第29話「緩衝地(バッファ)という待ち」
朝、窓に息を落とす。白は薄く広がって、音もなく消えた。
昨夜の四行——みてた/ありがと/まだ/ごめん。
“まだ”の手前に、今日は待てる場所を置くと決める。流れを止めず、いったん受ける。
ノートに見出しを書く。
《今日の方針:緩衝地(バッファ)を用意する/触れない/知らせない/視界で返す》
——詰まりは、通す前の溜めでほどける。
時雨(しぐれ)が尾を一度だけ振る。四つ吸って、六つ吐く。
*
午前の返却ラッシュが落ち着くと、影浦玲生(かげうら・れお)が手帳を掲げる。
「外縁ログ。非常灯・区掲示は平常。会館は撤収日、ラックは間引き継続。……寄贈パソコン、電源オフのまま“Draft(1)”が一瞬点いて消えた。システム担当、『戻し・先手・帯域は入れたが受け皿が浅い。バッファ不足かも』」
受け皿。私は頷く。「主観は良。息、深い」
「距離は保とう。僕は風景だけ拾う」
*
児童コーナーの掲示を貼り替えていると、ポケットがひと拍だけ震えた。
【下書き保存】——つまる
【下書き保存】——うけろ
“ボイスメモ”を開く。空調の底、そのまた下で足音と車輪の拍が重なり、細い行き止まりに押し込む気配。
【保存:南桜(みなみざくら)地下歩道・西口】
「掲示の紙、切らしてて——」とだけ告げて外へ。玲生が目で外縁了解。
西口の踊り場手前、列と台車が角の直前で同時に詰まる。
触れない。
私は手すり影の端に立ち、片手で小さな四角を空中に描き、角の手前に**“置き場”を示す。
先頭の生徒がその溜めを拾い、二人ぶんだけ四角の中で待つ**。
台車が先に回り、列はその受け皿に収まってから滑る。
震え。
【下書き保存】——うけた
【下書き保存】——とおった
*
図書館へ戻ると、玲生が透明付箋を重ねる。
「外縁。西口、『角に待ちができて早い』。……寄贈PC、“Draft(1)”、午前に一回。ログは空白、受け皿の検討へ」
私はしらせるなの線を胸でなぞり、短く頷く。
*
昼過ぎ、ポケットが二度震える。
【下書き保存】——ふたつ
【下書き保存】——えらんで
底の拍が違う。保存名が連続で埋まる。
【保存:白妙(しろたえ)公園・ブランコ脇】
【保存:観潮(かんちょう)踏切・南側】
バッファが効くのは順番が揺れる場——ブランコへ。
ブランコ待ちの列は、空いた瞬間に前後の意図が重なって小競り合いになる。
触れない。
私は列の最後尾の少し外、地面につま先で丸をそっと書き、“待ちの皿”を置く。
保護者が視界の端でそれを拾い、「ここに一回、まってね」と手のひらで示す。
入れ替わりは一呼吸遅れて、でも滑らかに続く。
震え。
【下書き保存】——まる
【下書き保存】——のこった
踏切へ回る。赤の終わり、押手が白線ぎりぎりへ詰めて行き場がなくなる。
私は時刻表ガラスの前で顎を半指下げ、白線内側半足の位置へ視線の皿を置く。
押手が半足分の受けを作り、歩行の入りと重ならない。
震え。
【下書き保存】——うけた
【下書き保存】——いきた
*
館内を抜ける途中、寄贈パソコンの黒い画面の隅で“Draft(1)”がふっと灯り、0へ戻る。
触れない。
机の「メンテ中」札は読む位置が遅く、通路でもつれる。
脇の書見台を足先で半歩だけ前に寄せ、通路の手前へ**“読むための皿”を出す。
通りかかったシステム担当が「あ、バッファですね」と自分の手で遅延リレーの前に小電荷の溜め(プリバッファ)を追加、LANの別経路を確実に切る**。
震え。
【下書き保存】——きる
【下書き保存】——のこす
*
夕方、玲生が手帳を示す。
「外縁補足。公園、『待ち皿でケンカなし』。踏切は『半足ぶんで楽』。会館撤収は滞りなし」
私はうなずき、胸の石が少し丸くなる。
*
ケトルが鳴る。灯りが一瞬だけ明滅し、時雨がソファの背で耳を立てる。
来る。
私は椅子に座り、膝の上で指を組む。
25:61。
青い泡が三度、間を置いて湧いて沈む。
既読:蒼真
【下書き保存】——うけろ
【下書き保存】——ためろ
【下書き保存】——さわるな
【下書き保存】——ひがし/のぼる
上流へ。私は“ボイスメモ”を開く。今日いちばん薄い拍。
【保存:朝島(あさじま)取水堰・観測桟橋(中央より下手)】
上着を取り、時雨に「すぐ戻る」。彼は窓辺で耳を立てたまま見送る。
*
桟橋の下手では、突風と巡回の交代が同時に来て、長柄の入りが渋滞しかけていた。
触れない。
私は欄干の十字の傷から半歩外、ボルト列と流れの中点に立ち、息で浅い皿を作る——四つ吸って、六つ吐く。吐きは短く受け、吸いで流す。
片方の職員が入りを皿にいったん置き、もう片方がやみ間で流す。
網の手前の草の束は引っ掛からず、一拍遅れでほどけて流れに戻る。
水の音が詰まらずに低く続いた。
震え。
【下書き保存】——つまらず
【下書き保存】——いきた
踵を返す途中、舗装の白い「25-6-1」の横に、誰かが落とした白い輪ゴムが一つ。
小さな受け皿みたいに見えた。
私は近寄らず、四つ吸って、六つ吐く。
世界に受ける場所がひとつあるだけで、きっと救える拍がある。
*
帰宅。テーブルにスマホを置く。青い泡が遅れてひとつ。
既読:蒼真
【下書き保存】——みてた
【下書き保存】——ありがと
【下書き保存】——まだ
【下書き保存】——ごめん
私はスマホを胸に当て、息を整える。時雨がソファの背で耳を立て、目を細めた。
ノートを開き、今日をまとめる。
《主観ログ・第二十九夜》
・地下西口:角の四角い置き場で流れ直す→「うけた/とおった」
・白妙公園:つま先の丸い皿で順番の余白→「まる/のこった」
・踏切南側:白線内側半足を視線の皿に→「うけた/いきた」
・図書館PC:掲示の先出しとプリバッファ→「きる/のこす」
・堰下手:置いてから流すの呼吸で渋滞回避→「つまらず/いきた」
・遵守:触れない/知らせない/鏡を増幅しない/“通す前にいったん受ける”
・メッセージ:「うけろ/ためろ/ひがし/のぼる/さわるな」「みてた/ありがと/まだ/ごめん」
・仮説更新:緩衝地(バッファ)は“優しさの皿”。返すとは、世界の手前に小さな受けを置き、詰まりをほどくこと
灯りを一つ落とし、胸の前で小さな四角をそっと作る。
ここでいったん、受ける。
それだけで、今夜の呼吸は楽になる。
——既読が、鳴る。
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