迷い-前編

 エリオットは静かにユグリットから身を引いた。

その瞬間、ユグリットはまるで拘束が解かれたかのように、小さく息をつく。

自分の乱れた宮廷衣を手早く整えながら、逸る鼓動を抑えようとするが、なかなかうまくいかない。


部屋の中には気まずい沈黙が流れていた。


ユグリットは何か言わなくてはと思いながらも、何を言えばいいのか分からず、ただうつむく。

そんな彼を見つめながら、エリオットは穏やかに微笑んだ。


「喉が渇いたでしょう?」


そう言いながら、先ほど出したお茶の入ったカップをユグリットの前に差し出す。

ユグリットは一瞬戸惑い、カップを見つめた。


(……飲んでも、大丈夫だろうか?)


そんな疑念が浮かぶが、それを察したかのように、エリオットは肩をすくめて微笑む。


「安心してください。何も入っていませんよ。」


 冗談めかした口調だったが、彼の瞳はどこまでも深く、ユグリットを見透かしているようだった。

その視線に射すくめられたユグリットは、無意識のうちにカップを手に取り、ゆっくりと喉を潤した。


けれど、胸のつかえは取れなかった。


気まずい時間が流れる。

友人として絵を見に来ただけだったはずなのに——

こんなことになってしまった。


そして何より、ユグリットは自分の本心を知ってしまった。


カップの水面に映る自分の顔を見つめる。


(……私は、ラーレとニルファールを愛しながらも……エリオットの愛にも、揺らいでいる……?)


思い出すのは、さっきの出来事。


——「愛しているのなら、やめてほしい。」


ユグリットが震えながらそう言ったとき、エリオットの手は止まった。

そのことに、ユグリットの心は強く反応してしまったのだ。


もしもエリオットが支配を止めなかったら、それではっきりと拒絶できたのに。

それなのに、彼がユグリットの言葉に応じたことで、心の奥底に 「エリオットが変わるかもしれない」 という希望が生まれてしまった。


(私は……どうしたらいい……?)


胸が締め付けられるように苦しくなる。


涙が溢れそうになり、ユグリットは慌てて瞬きをした。

今ここで泣いてはいけない。

でも、このどうしようもない感情をどうしたらいいのか、ユグリットには分からなかった。


対面するエリオットは、まるで何もなかったかのように、穏やかに微笑んでいた。

まるで、ユグリットが答えを出すのを待っているかのように——。


ユグリットはカップの水面に映る自分の顔を見つめながら、胸の奥に渦巻く感情を必死に押し殺していた。


(……私が出すべき答え……?)


ラーレとニルファールの愛が脳裏をよぎる。

彼らはどこまでも純粋で、ユグリットを無理やり縛りつけることなどしない。

それに対して、エリオットの愛は甘く、強引で、ユグリットを逃がさない——。


「……エリオット。」


静かに名を呼ぶと、エリオットは微笑みを深めた。

その瞳は、まるで全てを見透かしているようで、ユグリットの心臓が跳ねる。


「……私は……」


言葉が詰まる。

何を言えばいいのか。

友人としての関係に戻りたいと?

それとも、彼の愛を受け入れるのか?


