第12話 なぜ、彼女らが傷つかなければならないのか

カップを見つめながら桃子さんはどこか落ち着かず不安そうだ。


こうやって、あまり接点のない人間に呼び出されたんだ。嫌な予感しかしてないだろう。

むしろ、よく来てくれたものだ。


「それで……梨里ちゃんが、わざわざ今日こうして会って話したかった話って──」


古野沢さんは一度息を吸い込んで、背筋を伸ばした。

さっきまでの軽口は消え、真剣そのものの表情になる。


「今から伝える話は桃子さんにとって、良い話はありません。むしろ悪い話です」


テーブルの下で握られた拳が小さく震えている。

それでも視線だけは逸らさず、まっすぐに桃子さんを見据えていた。


「私の勝手かもしれません。でも、伝えないといけないって思って、こういう場を設けさせてもらいました」


桃子さんはカップにそっと指を添えたまま、言葉を待っている。

眉尻はわずかに下がり、不安と覚悟が入り混じった表情。


古野沢さんは一瞬だけ唇を噛み、息を吐き出した。


「桃子さんの彼氏、瀬川 翔は私の元カレなんです。つい最近まで……付き合っていました……」


この言葉を皮切りに、古野沢さんは桃子さんに全て伝えた。


彼が大学の先輩であること。

しつこくアプローチされた末、根負けしてして付き合ったこと。

桃子さんという彼女がいることは知らなかったこと。


桃子さんは最初、ぽかんとしたように瞬きを繰り返していた。

「……元カレ?」と小さくつぶやき、困惑と信じられなさが入り混じった表情で古野沢さんを見返す。


けれど、語られるエピソードが一つひとつ翔の癖や言動と重なっていくたびに、その顔は少しずつ曇り始めた。


普段どんな飲み物を好むか、酔ったときの口癖、サークルでの立ち位置――細部に宿る確かさが、彼女から反論の余地を奪っていく。


「……そんな、だって……」


桃子さんはカップの縁を指でなぞりながら、言葉を途中で失った。

視線はラテの泡の向こうをさまよい、現実から逃げるように揺れている。


俺の胸も痛んだ。

見たくなかった表情を、また見てしまっている。


「決定的なのが、あいつの鼻が曲がったことです」

古野沢さんの声は震えていたが、言葉ははっきりしていた。

「……あれは、絡まれて蹴られたって……」


桃子さんの声はかすかに上ずっていた。

信じたい気持ちと、信じられない気持ちがせめぎ合っている。


ただ、ここまで来たら全て話すしかない。


あの夜のことだ。

俺が古野沢 梨里と出会った夜。


シャイニング・ウィザードを炸裂させるまでの流れ。

俺も知らないことがでできた。


「ずっと別れようって言ってたんです。桃子さんの前でこんな事言うのも良くないんですけど、しつこくアプローチされたから付き合ったんですけど、1週間経っても全然好きになれなくて……」


申し訳なさそうに語る古野沢さんがなんとも悲痛だ。


「……ずっと別れようって言ってたんです」古野沢さんは両手を膝の上で握りしめ、言葉を絞り出した。


「桃子さんの前でこんなこと言うのは本当に心苦しいんですけど……しつこくアプローチされて、根負けして付き合ったんです。でも、1週間経っても、2週間経っても……全然好きになれなくて」


