浮遊する護衛

奈良まさや

第1話

第一章 転落の朝


五十二歳の秋山正樹は、つい一年前まで何不自由のない生活を送っていた。

システム構築会社の営業部長、年収七百万。郊外の一戸建て、看護師の妻・由美子、心理学を学ぶ大学生の娘・理香。

休日のドライブ、家族で囲む夕食、月一の外食。――それが“当たり前の幸せ”だと思っていた。


しかし、会社が突然吸収合併されたとき、運命は崩れた。古参の管理職は不要とされ、慰労金も退職金もなく放逐された。

五十を越えた元営業部長を雇う企業はなく、IT最前線の知識も追いつかない。

貯金はローンと生活費で減り続け、やがて底を突いた。


由美子は夜勤を増やして家を守ろうとしたが、疲労と苛立ちは募り、ある夜、離婚届を置いて実家へ戻った。理香も母とともに去り、父に残したのは冷たい視線だけ。


最後の砦だった家も滞納で差し押さえられ、残ったのは小さな鞄と小銭だけだった。

その朝、新宿駅西口の地下通路で段ボールを敷き、冷たい床に腰を下ろした瞬間、正樹は悟った。

――自分はもう、ホームレスなのだ。


第二章 地下道の掟


朝六時。清掃員に「邪魔だから出て」と追われ、段ボールを畳む。行き場なく地上へ出れば、仲間たちはすでに動き始めている。

駅周辺のゴミ箱を漁り、アルミ缶やペットボトルを集める。縄張りは厳格に決まっており、侵入すれば怒号が飛ぶ。


昼前には炊き出しの列に並ぶ。味噌汁と小さなおにぎり。老人や体の不自由な者に譲るのが暗黙の了解で、正樹が手にしたのは冷めた一つだけ。


「ここで生きたいなら、ルールを守れ。守れなきゃすぐ消える」

古参の男の低い声が胸に響く。

会社よりも苛烈な社会がここにあった。

――生き延びるには、この掟を学ばねばならない。


第三章 砕かれる誇り


空腹の夜。ベンチで座り込む正樹に、女子高生二人がパンを差し出した。

「おじさん、これ食べる?」


「いらない……」

プライドが邪魔して手を振ったが、少女たちは気にせずパンを置いて去っていった。

喉は渇き、胃は空っぽ。震える手で包装を破り、一口かじった瞬間、涙が頬を伝った。


その夜、古参が言った。

「ようやく施しを受けたな。これでお前も、こっちの人間だ」


過去の肩書きも家族も遠くなった。

――生きるためなら何だって受け入れるしかない。


第四章 幽体の門出


数日後、電信柱に頭をぶつけて倒れた瞬間、正樹は自分の体を上から見下ろしていた。

雲の上に立ち、黄色いベストのおじさんが笛を吹いていた。

「おっと、まだ来るのは早い。今、渋滞中なんでね。たま〜に抜けやすい体質になっただけさ。使い方は自己責任。さあ、お戻りください」


次の瞬間、強い力で体に押し戻される。


以来、意識を集中させると幽体が抜け、さらに他人に憑依して五分だけ動かせると分かった。ただし長居はめまいと吐き気を伴う。


奇妙な力が、正樹の生を再び動かし始めた。

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