ユグリットは拳を握った。


「……もう、帰らないと。」


それが、今のユグリットに言える限界だった。

エリオットは一瞬だけ目を細めたが、すぐに静かに頷いた。


「ええ、お引き止めしてしまいましたね。」


そう言いながらも、彼はどこか余裕を持った表情だった。

ユグリットの迷いを見抜いているからだ。


「またお会いしましょう、ユグリット。」


名を呼ばれるたびに、囚われそうになる。

ユグリットはそれ以上、何も言わずに立ち上がり、扉へと向かった。


しかし、扉に手をかけた瞬間——


「——あなたは、どんな愛を選ぶのですか?」


背後から、優しく、しかし絡みつくような声が落ちた。


ユグリットは振り返らなかった。

ただ、胸が締めつけられるのを感じながら、静かに扉を開いた——。


ユグリットは、自室へと戻った。


扉を開けた瞬間、目に飛び込んできたのは、待っていた二人の姿だった。


——ラーレと、ニルファール。


二人とも、ユグリットの帰りを待ち続けていたのだと、一目で分かった。


「ユグリット!」


ラーレがすぐに駆け寄ってきた。その後ろには、半神の姿になったニルファールが、静かに佇んでいる。


その瞬間——


堪えていたものが、決壊した。


ユグリットの瞳から、次々と涙が溢れた。

どうしてか分からない。ただ、彼らの顔を見た途端、心が解けるように崩れてしまったのだ。


——私は、帰ってきたのだ。


「帰ってきてくれたのですね……」


ニルファールが、そっとユグリットを抱きしめた。

優しく、全てを包み込むように。


ユグリットの体温を確かめるかのように、その腕の力は穏やかだった。

けれど、その奥にあるのは、確かな愛情と安堵だった。


「……ニルファール……」


ユグリットは、震える声で名前を呼んだ。


ニルファールはユグリットの心の迷いを、すでに感じ取っていた。

それでも、何も問わず、ただ静かに抱きしめ続ける。


ユグリットは、震える唇を噛んだ。

「私は……」と言いかける。


しかし——


「何も言わないで……」


ニルファールはそう囁き、ユグリットの髪をそっと撫でた。


決して責めることなく、問い詰めることもなく——

ただ、母が迷える子を抱くように、すべてを包み込む。


ユグリットは、その温もりに、さらに涙が止まらなくなった。


「僕は、怒っているよ……ユグリット。」


ラーレの声が、少し震えていた。


ユグリットは、そっと顔を上げる。

ラーレは、ユグリットの三つ編みを撫でていた。

その髪は、エリオットの手によってわずかに乱れていた。


「……あんなに忠告したのに……!」


怒っているような、悲しそうな、複雑な顔だった。


ユグリットの迷いも、揺れる心も、ラーレには分かっていたのだろう。


それでも、彼はユグリットが傷つくのを何よりも恐れていた。


「ごめんなさい……」


ニルファールの腕に抱かれたまま、ユグリットは、謝罪の言葉を絞り出した。


その言葉には、あらゆる感情が詰まっていた。


迷い、後悔、恐れ、そして——まだ拭い去ることのできない、揺れる想い。


それでも、ユグリットは今、確かにここへ帰ってきたのだ。


ラーレは、小さく息を吐くと、ユグリットの頬にそっと手を添えた。


「……もう、どこにも行かないで。」


小さな囁きが、静かに響いた。


ユグリットは、次第にニルファールの腕の中で落ち着きを取り戻していった。

彼の半神らしいたおやかな姿からは、優雅な花のような香りが漂い、それがユグリットの心を穏やかにする。

まるで、激しく揺れていた心が、静かに凪いでいくような感覚だった。


「ユグリット……あなたを深く愛していますよ。」


ニルファールの声は柔らかく、夜露に濡れた花弁のように甘やかだった。

その一言が、ユグリットの胸の奥深くに、そっと染み渡る。


「あなたがどんなに迷おうと、私の心はあなたと共にいます。」


そう囁きながら、ニルファールはユグリットの頬にそっと指を添えた。

その仕草は、愛を誓うように、静かで、深く、優しい。


——ニルファールの指先は、エリオットのそれとは全く違っていた。


エリオットの指は、熱を帯びていて、強く求め、時に絡みつくような誘惑を孕んでいた。

だが、ニルファールの指先は違う。

それはすべてを赦し、迷える心を包み込むような、慈愛に満ちたものだった。


ユグリットは、ふっと息を漏らした。

その安堵の吐息さえも、ニルファールは愛おしげに受け止めるように、ただ優しく微笑む。


ユグリットは、目の前の彼をまっすぐに見つめた。

金の睫毛に縁取られたスミレ色の瞳は、どこまでも深く、優しく、彼を包み込んでいた。

そこには、見返りを求めない、純粋で、限りなく透き通った愛が宿っていた。


(あぁ……この人だ……)


