筑波山タイムアタック-2
(この男は超初心者に何をさせるんだ!)
前のサドルに座る岸川の息遣いを耳にしながら、司紗は内心恨み節であった。彼とこうやってタンデム自転車に乗るのは今日が3回目になる。1回目は家の近くの河川敷内の広場でT-20号に慣れ、2回目は江戸川沿いのサイクリングロードで40キロほど走った。そして今回、いきなり筑波山に来てヒルクライムだという。
(キシカワはアホなのか!?)
それ以上の罵詈雑言も心の中で叫びながら、司紗はペダルを踏み続ける。上り坂、上り坂、上り坂、上り坂、ずっと上り坂だ。たまに下る。だが、それはほんの一瞬しかない。そしてその上り坂の傾斜もかなりのものだ。マジできつい。ペダルはクランクを時計の針に見立てて12時にある時だけ力をかける。上り坂だと長くタイヤまで力が加わるとはいうが、そのことは岸川から最初に教わったことだから、それは守る。
司紗は視覚が不自由な分、晴眼者よりわかることが他に数多くある。たとえば20インチの太めのタイヤからハンドルバーとサドル、そしてペダルに伝わってくる振動からわかることがある。それほど振動を拾っていないから、アスファルトの路面はきれいなようだ。新しく舗装されたのかもしれない。
鳥の声も聞こえる。森の木々を揺らす風の音もわかる。自然豊かな場所にいるのが分かる。都会の喧噪とは無縁だ。
そして前にいる〝パイロット〟の岸川の息遣いもわかる。彼の呼吸には余裕がある。一方、自分の心臓はバクバクだ。息が荒いどころか限界に近い。これまでの人生でこんなにすごい負荷を身体にかけた覚えは司紗にはない。しかしそれこそがヒルクライムを岸川が司紗にやらせる本当の理由だということもわかってきた。こんなことでくじけているようでは、司紗がチャレンジしようとしていることは到底無理だと暗に言いたいのだ。そして本当に旅に出るのであれば、あらかじめ辛いことを体験させておきたいという意図もあるのだろう。
「あとどのくらい!?」
盛大に乱れる息の中、司紗はどうにか訊く。
「ちょうど半分。コーナーに距離の看板があるから間違いない」
「半分!」
絶望的だ。コーナーで曲がるとき、ほとんど視力がない司紗のために岸川が曲がることを教えてくれる。それでずいぶん心構えができるものだ。無事ゆるいターンを抜け、苦しい呼吸の中、司紗は叫ぶ。
「何分経った!?」
「11分」
岸川はそれだけ答えた。彼も呼吸を乱したくないのだろう。このペースを守れるなら22分で登れる。成人男性で15分が目標というなら上々ではないだろうか。
後ろからホイールが回る音が近づいてくる。そして激しい息遣いが聞こえ始める。そしてその息づかいが近づくと司紗は声をかけられる。声は若い男の声と中年らしき男の声だ。
「タンデムすごいなあ!」
「またゴールで!」
どうやら追い抜いたのは2人だったらしい。ホイールが回る音と激しい息遣いは遠くなっていく。
たまにガソリンエンジンの音がする。最初は小さく、そして大きくなり、すれ違う。すれ違うとすぐに小さい音になる。こっちは上りだから対向車は下りだ。ガソリン車はまだいい。ハイブリッド車や電動車だと音が小さいから怖い。
「まだがんばれる?」
岸川が聞く。タンデム自転車のいいところは前後で会話ができることだ。
「がんばる!」
自分の目標をあきらめたくないから司紗は意地だけでそう応える。空気を求めるのどと肺が熱い。いや、痛い。太もももふくらはぎも痛い。太ももの筋肉を使うなと岸川は言っていたがそんなの無理だ。それに加えて時間がわからないのは辛い。今度タイムアタックをする時はタイマーをセットしてもらおう。岸川が叫んだ。
「あと1キロ!」
「やっとか」
3分の2くらい来た。時間ではないが、距離を言ってくれるのはありがたい。なんかふくらはぎが震えてきたっぽい。足が攣りそうだ。しかし痙攣し始めているなんて岸川には言えない。言えばタイムアタックを中断するだろう。だから彼には気づかれたくない。
次に岸川がコーナーだと教えてくれた時、500メートルを切った、と付け加えた。
司紗は歯を食いしばり、鼻で大きく深く息をして、急な坂道を登っていく。今までで一番傾斜があると思うカーブにかかった。スピードがのっていないので傾ける必要はあまりないが、岸川に合わせようと気を付ける。
もう気が遠くなりそうだというところで岸川が叫んだ。