その声は小さく震えていた。


「何度も“別れたい”って言ってたんけど、最後に会いたいって言われて、これで終わらそうと思って、会ったんです」


桃子さんの肩が小さく揺れた。

それは“まだ信じたい”気持ちと、“聞きたくない”気持ちのせめぎ合いの震えだった。


「でも、やっぱり引き止められて。帰ろうとした私の腕をつかんで……そこで揉めて」


ぎゅっと拳を握って、言葉を必死に出そうしている姿に胸が苦しくなる。


「……そこで、彼が私に蹴られて倒れた。そのとき鼻をやったんです」


桃子さんは息をのんだ。

カップの中身がわずかに揺れ、手元の震えを隠せていない。


「そんな……だって、ショウくんは……」

か細い声が漏れる。


「“絡まれただけだ”って……そう言ってたのに」


「嘘です」


信じたくないという面持ちの言葉を、古野沢さんはまっすぐな目ではっきりと否定した。


「桃子さんを裏切っていたのは事実です。……それを知った以上、私には黙ってるなんてできませんでした」


その場の空気は重く沈み、ただ心臓の音だけが自分の耳にやけに大きく響いていた。


「古野沢さんの話は本当です……。あの日、桃子さんの彼氏と古野沢が揉めている現場に俺が居合わせたんです」


この一連の流れが真実であることを、第三者の視点から確定させる。

俺は俺の役割を果さなければならない。


桃子さんは、しばらく何も言わなかった。


カップにそっと添えられた指先が、かすかに震えている。

けれど顔には、涙も怒りも浮かんでいなかった。


ただ、力なく笑った。

それは「もう分かった」という諦めの色を帯びた微笑みだった。


「……そう、なんだね」


声は驚くほど静かで、まるで自分に言い聞かせるようだった。

ラテの泡はすっかり消え、冷めきった表面に彼女の影が揺れている。


「ありがとう。話してくれて」


それ以上、何も言わなかった。

重たい沈黙がテーブルを覆い、俺も古野沢さんも、次の言葉を探せずにいた。



桃子さんは、しばらく目を伏せたまま、冷めきったラテを見つめていた。

沈黙が痛いほど長く続く。


「……そういうこと、だったんだね」

小さくつぶやいた声は、感情を削ぎ落としたように淡々としていた。


古野沢さんは申し訳なさそうに唇を噛んでいる。

俺は何も言えず、ただ二人を見守るしかなかった。


やがて桃子さんは、視線を上げて、穏やかな笑みを浮かべた。

けれどその笑みはどこか壊れそうで、見ていて胸が痛む。


「梨里ちゃん……ありがとう。勇気、いったよね」


古野沢さんは強くうなずき、涙をこらえるように目を瞬かせた。


「……でも、私、大丈夫だから」


桃子さんはそう言ったが、その声は震えていた。


「私ね。彼と付き合って3年になるの」


3年か……長いな……。

それだけ時間に一緒にいてこういう裏切られ方をしたんだ。


「3年前、一番仕事がきつくてさ。忙しいし、上司には毎日のように怒られるし、何をやっても結果が出なくて……。自分が自分でいられなくなりそうだった」


桃子さんはラテを見つめたまま、ゆっくり言葉をつないでいく。


「本当に心が壊れそうでさ、帰り道に泣きながら電車に揺られてたりもして……。そんな時、友達にさそわれた、今思えば……合コンだったのかな。そこでで出会ったのが、彼だった」


小さく笑ったその表情には、懐かしさと同時に、深い痛みがにじんでいた。


そこで言葉が途切れた。

桃子さんは笑おうとしたけど、唇の端はわずかに引きつっていた。


「“君は頑張ってるよ”って言ってくれてさ。ただそれだけなのに、胸の奥にずっと溜まってたものがほどけて……。あの瞬間、久しぶりに呼吸ができた気がしたんだ」


彼女の声は次第に細く、掠れていった。

弱っている時にかけられた優しい言葉が彼女の救いになったのだろう。


「それから二人で会うようになって、彼から告白してくれた……嬉しかったなぁ……」


桃子さんは、そこで小さく息をついた。

目尻には涙が滲んでいるのに、笑おうとしている。


「そっか~。やっぱり浮気してたか〜」


明るく言い切ったはずの声は、かすかに震えていた。


カップの縁を指でなぞる仕草は止まらず、そこに力を込めすぎたのか、わずかにラテが揺れた。

泡の消えた表面に、彼女の影と、滲んだ涙の粒が重なる。


「……だよね」


最後の言葉は自分でも聞き取れないくらい小さくて、崩れ落ちる寸前の心を無理やり繋いでいるようだった。


「桃子さん、ごめんなさ……」


いたたまれなくなったのか、古野沢さんが震える声で口を開いた瞬間、俺は思わず遮っていた。


「古野沢さん、それは違う」


二人の視線がこちらに集まる。

俺は一呼吸置いて、言葉を選びながら続けた。


「謝るのは、古野沢さんじゃない。……悪いのはあいつの方で、それは筋違いだ」


声が自分でも驚くほど固かった。

けれど、この場で誰かがはっきり言わなきゃならないことだった。


確かに、古野沢さんが根負けして付き合ったことで、二股の事実を確定させたが、彼女は桃子さんのことを知らなかったわけだし、被害者だ。


だから、謝罪することに何も意味はない。


テーブルに落ちた沈黙が、少しだけ質を変える。

責任を背負い込もうとした古野沢さんの肩はわずかに震えて、桃子さんは視線をカップから外せずにいた。

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