ユグリットの胸の奥に、ゆっくりとした温かな確信が広がっていく。

エリオットの激情に揺らぎ、迷い、恐れた自分が、今は静かに溶けていく。


ユグリットは、そっと微笑んだ。

まるで夜明けの空が、やわらかく白むように——。


ニルファールは、その微笑みを見て、何も言わずにただユグリットを抱きしめた。

それは、言葉にする必要のない、深い愛の証だった。


ラーレの声が、どこか寂しげに揺れた。


「ねぇ、僕のことも忘れないで……」


ユグリットは驚き、そして申し訳なくなった。

ラーレの顔には困ったような、けれどどこか甘えるような表情が浮かんでいる。


「……当たり前だろう。」


ユグリットは優しく微笑み、そっと手を差し出した。


ラーレは一瞬目を丸くしたが、次の瞬間、ホッとしたようにその手を取ると、まるで愛しさを確かめるかのようにユグリットを抱きしめ、頬に軽くキスを落とした。


「ラーレ……くすぐったい。」


ユグリットは小さく笑いながら、同じようにラーレの頬にそっと唇を寄せた。


ラーレの顔が一瞬赤く染まり、嬉しそうに目を細める。

その様子を見て、ユグリットはますます彼を愛おしく感じた。


そして、隣にいるニルファールへと向き直る。

穏やかに微笑む半神の姿——ユグリットはそっと彼に触れるだけのキスをした。


けれど、気づけばそのキスは次第に深まっていく。

ユグリットの方から、ゆっくりと求めるように。


ニルファールはその変化に気づき、囁くようにユグリットの名を呼んだ。


「ユグリット……」


その声がどこまでも優しく、熱を帯びていることに、ユグリットの心が揺れる。


キスの合間に、ニルファールの姿が少しずつ変わる。

中性的な半神の姿から、ユグリットの心が求める——より男性的な姿へと。


豊かな金髪が光を受け、スミレ色の瞳が熱を帯びながらも、静かにユグリットを見つめていた。

官能的な気配を纏いながらも、ニルファールは決して無理に求めようとはしない。


ただ、ユグリットが求めるのを待っている。


その優しさが、ユグリットには愛おしくてたまらなかった。

彼がどれほど自分を尊重し、愛してくれているのか、改めて胸に沁みる。


そして、ラーレのことも——。

彼の真っ直ぐな愛もまた、かけがえのないものだ。


(……この二人を、ずっと大切にしたい。)


ユグリットはそう強く願いながら、ニルファールの胸元にそっと額を寄せた。

その瞬間、ニルファールの腕が優しくユグリットを包み込む。


ラーレもまた、愛しげに微笑みながら、ユグリットの手を握った。


三人の心が、静かに一つに結ばれるように——。


 昼食の席、ユグリットは肩に小鳥のニルファールを乗せ、何事もなかったかのように振る舞った。

向かいに座るエリオットもまた、穏やかな笑みを湛え、先程の出来事を思わせる素振りを一切見せなかった。

ラーレはユグリットに軽口を叩きながら、場を和ませるように振る舞い、表向きは静かで和やかな時間が流れていた。


——しかし、その均衡は、コーネリアの何気ない一言であっさりと崩れ去った。


「そういえば……ユグリット、エリオットに絵を見せてもらえたのかしら?」


ユグリットは思わず喉を詰まらせた。

ラーレが隣でさりげなく背中を摩るが、ユグリットの指先は緊張に強張る。

エリオットは一瞬だけ動きを止めたが、その優雅な表情を崩すことはなかった。


(……どう答えればいい?)


心の中で言葉を探すユグリットとは対照的に、エリオットがすぐに口を開いた。


「ええ、見せましたよ。」

「そして…絵が完成したのです。」


その言葉に、コーネリアの顔が輝いた。


「まぁ、完成したのね! なんて題名をつけるの?」


ユグリットは、息を呑んだ。

エリオットは微笑みながら、静かに答える。


「《誘惑の書》ですね。」


その瞬間、ユグリットの手が微かに震えた。

昨日、あの部屋で起こった出来事——エリオットの甘やかな言葉、抗えない熱、そして揺れる心——それら全てが、この題名に込められているように感じた。


コーネリアは目を瞬かせた後、興奮したように声を上げる。


「誘惑?! まぁ、なんて絵を描いたの?! 今度見せてちょうだいね!」


彼女はユグリットとエリオットを恋仲だと誤解したまま、目を輝かせていた。

その好奇心に満ちた視線は、まるで二人のロマンスを楽しむ観客のようだった。


「良いわね……愛する人に描いてもらうなんて……」


彼女はうっとりとした表情で呟く。


そして——


「私もいつかアイーシャに……」


口を滑らせたことに気付き、コーネリアは慌てて口を押さえた。


ユグリットの目が一瞬、驚きに見開かれる。

コーネリアが愛しているのは——アイーシャ? 侍女のアイーシャを?


