第23話「減衰(ダンピング)という鎮め」

 朝、窓に息を落とす。白は薄く広がり、音もなく消えた。

 昨夜の四行——みてた/ありがと/まだ/ごめん。

 “まだ”の手前で、今日は揺れを止めないで鎮めると決める。切らず、煽らず、減衰だけ与える。


 ノートに見出しを書く。

 《今日の方針:**減衰(ダンピング)**で鎮める/触れない/知らせない/視界で返す》


 時雨(しぐれ)が尾を一度だけ振る。四つ吸って、六つ吐く。



 午前の返却ラッシュが収まると、影浦玲生(かげうら・れお)が手帳を掲げた。

 「外縁ログ。非常灯・区掲示は平常。会館は朗読本番と防災ラックの間引き継続。……寄贈パソコン、電源オフでも“Draft(1)”が一瞬点いて消えた。システム担当は『短窓残響+許容値ゼロ設定の名残』と」


 私は頷く。「主観は良。息、深い」


 「距離は保つ。僕は風景だけ拾う」



 児童コーナーの掲示を貼り替えていると、ポケットがひと拍だけ震えた。

 【下書き保存】——ゆれてる

 【下書き保存】——おさえろ


 “ボイスメモ”を開く。空調の底、そのまた下に金属のさざなみ。

 【保存:南桜(みなみざくら)地下歩道・中間踊り場】


 「掲示の紙、切らしてて——」とだけ告げて外へ。玲生が目で外縁了解。


 踊り場の手前で、下校列と台車の足音が互いに反射し、細かな揺れが増幅しかけている。

 触れない。

 私は手すり影の端に立ち、肩を微かに落として吐きを長めにする。

 先頭の生徒がその落ちを拾い、足の踏み下ろしが半拍だけ弱くなる。

 反響の尾が短くなり、揺れは鎮まる。

 震え。

 【下書き保存】——しずんだ

 【下書き保存】——よかった



 図書館に戻ると、玲生が透明付箋を足した。

 「外縁。地下の混み、自然解消。……寄贈PC、“Draft(1)”、午前に一回。ログは空白」


 私はしらせるなの線を胸でなぞり、うなずく。



 昼すぎ、ポケットが二度震える。

 【下書き保存】——ふたつ

 【下書き保存】——えらんで


 底で異なる拍。保存名が連続で埋まる。

 【保存:白妙(しろたえ)公園・鉄棒そば】

 【保存:観潮(かんちょう)踏切・北側】


 減衰の効きが早いのは公園だ。鉄棒そばを選ぶ。


 鉄棒にぶら下がる子らの笑いと、ベンチのリコーダーが同時に尖り、一瞬だけ騒音になる。

 触れない。

私は鉄棒の影の端に立ち、手のひらを下に向けて空気を撫でる。

 ベンチのお母さんが視界の端でそれを拾い、テンポをほんの少し遅らせ、子どもが一拍だけ深呼吸する。

 音の尾が短くなり、輪郭が戻る。

 震え。

 【下書き保存】——まるく

 【下書き保存】——のこった


 踏切へ回る。終わり際、台車の押手が肩で勢いを足し、赤の余韻が長くなる。

 私は時刻表ガラスの前で顎を半指落とし、視線を地面へ沈める。

 押手が肩の力を抜き、次の拍へ送る。

 揺れは跳ねずに落ちた。

 震え。

 【下書き保存】——まにあう

 【下書き保存】——いきた



 館内を抜ける途中、寄贈パソコンの黒い画面の隅で“Draft(1)”がふっと灯り、0に戻る。

 触れない。

 机の「メンテ中」札が通路ぎりぎりに立ち、視線が当たって跳ねる。

 脇の書見台を足先で半歩だけ引き、札と通路の間にやわらかい余白を作る。

 通りかかったシステム担当が「あ、立ち上がりを鈍くします」と自分の手で電源配列を遅めに組み直し、LANの別経路を確実に切る。

 震え。

 【下書き保存】——きる

 【下書き保存】——のこす



 夕方、玲生が手帳を示す。

 「外縁補足。公園、『音が丸くなった』の投稿。踏切は『小走りが減った』。……会館本番は滞りなし」

 私は頷き、胸の石が少し丸くなる。



 ケトルが鳴る。灯りが一瞬だけ明滅し、時雨がソファの背で耳を立てる。

 来る。

 私は椅子に座り、膝の上で指を組む。


 25:61。

 青い泡が三度、間を置いて湧いて沈む。

 既読:蒼真

 【下書き保存】——ゆれてる

 【下書き保存】——おさえろ

 【下書き保存】——さわるな

 【下書き保存】——ひがし/のぼる


 上流へ。私は“ボイスメモ”を開く。今日いちばん薄い拍。

 【保存:朝島(あさじま)取水堰・観測桟橋(下手の影)】


 上着を取り、時雨に「すぐ戻る」。彼は窓辺で耳を立てたまま見送る。



 桟橋の下手では、風が断続的に当たり、長柄の入りと抜けが小刻みに揺れていた。

 触れない。

 私は欄干の十字の傷の少し外、ボルト列と流れの中点に立ち、吐きを長くして息の尾を作る。

 片方の職員がその尾に合わせて引きの終わりをゆっくり閉じ、もう片方が入りを浅く置く。

 減衰がかかり、網の手前の草の束が跳ねずにほどけて流れに戻る。

 水の音は、低い帯域で均された。

 震え。

 【下書き保存】——しずんだ

 【下書き保存】——いきた


 踵を返す途中、舗装の白い「25-6-1」は、今夜も角が少し欠けていた。

 私は近寄らず、四つ吸って、六つ吐く。

 揺れは、切らずに鎮める。



 帰宅。テーブルにスマホを置く。青い泡が遅れてひとつ。

 既読:蒼真

 【下書き保存】——みてた

 【下書き保存】——ありがと

 【下書き保存】——まだ

 【下書き保存】——ごめん


 私はスマホを胸に当て、息を整える。時雨がソファの背で耳を立て、目を細めた。

 ノートを開き、今日をまとめる。


 《主観ログ・第二十三夜》

 ・地下踊り場:踏み下ろしの尾を短く→「しずんだ/よかった」

 ・白妙公園:手のひらの撫でで尖りを減衰→「まるく/のこった」

 ・踏切北側:肩の力を抜き次の拍へ→「まにあう/いきた」

 ・図書館PC:配列を遅めに→「きる/のこす」

・堰下手:吐きの尾でばたつき防止→「しずんだ/いきた」

 ・遵守:触れない/知らせない/鏡を増幅しない/切らずに鎮める

 ・メッセージ:「ゆれてる/おさえろ/ひがし/のぼる/さわるな」「みてた/ありがと/まだ/ごめん」

 ・仮説更新:**減衰(ダンピング)**は“揺れの余熱”を静かに吸う作法。返すとは、終わり方を世界に返すこと


 灯りを一つ落とし、吐きを少し長くした。

 切らない。鎮める。

 それだけで、今夜の呼吸は楽になる。


 ——既読が、鳴る。

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