夢-中編

 王宮の食堂は朝の光に包まれ、豪奢な食卓には温かい湯気の立つ料理が並んでいた。

けれど、ユグリットの手は躊躇いがちにスプーンを握りしめ、皿の上のスープを掬おうとしていた。


——視線を上げたくない。


正面に座るエリオットの存在が、ユグリットの意識をひどく揺さぶった。

一昨日見た夢のせいだ。

彼の前に跪き、すべてを差し出したあの甘美な幻影が、未だ頭から離れない。


(忘れなければ……理性を保たなければ……)


しかし、心とは裏腹に、ユグリットの動きはぎこちなく、おどおどと視線を伏せてしまう。

そんな彼の様子を、コーネリアが優しく心配そうに見つめ、声をかけた。


「昨日、二人とも体調が良くなかったと聞いたわ。もう大丈夫なの?」


ユグリットが返事をする前に、ラーレが軽やかに笑みを浮かべ、間髪入れずに答えた。


「ちょっと風邪をひいただけだよ。もうすっかり良くなった。」


元気そうな声だったが、その言葉の裏には、ユグリットを守ろうとする意図があった。

ユグリットが言葉に詰まることのないように——

エリオットに付け入る隙を与えないように——


それを察したユグリットは、微かにラーレの袖を握る。

けれど、向かいの席からの視線は、なおも鋭く突き刺さるように感じられた。


エリオットは、物珍しそうにユグリットを見つめていた。

いつもなら冷静で理知的な態度を崩さないユグリットが、今はまるで怯えた小動物のように伏し目がちになっている。

珍しい……いや、興味深い。


(これは……面白いですね)


そんなふうに考えているのかもしれない。

エリオットの唇が、僅かに楽しげに歪んだ。


ユグリットは、鼓動が速くなるのを感じた。

このままでは、また絡め取られる——

分かっているのに、心が勝手に縛られそうになる。


その瞬間、肩にふわりと柔らかな温もりが寄り添った。

黄金の羽を持つ小さな鳥——ニルファールだった。


彼はユグリットの頬へそっと身を寄せる。

まるで、母親が子を守るように。


ユグリットは、小さく息を吸い込んだ。

守られている——そう思うと、少しだけ安心できた。


震えていた指が落ち着きを取り戻し、再びスプーンを握る。

温かなスープを口に運ぶと、ようやく味がした。


(……大丈夫、私は一人じゃない。)


不安で味のしなかった朝食が、少しずつ、本来の味を取り戻していった。


朝食が終わり、ユグリットはそっと息を吐いた。

肩に乗っていた小鳥のニルファールがふわりと飛び立ち、コーネリアに呼ばれた先へと向かっていく。

ラーレもまた、侍従に呼ばれ、食堂を去った。


——気づけば、一人だった。


不安が胸の奥にじわじわと広がる。

誰かが傍にいてくれれば、それだけで安心できたのに。


その時——

ふと背後から、柔らかな声が響いた。


「まだお加減が悪いのですか?」


低く、落ち着いた声音。

ユグリットの背筋が瞬間的に強張る。


「夜風に当たったからでしょうか?」


エリオットだった。


ユグリットは反射的に俯いた。

彼と目を合わせるのが怖かった。

どこまでも優雅で理知的な声が、まるで温かな手で誘うように耳に触れる。


——視線を合わせてはいけない。

けれど、どうしても惹かれてしまう。


「こんなに震えて……」


優雅に目を細めながら、エリオットが一歩近づいた。

ユグリットは、じり……と後ずさる。


「私が怖いのですか?」


ふっと、小さく笑うような囁きが聞こえた。

エリオットは知っている。

ユグリットが、今朝からどこか幼い心を引きずっていることを。

だからこそ、揺さぶるように、甘く問いかけてくる。


「さぁ、怖がらないで……。」


静かに、そっと手が差し出される。


その指先は白くしなやかで、美しく整えられていた。

それなのに、ユグリットには、まるでその手が冷たい鎖のように思えた。


(……拒絶しなくては。)


