真空の掟
天上天下全我独尊
序章:真空の村
エウロペ環状居住区には、太陽が昇る朝も太陽が沈む夜も存在しなかった。
木星の衛星エウロパを回る軌道上、その外殻の厚い居住区を覆うのは、無限に黒い真空だけである。外界に時間を刻む太陽の光は遠く、居住区の内部にある人工灯の明滅が、人々の生活を律する唯一の時計だった。だがその明滅も、あたかも気まぐれに瞬くまぶたのようで、誰にとっても真実の時間ではなかった。
ここで人々は、時間を「掟」によって測っていた。
酸素の分配を告げる儀式、配偶者を選ぶための古い宣言、死者を「空気」として宇宙へ戻す通過儀礼。それらがなければ、一日という概念も、一生という概念も、この閉ざされた共同体では崩れてしまうだろう。掟こそが人々の生活をつなぎとめる唯一の線であり、掟から外れることは、真空に投げ出されることと同義だった。
カナ・シロタは、その重苦しい日常に最初から息苦しさを覚えていた。
彼女は地球生まれの技術者であり、派遣先としてこの居住区を割り当てられたにすぎない。任期は十年。十年のあいだ、ここで酸素循環系統の維持と、外殻修復用ロボットの管理を行う。それが与えられた使命であり、逃げ場はない。
地球を離れるとき、彼女は「宇宙は解放の場だ」と信じていた。大気の濁りもなく、古い因習に縛られた家族の視線もない。だが、実際に彼女がたどり着いたのは、地球の村社会よりさらに窒息的な共同体だった。
到着して最初の夜、彼女は酸素循環区画に足を踏み入れた。習慣どおり、地球でのように作業靴を履いたまま。
直後、居合わせた作業員たちが一斉に息を呑む音が響いた。彼女が理解できない理由で。
長老役の老人が、異様な顔で彼女を睨みつけた。「この場で靴を脱がぬとは。酸素の恵みに泥を踏み込む気か」
カナは何を言われているのか分からず、しばらく立ち尽くした。だが周囲の目は一様に敵意と嫌悪を帯び、誰も彼女の無知を許そうとはしなかった。
彼女は渋々靴を脱ぎ、作業を続けた。だがその夜から、居住区の人々の視線は変わっていた。「異邦人」という言葉が、彼女の背後に常に貼り付くようになった。
それ以来、彼女は次々と奇妙なしきたりに衝突することになった。
酸素吸入の前に唱える祈り。廊下の交差点で必ず右足から踏み出す規則。食事の前に配られる水滴ひと粒を舌の上で溶かす儀式。
それらはすべて、この共同体においては「不可侵」のものだった。なぜそうなのか、誰も説明できない。だが説明できないからこそ、なおさら絶対のものとして重みを持つ。
ある夜、カナは同僚のエリオ・ダインに問いかけた。彼は生まれながらの居住区民であり、掟を当然の空気のように吸って育った男だ。
「ねえ、どうしてこんなことをするの? 酸素はシステムが十分に管理している。儀式や足の順番なんて関係ないでしょう」
エリオは一瞬、彼女をじっと見つめ、それから表情を曇らせた。
「関係ない? 違う。掟がなければ、俺たちはばらばらに死んでいくんだ」
「でも……」
「君は地球から来たから分からない。ここには逃げ場がない。だから掟が俺たちの壁であり、床であり、天井なんだ。掟を信じなければ、俺たちは真空に飲まれてしまう」
その答えに、カナは言葉を失った。彼の眼差しは狂信のそれではなかった。ただ、諦念と恐怖に満ちていた。彼自身も掟の無意味さを心のどこかで知りながら、それにすがらなければ生きられないのだと。
居住区の空気は循環している。だが、心に吸い込む空気は濁っていた。
カナは次第に、自分が呼吸するたびに胸の奥が冷たくなるのを感じ始めていた。
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