第03話「温かな色の芽生え」
使用人としての生活が始まって、一週間が経った。
私はとにかく無心で働いた。床を磨き、窓を拭き、シーツを洗い、庭の草むしりをする。アレクシス様は日中、騎士団の仕事でほとんど屋敷にいない。彼が帰宅するのはいつも日が暮れてからだ。
その時間が、私にとって一番心休まる時間だった。
アレクシス様が屋敷にいるだけで、空間全体が浄化されるような感覚。彼の周りだけ、色のノイズが完全に消えるのだ。私は彼のそばに控えてお茶を淹れたり、書斎の整理をしたりする時間を、何よりも大切にしていた。
彼は私に必要以上のことは話さないし、私も話しかけない。ただ、静かな時間が流れるだけ。でも、それがいい。言葉にしなくても、彼の「無」が私を守ってくれている。それだけで十分だった。
「今日の夕食だが、君が作ってみてくれないか」
ある日の午後、珍しく早めに帰宅したアレクシス様が、書斎で私にそう言った。
「え、私がですか?厨房長がおりますのに」
「彼は今日、急用で休みだ。他の者では、どうも口に合わなくてな」
この屋敷の料理は、正直に言ってあまり美味しくない。素材は良いものを使っているのに、味付けが大雑把というか、繊細さに欠けるのだ。
「……分かりました。お口に合うか分かりませんが、作らせていただきます」
「ああ、頼む」
アレクシス様はそれだけ言うと、また書類に視線を落とした。
私は少しだけ、胸が高鳴るのを感じた。料理は私の数少ない特技だ。日本にいた頃は、美味しいものを作って食べるのが唯一のストレス解消法だった。
厨房に立ち、腕まくりをする。幸い、食材は豊富に揃っていた。野菜も肉も魚も、どれも新鮮で美味しそうだ。
(アレクシス様、いつもお疲れみたいだし、温かくて、ほっとするようなものがいいかな)
私は、故郷の味を思い出しながら、じっくりと煮込んだ野菜のポトフと、ハーブを効かせた鶏肉のロースト、それからふかふかのパンを作ることにした。
コトコトと鍋が煮える音、オーブンから漂う香ばしい匂い。料理に集中していると、余計なことを考えなくて済む。誰かのために料理を作るなんて、久しぶりだ。その相手が、私の安息をくれる人だなんて、なんだか不思議な気分だった。
「……できた」
我ながら、会心の出来だった。熱々のポトフを深皿によそい、こんがりと焼けたローストチキンを切り分ける。それをトレイに乗せて、彼のいる食堂へと運んだ。
「お待たせいたしました」
アレクシス様は、一人で広い食卓についていた。彼の前に、そっと料理を並べる。彼は無言で、まずポトフのスープをスプーンですくって口に運んだ。
どきどきしながら、彼の反応を待つ。もちろん、表情は一切変わらない。いつも通りの鉄仮面だ。
(やっぱり、ダメだったかな……)
がっかりしかけた、その時だった。
ふわり、と。
アレクシス様の周りに、陽だまりのように温かいオレンジ色の光が灯った。
「え……?」
思わず、声が漏れた。
それは、水彩絵の具を水に落とした時のように、じんわりと、穏やかに広がっていく。濃い色じゃない。淡く、優しく、見ているだけで心が温かくなるような、柔らかなオレンジ色。
間違いない。これは、「美味しい」とか「満足」とか、そういうポジティブな感情の色だ。
彼から色が見えたのは、これが初めてだった。
今までずっと、無音のモノクロ映画のようだった彼が、初めて色づいた瞬間。
アレクシス様は、私の視線に気づいたのか、ゆっくりと顔を上げた。
「……なんだその顔は」
「あ、いえ……!お口に、合いましたでしょうか……?」
慌てて取り繕う。まさか「あなたから色が見えて感動しています」なんて言えるはずもない。
彼は私の問いには答えず、ただ黙々と食事を続けた。鶏肉のローストを口に運び、パンをちぎってスープに浸す。そのたびに、彼を包むオレンジ色の光が、少しだけ濃くなったり、ゆらめいたりする。
私は、その光景から目が離せなかった。
今まで見てきた、どぎつくて不快な感情の色とは全く違う。それは、とても綺麗で、愛おしい色だった。
他人の感情を、私が「綺麗だ」なんて思ったのは、生まれて初めてのことかもしれない。
食事が終わる頃には、オレンジ色の光はすっかり消えていた。彼はいつも通り、食後のお茶を静かに飲んでいる。
「……美味かった」
食器を片付けようとした私に、彼がぽつりと、そう言った。
「!」
顔を上げると、彼はもう私を見ていなかった。けれど、その言葉は確かに私の心に届いた。
胸の奥が、きゅっと甘く痛む。顔が熱い。きっと、今の私の周りには、とんでもなく明るい喜びの黄色が輝いているに違いない。
「ごちそうさまでした」
彼が席を立つ。その背中は、いつもの無色透明に戻っていた。
けれど、私は知ってしまった。
この氷のように冷たい人の内側にも、陽だまりのような温かい色が隠れていることを。
そして私は、その色を、もっとたくさん見てみたいと、心の底から願ってしまったのだ。
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