「ゴールが見えた!!!」
その言葉に司紗は俄然元気が湧いてくる。攣りそうな足をごまかしつつ、岸川の息遣いを聞く。彼の息も乱れている。しっかり踏んでいるのだ。
「ゴール! 停まるよ~と~ま~る~」
岸川はゆっくり言って、司紗は停まる心の準備をする。『る~』の最後で左足をペダルから離し、地面を探す。T-20号自体を傾けているので司紗の足はすぐにアスファルトを探り当て、体重をかける。司紗が腰掛けているT-20号のサドルの高さは、彼女が足を伸ばしてつま先がようやく地面に当たるほどの高さだ。なので足をつくには車体を傾ける必要がある。
「着いた~~!」
「22分30秒! 上々だよ」
「がんばったからな!」
司紗はハンドルバーから手を放し、震え続ける足でどうにか立つ。
「手をつかむぞ」
T-20号のスタンドを立てる音が司紗の耳に入る。
岸川の手が司紗の手を掴む。その手を頼りに司紗はその場にしゃがみこんで体育座りをする。ふくらはぎの筋肉がびくびく痙攣しているし、呼吸はぜんぜん元に戻らない。吐きそうなほど心臓がバクバクしている。それでも心は正直だ。歓喜に震えている。
「やった……やった……登ったぞ!」
「水かけるぞ~~」
司紗の頭に冷たい水がかけられた。びっくりしたが、全身が熱くなっているのでとても気持ちいい。司紗は掌で顔の水を拭う。水は背中に伝わり、ブラをぬらし、ショートパンツの中にまで入ってインナーも濡れるが、どうせ汗まみれなのだから関係ない。速乾素材だし、走っているうちに乾くだろう。いや、サポーター入りのインナーなのでそれは水分を含みそうだ。しかし司紗は叫ぶ。
「気持ちいい~~!!!」
すぐそばにいるであろう岸川が笑っているような気がした。
(キシカワの顔が見えればいいのにな)
司紗は残念に思う。
(もし彼が笑顔なら、自分も笑顔になれるのに)
「タンデム自転車なんて珍しいねえ」
声がした。ゴール地点だという停まった場所に何人かの気配を感じていたが、先ほど自分たちを抜いていった人たちに違いない。彼らの息はもう整っている。
ふわりとタオルがかけられ、岸川が耳打ちする。
「ゴメン。ちょっと透けちゃってる」
そういうことに司紗は自分では気付くことができない。司紗は首からタオルを掛けて、胸を隠す。そしてすぐに岸川は声を掛けてきた男性のロードバイク乗りに答える。
「2人で走るとなかなか早いんですよ」
別の声がした。
「全長が長いから曲がりにくいだろ」
「下りは特に気を遣いますね」
「気を付けてくれよな。彼女が自転車イヤになっちゃうぞ」
彼女と言われているのは自分のことだとすぐに分かる。
「タンデム自転車でデートだなんて、彼女、理解あるな」
また別の声がして、司紗は我慢できなくなって口を挟む。
「……ウチは彼女じゃない……この人はウチの視覚障害ガイドのボランティアで、一緒にここを上ってくれただけだ」
自分でも声のトーンが低いなと思う。言いたくないことを言葉にするのはとてもエネルギーがいることだ。
自分の発言を聞いて、ロードバイク乗りたちがどんな反応をしているのか見えないのが辛い。しかしおどけたような岸川の声がすぐに聞こえ、司紗の胸はドキンと高鳴った。
「そうなんです。でないとこんなかわいい女の子がオレなんかと一緒に走ってくれるはずないでしょう?」
「メッチャ役得だ」
「すごく魅力的なボランティアだ! 俺もやってみたい!」
「常にかわいい女の子と一緒なわけじゃないですから!」
岸川は苦笑しているようだ。
自分がかわいいのは知っている。数年前までは普通に見えていたのだ。小学校では学年の中でかわいいさでは上位だと自覚があった。順調に育っていればやっぱり自分はかわいいはずだ。岸川がかわいいと言ってくれるのは嬉しくもあるが、彼にとってそこにどのくらい価値があるのか司紗にはわからない。だから、岸川にかわいいと言われてもイラつく。
「キシカワ! 喉カラカラだよ!」
会話を中断させ、手を伸ばす。すぐに広げた手のひらにドリンクのボトルが差し込まれる。
「落ち着いて飲めよ」
「分かってるって!」
司紗は顎を上げ、ボトルから冷えたスポーツドリンクを飲む。
今までの人生の中で飲んだものの中で、一番美味しい気がした。
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