がんばる司紗-3

(キシカワは真面目だな)


 司紗は自分に呆れず面倒をみてくれる彼のことを思いながらペダルを踏む。


 彼がローラー台を設置してからこの3日間、毎日ローラー台に乗っているのでいい加減慣れた。乗り降りは大変だが、1度サドルに腰をかけてしまえば安定している。問題は部屋の真ん中に鎮座しているので、日常生活が不便になったことくらいだ。あることを忘れてぶつかったこともあるが、それは誰にも内緒だ。


 岸川は具体的にローラー台でのトレーニングをメッセージで細かく指示してきた。20秒間の強度の高い運動と、10秒間の休息。その繰り返し。いわゆるタバタ式トレーニングというものらしい。真面目にきつくて汗だくになるし、筋肉痛にもなった。それでも3日やって、1日軽く流すだけにして、また3日やる。


 タイマーが鳴り、司紗はタイマーを止め、足をゆっくり動かして心肺機能を落ちつける。用意しておいたタオルに手を伸ばし、見つけて手にして身体を拭く。拭かないと汗がしたたり落ちて床が汚れるほどだ。


 週に1度しか本物の自転車に乗らなくても、これなら体力がつくと思う。岸川はスパルタだと思うが、それは自分の希望を叶えるために考えてくれたからだと思えば、受け入れられる。


 汗が引いて肌寒く感じて、司紗はAIに設定温度を変えさせ、ローラー台に固定されたクロスバイクから降りる。


 自分はずいぶん走れるようになったと思う。この前の100キロチャレンジは暑くない時期なら成功する気がする。とはいえ基礎体力がないのも認める。


 しかしちらりと岸川が言及していたが、ぼんやりとではなく、気仙沼までどうやって行くか具体的に考えたくなってきた。全くの想像だが、1日で走れると想定されたところに宿を予約し、そこまで絶対になにがなんでも行くしかないのかと考える。その場合も1人部屋では不便すぎるのでキシカワと同室だなと考え、司紗は更にいろいろ考えてしまう。エッチな展開を想像するが、岸川が自分の様な面倒くさい女に軽率に手を出すとは思えないから、半分くらいは安心している。もう半分は期待している。人並みに性には興味があるし、岸川に触られても嫌悪感がないどころか、いい気分になれた。電車に乗る時、抱きしめられた。力強い腕にドキドキした。その先を夢想すらした。だから、岸川に求められたら自分は拒まないと思う。その先のことは考えないし、考えたくないが、彼はきっと考えることだろう。だからこそその展開はない気がする。


 それでも一緒に自転車に乗ってくれるだけで岸川に感謝する。かわいいと言ってくれることに喜びもする。単に今の距離を詰める勇気と未来を考える強さが自分にないだけのようにも思われた。


 その夜、岸川からメッセージが来て、週末は別の人をガイドすることになったので、ローラー台で練習するように、とのことだった。わかってはいたつもりだったが、岸川にとって司紗はガイド対象の1人に過ぎない。これまではタンデム自転車のガイドを希望するのは司紗だけだったという話だ。


 多分、視覚特別支援学校の別の生徒だろうと勝手に見当をつけ、司紗はイラっとする。もしかしたら司紗の知っている女子かもしれない。岸川が手取り足取り、自分が知っている女子にレクチャーするところを想像してしまい、苦い気持ちを抱いた。


 金曜日は学校を休んで、母と一緒に定期的に通っている大学病院を受診した。大学病院はいつも混雑していて、司紗にとって行きたくないところの一つだ。主治医の受診の前にいろいろな検査をする。スコープのようなものを覗き込み、光を見る。まだ光は見える。光の線がどうやって見えるか聞かれる。視界がどのくらいあるか確認されているらしい。その後、血液検査やMRIに入ったりと続き、朝一番に行って昼前にようやく受診になる。


 主治医は腫瘍が大きくなる可能性があると伝え、今やっている化学療法だけでなく放射線治療を始めることを勧めた。しかし視神経の放射線治療にはさまざまなリスクがある。すぐには決断できなかった。


 何より、放射線治療を始めてしまったら最初のうちは自転車に乗れなくなることは確実だ。化学療法にも副作用が付き物だが、司紗の場合は奇跡的にかなり軽く済んでいる。だから自転車にも今のところ乗れていた。


