誰が為の正義

大隅 スミヲ

第1話

 ショパンの革命のエチュードだった。

 赤いドレスを着た女性が派手な身振りでピアノを奏でている。

 それまで談笑をしていた誰もが会話を止め、その演奏を聞き入っていた。

 革命のエチュードが終わったと同時に、拍手が巻き起こる。

 ピアノを弾いていた彼女は深々と一礼をすると、そのまま控室へと引っ込んでいってしまった。

 その場に居た誰もが彼女に一杯奢りたいという気分になっていたはずである。

 しかし、彼女はそんな客の気持ちなど気にすることもなく、足早に去っていってしまったのだ。

 彼女は一体誰なのだ。多くの客がバーテンダーに問いかけていた。しかし、バーテンダーも彼女の正体までは知らないらしい。バーテンダーによれば、いつも来ているピアニストが急病で来られなくなったためにオーナーが代役を頼んだという。バーテンダーが知っていることはそれだけであり、彼女の素性などについては何も聞かされていなかったようだ。

 大勢の客が彼女についての情報を欲しがっていた。バーテンダーは「オーナーに聞いておきますよ」などと客たちの好奇心を逆撫でしないようにしながら、彼らにアルコールのおかわりを作っていた。

 しばらくして、髪の長い女性がカウンター席へとやって来た。全身を黒で統一したシックな装いで、黒縁の眼鏡をかけた、落ち着いた雰囲気のある女性だった。

 彼女は空いていた私の隣のカウンタースツールに腰を下ろし、グラスワインを注文した。

 店に居た客たちは、彼女の存在など気に留めることはなかった。しかし、私は気づいていた。彼女こそが先ほどの革命のエチュードを弾いたピアニストであるということを。ピアノを弾いていた時は、髪をアップにしてまとめていたし、メガネもかけてはいなかった。それに派手な赤いドレスを身にまとっていたため、いま目の前にいる彼女とはだいぶ印象が違っている。

「素晴らしい演奏でした」

 私は彼女にしか聞こえないくらいの小声でそう言うと、彼女は私の方をちらりと見てから微笑んで「ありがとう」と短く言葉を発した。彼女と言葉を交わしたのはその程度だった。

 彼女はグラスワインを飲み終えると、ふらりとどこかへと居なくなってしまった。

 しばらくの間、私はウイスキーのソーダ割りをちびちびと飲んでいた。

 店内ではピアノジャズが流れている。しかし、それは店内のスピーカーから流れているものであり、生演奏ではなかった。

 手帳に書き込んだメモを眺めながら、私はウイスキーのソーダ割りを飲んだ。仕事のことを考えながら酒を飲む癖はやめた方がいい。昔、同僚から言われたことがあった。しかし、私はその癖を直すことなく、未だに続けている。

「ラストオーダーになります」

 バーテンダーが私の前にやって来て声を掛けた。

 手帳から顔をあげた私はバーテンダーに同じものをもう一杯注文し、グラスの中身を空にした。

 ほとんどの客が帰り、バーテンダーが閉店の準備を始めた頃、再び彼女が戻ってきた。

 彼女は私の隣の同じ席に腰を下ろし、グラスワインをまた注文する。

 バーテンダーは嫌な顔ひとつせずに彼女にグラスワインを提供し「ラストオーダーになります」と付け加えた。

 店内にいる客は私と彼女だけだった。まるで私たちは古くからの知り合いのようにバーカウンターに二人並んで座っている。

 彼女がワインを半分ほど飲んだところで、私は彼女に話しかけた。

「どこかへ行かれていたのですか」

「……そうね。ちょっと古い友人に会ってきたの」

「そうでしたか」

 あまり会話をしたくなさそうに思えたため、私はそこで会話を打ち切って自分のグラスの中身を空にした。

「ごちそうさま」

 私はバーテンダーに声を掛け、レジで料金を支払うと、ちらりと彼女の方へと視線を送った。

 彼女は唇のタバコを咥え、火をつけようとしているところだった。

 銘柄はわからないが、細長いタバコだ。

 私はなぜか彼女のその仕草に目を奪われていた。

「またのご来店をお待ちしております」

 バーテンダーにそう言われて、私は我に返った。

 少し酔っているのだろうか。そんなことを思いながら、私は店を後にした。

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