頭ではそう思うのに、身体が動かない。

喉がひどく乾いて、言葉も出てこない。


ユグリットの震える指先が、そっとエリオットの手の上に乗せられた。

拒絶の言葉は、どうしても口から出てこなかった。


——怖い。

けれど、だからこそ、抗えない。


「庭園で、一緒に語らいましょうか?」


エリオットはユグリットの手を包み込むように握りながら、穏やかに誘う。


ユグリットはただ、視線を下げたまま俯くだけだった。

逃げられなかった。

もう、この手を振り払うことさえできない。


庭園へ向かう足音が、静かに響いた——。


王宮の庭園は、朝の陽光を浴びて穏やかに輝いていた。

風に揺れる花々が優雅に咲き誇り、その色彩が静かな空間に華やぎを添えている。


ユグリットは、エリオットに手を取られたまま歩いていた。

その歩みは決して強引ではなく、むしろ優雅で緩やかだったが——

まるで大人の男が幼い子どもを誘導するような仕草だった。


(どうして……抵抗できないのだろう)


エリオットの指先はユグリットの手をそっと包み込んでいた。

それは決して力強くはないのに、逃れることを許さない圧力があった。


庭園の一角に差し掛かったとき、エリオットが足を止める。

彼の視線の先には、紅い可憐な花が咲いていた。


「美しい花ですね……まるで貴方のようだ。」


静かに紡がれたその言葉に、ユグリットは僅かに肩を揺らした。

エリオットは細い茎を指で撫でるようにしながら、その瞳をユグリットへと向けた。


「摘み取ってしまいたい。」


その声は甘く、低く、どこまでも魅惑的だった。


「私だけのものにしてしまいたい。」


ユグリットの心臓が跳ねた。


——拒絶しなければ。


いつものユグリットなら、そこでしっかりと拒絶することができたはずだった。

エリオットの囁きが何を意味するのか、本能的に察していた。


だが——


今日のユグリットは、ただ俯くだけだった。


視線を合わせたら、もう戻れなくなることがわかっていたから。


静寂が訪れる。


エリオットはユグリットの沈黙を愉しむように、唇をわずかに歪めて微笑んだ。

そして、優雅に紅い花を摘み取ると、その花弁を指で撫でた。


ユグリットは動けなかった。

摘み取られた花が、自分自身の運命のように思えて。


ユグリットのすぐ側へと歩み寄りながら、エリオットは微笑んだ。

彼の目は穏やかに細められていたが、その奥には何か別の光が宿っている。


次の瞬間——


エリオットの指がユグリットの髪へと伸びた。


摘み取ったばかりの紅い花をそっと耳にかける。


「……ほら、やはりよく似合います。」


ユグリットは思わず息を呑んだ。

突然の仕草に驚き、頬が熱くなるのを感じる。


——拒まなければならない。


そう思いながらも、ユグリットの身体は動けなかった。


エリオットの視線が、じっとユグリットを捉えている。


紅い花を飾られた己の姿は、まるで飾り立てられた獲物のようだった。


「……そこの木陰で休みましょうか?」


柔らかな声が誘うように響いた。


指先がゆるりと宙を指す。

視線の先には、白いベンチ。


木陰に静かに佇むその場所は、ひんやりとした風が通り抜け、陽光が揺れていた。


けれど、ユグリットにとっては、そこが安らぎの場には思えなかった。


(……休む? ここで……?)