 受診を終えて会計を待つ間、放射線治療はまだしたくないと考え続けていた司紗に、彼女の母が言った。


「このままだと生命にかかわるってお医者さんが言っていたし、放射線治療で視力の回復する場合もあるらしいじゃない?」


「どのくらい回復するかはわからない」


 もちろん、少しでも視力回復の可能性があるのならかけてみたい。やはり岸川の顔を見てみたいと思う。しかし踏ん切りはつかない。


(いつかは決断しないとな…)


 会計を終えて大学病院を後にして、帰りの電車の中で司紗は母に伝えた。


「気仙沼まで無事に行けたら放射線治療を受けようと思う」


「司紗がそうしたいならそうするのがいいと思う。お父さんもきっと同じ意見よ」


 母はすぐにそう答えてくれた。自分の意思を尊重してくれるのはありがたいことだと司紗は感謝する。しかし続けて母は言った。


「でも道中はどうするの? 何泊もすることになるでしょう? やっぱり岸川さんのこと好きなの?」


 具体的にはやはり全く思いついていない。岸川がいいアイデアを出してくれるのではと思うだけだ。


 また、好き、という言葉を今まで司紗は意図的に避けている。まだ数回しか会っていないし、まだ彼のことをよくわかっていない気がする。それでもかなり長い時間を2人きりで一緒にいて、彼と一緒にいる心地よさを生活の一部として認識しつつある。


 好きだと認めてしまうのは簡単だ。人が人を好きになるのには時間も回数も関係がない。そのことを司紗はフィクションで、ではあるが知っている。しかし好きという言葉の魔力にとらわれて、自分がその先を求めてしまうかもしれないのが、未来を考えるのが怖いのだろう。


「わからない。キシカワと一緒にいるのは楽しいし、もっと一緒にいたいと思う。それはもっとタンデム自転車に乗っていたいって意味じゃないよ。でも好きなのかどうかは考えたくない」


 司紗の母は少し間を開けて応えた。


「今は考えなくてもいいと思う」


 それは近い将来に考えなければならないという意味だ。何泊も2人きりで一緒に旅をしたら、嫌でもそのことは意識するだろうから。


「でもキシカワなら私が考えていることをきっと分かってくれると思う」


 ためらいも、足りない勇気も、全部司紗自身だ。それを岸川はわかってくれるはず、と何の根拠もなくそう司紗は思う。いや、そう信じているのかもしれない。


「それは司紗が嫌いな単なる同情かもよ」


 司紗の母は痛いところを突く。しかし司紗は言い返す。


「それはないな、彼はちゃんとウチを見てくれている。キシカワとはどこかで通じている」


「自信があるみたいね」


「ある」


 司紗は大きく頷く。


「まああんたはあたしに似て美人だから」


 そう言って母は笑った。


「やっぱ外見?」


「外見はとっても大切よ!」


 見える側からすればそうなのだろう。もう今の司紗にはそれがよくわからなくなってきていた。


 その夜、司紗は岸川に連絡を入れた。目標を言ったからには真面目に取り組んでいると彼に思ってもらいたかった。


〔近いうちにもう一度100キロライドに挑戦したい〕


 するとすぐに岸川から返事があった。


〔半月もタバタ式をやれば効果が出ると思うよ〕


〔じゃあ来週に行ける?〕


〔お天気次第でそうしよう〕


〔決めるとより一層、練習に気合が入るね〕


 司紗は気持ちを素直にメッセージに乗せる。


〔身体を休ませないと筋肉が育たないから、指示通りにやって、オーバートレーニングに陥らないようにね〕


〔むう。キシカワ、厳しい〕


 読み上げアプリが笑っているスタンプが送られてきたと教えてくれた。彼とのメッセージのやりとりは楽しい。きっと世の中の恋人たちはこんな風に、でももっと頻繁にメッセージのやり取りをしているのだろう。今ちょっとだけそんな気分を味わっているのかもしれないと司紗は考える。


 しかし司紗はまだこの気持ちを恋だと思いたくない――いや、そう考えるのが、司紗には怖く感じられたのだった。

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