第25話「負帰還(フィードバック)という戻し」

 朝、窓に息を落とす。白は薄くひろがって、跡形もなく消えた。

 昨夜の四行——みてた/ありがと/まだ/ごめん。

 “まだ”の手前で、今日は増えた分だけ静けさを戻すと決める。押したら、少しだけ引き返す。


 ノートに見出しを書く。

 《今日の方針:**負帰還(フィードバック)**で整える/触れない/知らせない/視界で返す》

 ——出力が大きくなったぶん、そっと戻す経路を用意する。


 時雨(しぐれ)が尾を一度だけ振る。四つ吸って、六つ吐く。



 午前の返却ラッシュが収まると、影浦玲生(かげうら・れお)が手帳を掲げた。

 「外縁ログ。非常灯・区掲示は平常。会館は朗読二日目、ラックは間引き継続。……寄贈パソコン、電源オフでも“Draft(1)”が一瞬点いて消えた。システム担当、『短窓残響+安全域不足の戻し経路なし』と言い出した」


 戻し経路。私はうなずく。「主観は良。息、深い」


 「距離は保つ。僕は風景だけ拾う」



 児童コーナーの掲示を貼り替えていると、ポケットがひと拍だけ震えた。

 【下書き保存】——ふえた

 【下書き保存】——もどせ


 “ボイスメモ”を開く。空調の底、そのまた下で声量が跳ね、次の声を押し上げる気配。

 【保存:南桜(みなみざくら)地下歩道・西口】


 「掲示の紙、切らしてて——」とだけ告げて外へ。玲生が目で外縁了解。


 西口の踊り場は、下校の列が一段下るたびに歓声をあげ、台車の押手がつられて加速していた。

 触れない。

 私は手すり影の端に立ち、片手を胸元で小さく円にする。回すたび、半拍分だけ逆方向に指を返す。

 先頭の生徒がその逆向きを拾い、降りの終わりで一息戻す。

 押手もコースを微修正し、角で勢いを還流する。

 震え。

 【下書き保存】——おちついた

 【下書き保存】——よかった



 図書館へ戻ると、玲生が透明付箋を重ねる。

 「外縁。西口、“声が跳ねない”の投稿。……寄贈PC、“Draft(1)”、午前に一回。ログは空白」

 私はしらせるなの線を胸でなぞり、うなずく。



 昼過ぎ、ポケットが二度震える。

 【下書き保存】——ふたつ

 【下書き保存】——えらんで


 底に違う拍。保存名が連続で埋まる。

 【保存:白妙(しろたえ)公園・東ベンチ】

【保存:観潮(かんちょう)踏切・北側】


 まず公園。

 東ベンチでは、紙芝居の盛り上がりで子どもたちが前へ前へと詰め、後列が見えなくなっていた。

 触れない。

 私は輪の対角線の外にしゃがみ、両手の指で小さな波形を描く——上がった分、同じだけそっと下げる。

 読み手が視界の端でそれを拾い、抑えの一拍を足す。

 子どもたちの体が自然に半歩戻り、視界に余白が戻る。

 震え。

 【下書き保存】——みえる

 【下書き保存】——のこった


 踏切へ回る。赤の終わりに押手が肩で押し込み、歩行の入りが押し返される。

 私は時刻表ガラスの前で顎を半指下げ、視線を白線の内側へ落とす。

 押手が内側に一呼吸戻し、次の拍へ流す。

 震え。

 【下書き保存】——まにあう

 【下書き保存】——いきた



 館内を抜ける途中、寄贈パソコンの黒い画面の隅で“Draft(1)”がふっと灯り、0に戻る。

 触れない。

 机の「メンテ中」札は通路に正対していて、視線を跳ね返す。

 脇の書見台を足先で半歩だけ引き、札と通路の間に**“戻し”の逃がしを作る。

 通りかかったシステム担当が「あ、戻り経路を」と呟き、自分の手で電源配列に遅延リレーを追加、LANの別経路を確実に切る**。

 震え。

 【下書き保存】——きる

 【下書き保存】——のこす



 夕方、玲生が手帳を示す。

 「外縁補足。公園、『後ろも見えた』。踏切は『押し込みが減った』。……会館は滞りなし」

 私はうなずき、胸の石が少し丸くなる。



 ケトルが鳴る。灯りが一瞬だけ明滅し、時雨がソファの背で耳を立てる。

 来る。

 私は椅子に座り、膝の上で指を組む。


 25:61。

 青い泡が三度、間を置いて湧いて沈む。

 既読:蒼真

 【下書き保存】——ふえたら

 【下書き保存】——もどせ

 【下書き保存】——さわるな

 【下書き保存】——ひがし/のぼる


 上流へ。私は“ボイスメモ”を開く。今日いちばん薄い拍。

 【保存:朝島(あさじま)取水堰・観測桟橋(上手)】


 上着を取り、時雨に「すぐ戻る」。彼は窓辺で耳を立てたまま見送る。



 桟橋の上手では、風が断続的に当たり、長柄の入りが良すぎて水面を過剰にかき回していた。

 触れない。

 私は欄干の十字の傷から半歩外、ボルト列と流れの中点に立ち、息で小さな還流を作る。

 四つ吸って、六つ吐く——吐きの後半で肩をわずかに戻す。

 片方の職員が引き際を一指分長く取り、もう片方が入り幅を半指削る。

 水面は静かに落ち、網の手前の草の束が泡立たずにほどけて流れへ戻る。

 震え。

【下書き保存】——おちついた

【下書き保存】——いきた


 踵を返す途中、舗装の白い「25-6-1」の**“2”の頭に泥がつき、戻す指で拭えば消えそうだった。

 私は近寄らず、胸の中だけで一拍分**戻す。



 帰宅。テーブルにスマホを置く。青い泡が遅れてひとつ。

 既読:蒼真

 【下書き保存】——みてた

 【下書き保存】——ありがと

 【下書き保存】——まだ

 【下書き保存】——ごめん


 私はスマホを胸に当て、深く吸って、ゆっくり吐く。

ノートを開き、今日をまとめる。


 《主観ログ・第二十五夜》

 ・地下西口:逆向き半拍の合図で還流→「おちついた/よかった」

 ・白妙公園:抑えの一拍で視界回復→「みえる/のこった」

 ・踏切北側:白線内側へ一呼吸戻す→「まにあう/いきた」

 ・図書館PC:遅延リレーで戻り経路→「きる/のこす」

 ・堰上手:入り半指削り/引き一指延長→「おちついた/いきた」

 ・遵守:触れない/知らせない/鏡を増幅しない/増えた分だけ静かに戻す

 ・メッセージ:「ふえたら/もどせ/ひがし/のぼる/さわるな」「みてた/ありがと/まだ/ごめん」

 ・仮説更新:負帰還(フィードバック)は“暴れないための返し”。返すとは、行きすぎをそっと還流させ、世界の基準へ戻すこと


 灯りを一つ落とし、窓に映る自分の肩を半指だけ下げる。

 押したら、戻す。

 それだけで、今夜の呼吸は楽になる。


 ——既読が、鳴る。

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