コーネリアは一瞬動揺したものの、すぐに取り繕うように咳払いをして、笑顔を浮かべた。


「あ、あぁ、な、なんでもないのよ! さぁ、食事の続きよ!」


場を取り繕うように、彼女はフォークを手に取り、話題を変えようとした。

だが、ユグリットはもう気付いてしまった。


(コーネリアも……愛に揺れているんだ。)


自分だけではない。

コーネリアもまた、誰にも言えない想いを抱え、心を迷わせているのだ。


ユグリットはエリオットの絵の題名を気にかかりながらも、コーネリアの想いに、ふと親近感を覚えた。


ユグリットは昼食の後、午後の時間をコーネリアと共に過ごそうと決めた。

彼女の恋心に興味を持ったからだ。


(まさか、コーネリアも愛に揺れているなんて……)


自分と同じように迷いを抱えている人物が身近にいたことに、今まで気づかなかった。

それを知った今、ユグリットは彼女の気持ちに寄り添いたいと思った。


「コーネリア……午後、一緒に過ごしても良いだろうか?」


そう声をかけると、コーネリアは目を瞬かせた後、ぱっと笑顔を輝かせた。


「まぁ、嬉しい! もちろんよ、ユグリット!」


彼女は心から嬉しそうだった。

ユグリットも、そんな彼女の素直な反応に安心し、柔らかく微笑む。


しかし——


「私もご一緒してよろしいですか?」


不意に割り込んだのは、エリオットの声だった。


ユグリットの背筋が一瞬強張る。

だが、エリオットの表情は優雅で、まるで当然のようにそこにいる。


「良いわよ、エリオット。」


何の迷いもなく答えるコーネリア。

彼女はまだ、エリオットとユグリットが恋仲だと誤解している。

だからこそ、エリオットがユグリットの傍にいることを、むしろ微笑ましく思っているのだろう。


ユグリットはどうすべきか迷ったが、すぐに別の声が飛び込んできた。


「じゃあ、僕も!」


焦るような声で、ラーレが手を挙げた。


ユグリットは驚いて彼の方を振り向いた。

ラーレは眉をひそめ、明らかに警戒した目でエリオットを見ている。


(……ラーレは、守ろうとしてくれているんだ。)


昼食の間、ラーレはユグリットの様子を気にしていた。

そして今、エリオットがユグリットの傍にいることに、明確に警戒心を抱いている。


「まぁ、ラーレまで! これで全員ね。」


コーネリアは朗らかに笑いながら、小鳥のニルファールを指に乗せた。


ニルファールは小さく鳴いたが、エリオットを鋭く見つめている。

その小さな瞳には、静かな警告の色が滲んでいた。


(……どうして、こうなってしまったのだろう?)


ユグリットは、そっと息を吐いた。


本当は、コーネリアと二人だけで静かに過ごすはずだったのに——

今や、全員が揃ってしまった。


それが吉と出るか、凶と出るか……

ユグリットの胸には、不安が静かに渦巻いていた。


「そうね……午後はピクニックをしましょう。」

 

コーネリアは、優雅に微笑みながら提案した。

 

「刺繍や絵を描いて、思い思いに過ごすの。過ごしやすい服に着替えてきて頂戴。庭園に集合よ。」


ユグリット、ラーレ、そしてニルファールは、それぞれ部屋へ戻ることにした。

侍従達の手を借りながら、彼らは宮廷の格式張った衣装から、動きやすく品のあるピクニック用の軽やかな衣へと着替えた。


ユグリットの衣は、淡い青を基調とした優雅な装いだった。

ラーレは活発な雰囲気に似合う明るいクリーム色の衣を纏っていた。

ニルファールは小鳥の姿のままだった。

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