偽典・どらどら☆あいらんど・サガ
東京家兵
夜風とともに
夜の風は塩の匂いを運んできて、火番台の炎をかすかに揺らした。
島は静かだった。波が岩肌を嘗め、遠くでフクロウに似た夜鳥が鳴いた。広場と呼ぶにはささやかな石畳の中央に、開きかけの革表紙の冊子が置かれている。帝国式に組んだ法文草案。頁の余白に、ボクは細い筆で条文案をいくつか書き足して、それから筆を置いた。
下の浜のほうで、濡れた靴の音がした。誰かが、夜の海からやって来る。
「——入っていいよ」
声に応じて、闇が一つかたちを取った。痩せている。黒い上衣。頬骨の影が深い。
「きみが、天帝か」
「そう呼びたいなら。それでいいよ」
男は火番台に手をかざすでもなく、炎の明かりを避けるでもなく、ただ立っていた。視線は鋭かった。獣のそれというよりは、空虚な幾何学みたいな視線だ。
「見に来た」
「何を?」
「ひとりの指導者が、どうやって世界の形を変えるのかを」
ボクは肩をすくめた。
「世界の形は、変わらないよ。法も制度も、あくまで既存の事実を覆って、それを規律するものだ」
「だが、法とは何だ」男の口角がわずかに上がる。「支配者の意思が、文字の衣を着たものだ」
「それはそのとおり」
ボクは机——と言っても板の上に石を並べただけのもの——に置いた草案に手を触れた。
「法とは支配者の意思の発現だ。ボクは今、竜族でただ一人『国家』を組み上げられる立場にいる。ボクの意思としての法によって。けれど、ボクの理想は、法によって統治者を縛り直すことだよ。帝国で学んだ。あの怪物のような共同体をここまで永らえさせたのは、たしかに支配者の意思としての法だ。しかし、彼らの法は、けっきょく支配者としての皇帝が、彼の民を縛るためのものでしかない。ボクは、ボクをも縛る法を作る。その下でなら——」
「哲人王の治世が実現できる、とでも」
「そう——古い言葉だけどね。再製だ。再現じゃない。ここは竜の島だ。帝国の写しではない」
男は笑った。笑いは空気を温めなかった。
「きみは指導者原理の体現者だよ。きみは命じ、他は従う。きみの翼の下で、君の民は動く。ひとつの種族、ひとつの国、ひとりの指導者。きみにはそれを否定できまい」
「実質はそうだろうね」
ボクはため息をつく。「でも、それだけでは足りない。帝国が崩れたあとに残るべきは、ボクの王国じゃない。秩序だ」
「秩序——」男はその音を転がした。「では、秩序を乱すものは?」
「排除するよ」
「あの亜人のように?」
ボクは少し考えて、それから「ああ」と頷いた。忘れていた小石の位置を思い出すように。
「いたね、そんなの。法の外にいるものはモノと同じだ。権利も所有も持たない。保護する理由がない」
「川岸で死んでいった野蛮人たちは」
「使えるなら使う。不要になれば切り捨てる。ボクは慈善家じゃない。友愛は秩序を支えない」
炎がふっとしぼんで、すぐに元へ戻った。男は顔色一つ変えない。影だけが、火の上下に合わせて伸び縮みした。
「きみは、わたしが見た指導者たちの中で、最も正直だ」
「褒め言葉には聴こえないね」
「褒めているとも。だが、正直さはきみを救わない」
男はそこで一歩、火へ寄った。火は彼に熱を渡さなかった。
「見せてあげよう。むかし、わたしが築いたものを」
広場の石が、夜露を弾くように冷えた。瞬きの間に、石畳は別の石畳に変わる。高い建物が、旗の赤で飾られ、金属の光沢が整然とした列を作っている。万雷の拍手。整列。歓呼。少年の顔、少女の顔、軍靴、鼓動。十字に似た黒い意匠が、空の一部を切り取る。
——そして画は裂け、雪が砂のように降る。焼けた煉瓦。煤けた天井。地下室。最後の扉。硫黄の匂い。誰かの口紅が、卓上に転がっている。
燃える都。消える口笛。瓦礫の上に立つ、影。
「千年続くはずの帝国は、十二年も保たなかった」
男の声は、淡々としていた。
「法?それはわたしの声を忠実に複写した紙だった。裁判官は手を上げ、法学者は頭を垂れ、詩人は沈黙を芸術と呼んだ。だが、紙は燃えた」
「……だから何だっていうの」
ボクは、あの帝都の夜景を思い出す。学院の塔から見た、文明の光。星を消すほどの光の海。あれは法の形だった。
「ボクは紙を燃やさない。紙でボク自身を縛る」
「きみはできると思うのか」
「できるようにやるさ」
「わたしも、そう思っていた」
風が一度だけ強く吹いて、火番台の火が横に伸びた。幻は煙のように細り、やがて消えた。広場は元の広場に戻っていた。革表紙の冊子、石の机、夜鳥の声。
「忠告しに来たの?」
ボクは言った。「それとも、自慢話?」
「予言だ」
男は火の向こうから、こちらを見た。
「君の野望は止められる。君が嫌う『人間の団結』と『征服欲』が、君を止める」
