第05話「静寂の心石」
アレクシス様の前でみっともなく泣いてしまった翌日、私は気まずさで死にそうだった。けれど、彼は何も言わず、いつも通りに私に接してくれた。その変わらない態度が、かえって私を救ってくれた。
私は、彼に聞かなければいけない、と思った。
なぜ、あなたは感情を見せないのか。エマさんが言っていた、三年前の戦争と何か関係があるのか。あなたのその「無」は、一体どこから来るのか。
それは、ただの好奇心じゃなかった。彼のことをもっと知りたい。彼の抱えている痛みを、少しでも分かち合いたい。そんな風に思うようになっていた。
その日の夜、私は勇気を出して、書斎で本を読んでいたアレクシス様に声をかけた。
「アレクシス様。少し、お話があります」
彼は静かに本を閉じ、私に向き直った。「なんだ」と促すその瞳は、やはり静寂に満ちている。
「どうして、アレクシス様は……その、感情を、あまり表に出されないのですか?」
我ながら、とんでもなく不躾な質問だと思った。普通の相手なら、殴られても文句は言えない。
けれど、彼は表情一つ変えなかった。ただ、彼の周りの空気が、ほんの少しだけ張り詰めたような気がした。
しばらくの沈黙の後、彼は静かに口を開いた。
「……君には、関係のないことだ」
「関係なく、ありません」
私は食い下がった。
「私は、あなたの側にいられて救われました。だから、あなたのことも知りたいんです。あなたが何を抱えているのか……少しでも、力になりたいんです」
私の必死の言葉に、彼の蒼い瞳がわずかに揺らぐ。
彼は深く、長い息を吐いた。そして、まるで遠い過去を思い出すかのように、ゆっくりと語り始めた。
「……三年前、隣国との大きな戦争があった」
それは、エマさんから聞いた話だった。
「俺には、たった一人の親友がいた。騎士団の同期で、いつも俺の隣で戦っていた男だ。だが……そいつは、俺の目の前で命を落とした。俺を庇ってな」
彼の声は、淡々としていた。けれど、その奥に、押し殺した深い悲しみが滲んでいるのを、私は感じ取った。
「その時、俺の中で何かが切れた。制御できないほどの強大な魔力が、暴走したんだ。敵も味方も関係なく、全てを破壊し尽くすほどの力が……な」
息をのむ。彼がそんな、途方もない力を秘めているなんて。
「俺は、自分の力が恐ろしくなった。怒りや悲しみといった強い感情が引き金になって、またあの力が暴走するかもしれない。そうなれば、今度こそこの国を、大切なものを、俺自身の手で破壊してしまうだろう」
彼はそう言うと、自らの胸元に手をやった。制服の隙間から、首に下げられた青い石がちらりと見える。
「これは、『静寂の心石』。古代から伝わる遺物だ。持ち主の魔力を抑制し、同時に感情の起伏を強制的に平坦にする効果がある」
静寂の心石。
「俺は、自らこの石で自分の感情と魔力を封印した。二度と、暴走しないように。……心を凍らせることでしか、俺は俺自身を保てなかった」
だからなのか。
だから、この人からは一切の感情の色が見えなかったんだ。
それは、彼が心を閉ざしているからなんかじゃなく、物理的に感情そのものが動かないように、封じられていたから。
あまりにも、過酷な選択だった。親友を失った悲しみだけでなく、自分自身の力への恐怖。その二重の苦しみを、彼はたった一人で抱え込み、心を殺すことで耐えてきたのだ。
「なぜ、そんな話を私に?」
「……さあな。君が、俺を怖がらないからかもしれない」
彼は自嘲するように、ほんの少しだけ口元を歪めた。それは笑みと呼ぶにはあまりにも寂しい形だった。
「君の側にいると、心が落ち着くと言ったな。……俺も、同じだ。君が淹れてくれる茶を飲み、君が作った食事を食べていると、この石の冷たさが、ほんの少しだけ和らぐ気がする」
その言葉に、胸が締め付けられるようだった。
私が彼に安らぎを感じていたように、彼もまた、私との時間に何かを感じてくれていた。
「アレクシス様……」
私は、何を言うべきか分からなかった。頑張ったんですね、なんて安っぽい言葉は言えない。辛かったでしょう、なんて、彼の痛みを分かったような口も聞けない。
だから、私はただ、一歩彼に近づいて、彼の手にそっと自分の手を重ねた。
「!」
アレクシス様の肩が、びくりと跳ねる。彼の手は、やっぱり少し冷たかった。
「私は、あなたのそばにいます。あなたが、そうして欲しいと望んでくれる限り」
色が見えなくても、分かる。彼の心が、今、激しく揺れているのが。重ねた手を通して、彼の戸惑いが伝わってくる。
彼は何も言わなかった。ただ、重ねた私の手を、振り払うこともしなかった。
静寂の心石が彼の感情を縛り付けているのなら、いつか、その呪いを解くことはできないのだろうか。
彼が、もう一度心から笑える日が来るのなら。
そのためなら、私にできることは何でもしたい。
無色透明な彼の世界に、いつか、たくさんの温かい色を灯してあげたい。
私は彼の冷たい手を握りしめながら、心の底からそう願った。
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