっとわかった。伸ばしてもらえれば、届くところが増える」
「わたしも。星の針があるなら、止めすぎなくて済む。止めると、忘れるから」
机の上、薄い本が開かれている。
ページの隅に、子どもの名前が小さく書かれていた。
昨日の少年の名。
リュミエールは、その文字を見て頷いた。
「一緒に、行こう」
言葉は、自然に出た。
彼女の口が先に決めて、胸が少し遅れて追いつく。
カナタは顔を上げた。
目が、ほんの少しだけ大きくなる。
「……どこへ?」
「星の裂け目の根っこへ。空亡へ。今はまだ遠い。でも、最初の糸口は、ここだと思う」
「廃都、だね」
「うん。時が粘るところ」
ふたりの視線が、窓の布を透かして海の遠景を探す。
海の向こう――陸沿いに南へ下った先に、その灰色の地帯があるはずだ。
カナタは指先で砂の流れを止め、そっと放して、また流し直す。
流れは、整った。
「行く。……夜が嫌いでも、夜を縫うなら」
「ありがとう」
リュミエールは胸の小星盤を鳴らす。
チ、という短い音。
カナタの護符の石が、ほんの少しだけ冷たく光った。
◇
出立の準備は長くはかからなかった。
干し肉と乾いた果実、塩、包帯、針と糸。
リュミエールは星種の小瓶を確かめ、カナタは砂時計のうち携行できる小型を二つだけ選んだ。
鐘楼の下で祠の老婆が待っており、歩き出すふたりを見て、両手を胸の前で合わせた。
「夜を嫌う子と、夜を照らす子。……いい取り合わせだよ」
「ただの旅人だよ」
リュミエールが笑い、カナタはほんの少しだけ口角を上げる。
昼の風がふたりの外套を押し、鈴が二つ、似た音で鳴った。
それを合図に、石段を降りる。
市場を抜け、港の端を回り、海沿いの道へ出る。
南。
灰の帯を目指して。
最初の角を曲がるとき、カナタが小さく呟いた。
「ねえ、リュミエール」
「うん?」
「夜が来るのは、変えられない。でも、夜の“かたち”は、たぶん変えられる。……嫌いなままで、好きなところを増やすことなら」
「いいね、それ」
「だから、行こう。夜のかたちを、縫い直しに」
リュミエールは頷いた。
ふたりの影が、石畳に並ぶ。
影は重なり、また離れ、歩幅に合わせて伸びたり縮んだりする。
昼の影は素直で、二人の歩みを笑うように揺れた。
◇
町を出て半日、海沿いの道は次第に岩だらけになる。
潮が押し上げる音が足元の岩へ響き、時折、海霧が斜めに這い上がってくる。
小星盤は静かで、鈴は規則正しい。
ときおり空に影鳥の影が流れ、ふたりは岩陰に身を寄せてやり過ごす。カナタが時間を少しだけ伸ばし、リュミエールが必要な分だけ光針を落とす。
戦いというより、作業だ。
作業は、息を合わせる練習になる。
「リュミエール」
「なに?」
「夜の音は、嫌い。でも――あなたの鈴の音は、平気」
「カナタの鈴も、好きだよ。歩幅が、合う」
「……なら、よかった」
言葉は少なく、それで十分だった。
道の先、薄く霞む地平の向こうに、灰色の帯が見え始める。
空の色が、そこだけ薄く、白く、擦りガラスの向こうみたいに曖昧になっている。
風の向きが変わり、草が一斉に同じ方向へ倒れた。
小星盤が鳴る。
チ、チ、チ。
早い。
近い。
「――来る」
リュミエールが言うと同時に、カナタが掌を前に出した。
時間が、薄く伸びる。
風の糸が一本ずつ見えるほどに、音が細くなる。
目の前の空間に、ひとつ、丸くない穴。
視ようとすると、焦点が拒まれる。
欠け目の縁がかすかに脈動し、二人の鈴が、同時に鳴った。
「縫う」
「伸ばす」
言葉は短い。
動きは速い。
光針が落ち、縁が延び、時間が薄まり、穴は薄くなって――
ふたりの糸が交差したところで、欠け目はほとんど“ただの空気”になり、風がそこを通り抜けた。
残響。
遠いところで、別の大きな何かが目を開ける気配。
空亡。
名を胸の内で呼ぶと、胸骨の裏が冷たくなる。
「まだ、遠い」
カナタが言う。
どこかに、中心がある。
そこへ行かなければ、縫っても縫っても、ほどけ続ける。
「行こう」
「うん」
灰の帯は、すぐそこだ。
ふたりの影はまた重なり、離れ、歩幅は揃っている。
鈴はふたつ、同じ拍で鳴った。
夜は、必ず来る。
けれど、夜のかたちは、変えられる。
星の道と月の影は、一本の道へ寄り合い始めていた。
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