ボクは眉をひそめる。思い浮かぶのは、角のある黒髪の女の横顔だった。
——彼女は、ボクの友人だ。実態がどうであれ、ボクはそう信じている。彼女なら、ボクを止める方法を百も知っている。だが、男が示す気配は、彼女の匂いではなかった。葡萄酒や古い魔術書の匂いではない。
「彼女ではない」
男は首を振る。「角も、古い血も、法典の守りも、ここでは何の意味も持たない」
「じゃあ誰なのさ」
「人間の男だ。きみの友にはならない。だが、きみのやり方を真似る」
男はゆっくりとした調子で言葉を探す。「彼は、帝国の手続や慣習を、軍隊の号令ひとつで上書きする。議場を静まり返らせ、印璽の意味を空にし、そして『平和のため』に剣を抜く」
ボクの頭に、青い色が浮かんだ。
ラピスラズリ。何故だか、そんな石の名が舌に乗る。柔らかな茶色の髪、曇り空のような青い瞳。鞍に打つ金具の音。真っ直ぐで間違いやすい若さ。
ボクは知らぬ振りをして、口を閉ざした。
「きみは彼を見下すだろう。人間だ。短命だ。愚かだ」
「ボクは、人間を見下してはいないさ」
「では、そのうちのある者たちが、きみの築こうとする秩序を、きみ以上に上手に利用したら」
火の縁がはぜた。
ボクは草案に爪の先を置いた。紙の裏に、湿気が吸い込まれていく。
——帝国のやり方を借りる。それは敗北ではない。ボクはずっとそう言ってきた。実際、そうだ。寄生でも、盗用でもない。必要なものを、必要な場所で使うだけだ。
でも、その「使い方」を、人間の誰かが完璧に理解して、ボクより先に、ボクより大胆に、この世界へ押し広げるとしたら?
「それでも」
ボクは顔を上げる。「この島に秩序をつくるのはボクだ。人間じゃない。
「秩序は剣の背で測られる」
「剣の重さは数えることができる。だから、剣だけでは世界は続かない。手続と慣行は、剣より重いと人間は信じている——いや、信じていた。ならば、ボクはもう一度、それを信じさせる」
「では、きみは彼の前に立つのか」
「彼?」
「青い瞳の男だ」
男は、火の中の一点を見つめた。「彼はきみのために剣を抜かない。老いた帝国のためにも抜かない。自分のためにさえ。『平和のため』だ。言葉は美しく、手は血まみれだ。君は気づく。彼の口にする『平和』の輪郭は、君の『秩序』のそれとよく似ている」
ボクは笑った。笑いは少しだけ熱を帯びていた。
「なら、話してみようかな」
「話が通じると思うのか」
「通じなければ、いずれにせよ剣の話になる。そうだろう?」
「——そうだろう」
男は火番台の縁に視線を落とした。薪の節が、顔に見えたのかもしれない。彼は一瞬、何かを踏み砕くような表情をして、それからまた石の像みたいに無表情に戻った。
「君の島も、やがて世界の潮に呑まれる」
「潮は読めばいい」
「君は賢い。だが、賢さは群衆を止めない」
「止めなくていい。群衆は、ボクを前へ進めるためにいる」
「ならば、最後にもう一つ」
男は火の上へ手を伸ばした。炎は彼の掌を舐めたが、皮膚に痕を残さなかった。
「きみの言う法——それはきみを縛るための鎖だ。だが、鎖はやがて、きみの民の手にも移る。きみはそれで彼らを縛るだろう。そうしても、彼らは鎖を振り回して、君の石畳を叩き割るようになるだろう。わたしのところでは、そうなった」
「その時は」
ボクは草案の頁を閉じた。「鎖を作ったのはボクだ。なら、壊れる音も、ボクが聴く」
「そうするがいい、天帝」
男は炎の内側へ一歩踏み入れた。影が火の中で裏返り、輪郭がぼやけた。塩の匂いが少し強くなった。
ボクが瞬きをしたとき、そこに立っていたのは、すでに誰でもなかった。
夜鳥がもう一度鳴いた。浜に打ち寄せる波の音は、何事もなかったように続いている。ボクは革表紙の冊子を抱え、石の机の上の砂を払った。筆先を湿らせ、「統治者の覊束」という見出しの下に、ひとつ条文の案を立てる。
紙は燃える。燃えるけれど、燃えるまでのあいだ、紙は重い。重さを増せば、火は遅くなる。
——文明の光は、暗闇を完全には追い払えない。けれど、灯りがひとつでもあれば、地図を描くのには足りる。
ボクは頁の端に、小さくこう書き添えた。
「剣と紙は、互いを疑いながら、互いを要する」。
そして、遠い青の色を思い出して、ほんの一瞬、目を閉じた。
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23/09/25 - AI生成品を軽く手直しして投稿。
偽典・どらどら☆あいらんど・サガ 東京家兵 @jkschmidt
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