頭では拒絶すべきだと理解しているのに、足は微かに動こうとしてしまう。


エリオットは、ユグリットの手を取るでもなく、ただ歩みを緩めながらそっと導く。


まるで恋人をエスコートするかのように——。


ユグリットの胸が高鳴る。


それは恐怖か、それとも……。


己の本能すらわからなくなるほど、エリオットの存在が心を乱していた。


ユグリットは身を強張らせたまま、エリオットの隣に腰掛けた。

眩しいほどに美しく手入れされた花々が咲き誇り、微かな風が香りを運んでくる。

けれど、ユグリットの胸の奥では、不安と焦燥がせめぎ合っていた。


エリオットは穏やかに微笑んでいた。

その優雅な振る舞いは、まるで心を許してしまうほどに自然で——けれど、その裏に潜むものはあまりに妖しく、抗いがたい。


「……震える貴方もかわいいですよ。」


耳元にそっと囁かれた瞬間、ユグリットの身体がびくりと震えた。

エリオットの声は低く、甘く、どこまでも絡みつくような響きを持っていた。

まるで逃げ場のない檻の中に囚われたような感覚がユグリットを襲う。


「……っ」


震えを止めようと、ぎゅっと拳を握る。

けれど、エリオットの視線を意識するたびに、胸の奥で疼くような感覚が広がっていく。


——このままでは、私は——


ユグリットが呼吸を乱しそうになった、その瞬間だった。


黄金の影がふわりと膝の上に降り立つ。


「……っ!」


ユグリットの膝に、小さな黄金の小鳥が舞い降りた。

——ニルファールだった。


「……ニルファール……!」


ユグリットの目が大きく見開かれる。


——理性が、一気に戻った。


温かな羽毛の感触。

ユグリットの手のひらの中で、ニルファールは震えていた。

まるで、彼の危機を察し、必死に飛んできたかのように。


ユグリットは胸が締め付けられた。

どれほど心配していたのだろう。

エリオットの傍にいる自分を、どれほど恐れていたのだろう。


ユグリットの心が、一気に現実へと引き戻される。

彼の指の中で、ニルファールが小さく震えた。

まるで「目を覚まして」と訴えるように。


ユグリットは、両手でそっとニルファールを包み込み、震える羽を撫でた。

あたたかな羽毛の感触が、心を落ち着かせていく。


——私は、何をしていた?


しかし、その静寂を破るように、

慌ただしい足音とともに、女性の声が響いた。


「ニルファール!? どこに行っていたの!?」


コーネリアだった。


彼女の肩にいたはずのニルファールが急に飛び去ったことに驚き、後を追ってきたのだろう。

そして、庭園の一角にいるユグリットとエリオットの姿を目にした瞬間——


「……まぁ!」


コーネリアは息を呑んだ。


——そして、すぐに察した。


白いベンチに並んで座る二人。

エリオットの優雅な雰囲気。

ユグリットの耳にかけられた紅い花。

甘く親密な雰囲気——。


「あなた達って……!」


コーネリアの声が驚きと興奮に満ちる。


ユグリットは慌てた。


「ち、違う! 誤解だ、コーネリア!」


必死に否定しようとする。

しかし——


「コーネリア王女、驚かせてしまいましたか?」

「…そうですよ、私達は愛を語り合っていたのです。」


優雅に微笑みながら、エリオットがさらりと言った。


「……っ!?」


ユグリットは一瞬、言葉を失った。


「愛……?」


コーネリアは目を瞬かせる。


エリオットは余裕の笑みを崩さぬまま、指先でユグリットの耳元の紅い花に触れた。


「私の国では、愛の形は様々なのですよ。」


「……っ!」


ユグリットは凍りつく。


——違う。違う。これは違う。


しかし、コーネリアの目はすっかり恋の物語を見るような輝きに満ちていた。


「まぁ……素敵。」


うっとりとした表情で呟く。


彼女は恋の話が好きだった。

それを知っているエリオットは、それを巧みに利用している——。


(……違う!)


小鳥の姿のニルファールが、小さく鋭く鳴いた。

彼の瞳には、はっきりとした拒絶の色が浮かんでいた。


けれど、コーネリアにはそれが届かない。


「素敵なロマンス……!」


うっとりとした表情のまま、夢見心地な声を漏らすコーネリアを前に、ユグリットは絶望的な気持ちになった。


「……誤解だ……違うんだ……」


そう言っても、コーネリアの表情は変わらなかった。


隣で微笑むエリオットの余裕の表情が、ユグリットの心を冷たく縛り付けた。


コーネリアは、恋の話に憧れる少女のような表情でユグリットとエリオットを交互に見つめた。

目の前にあるのは、美しく気品ある王子と、優雅で洗練された王子。

それだけでも絵になるが、そこに「秘密の恋」というスパイスが加わったら、どれほど甘美な物語になることか。


「ふふっ……邪魔しちゃ悪いわね、続けて。」

微笑みながら、コーネリアはユグリットの膝にとまっていた小鳥をそっと拾い上げた。


「……っ!」


ユグリットの指が、かすかに震える。

ニルファールは明らかに抵抗し、小さな翼をばたつかせた。


「ニルファール……」


ユグリットが名を呼ぶ。

しかしコーネリアは、そんなニルファールの必死の抵抗をただ微笑ましく思ったようだった。


「ダメよ、二人の邪魔をしちゃ。せっかくいい雰囲気なのに。」


そう言いながら、コーネリアは小鳥を優しく抱えたまま、庭園の奥へと歩いていく。

ユグリットの膝の上から、ニルファールの姿が消えた。


「……チチッ……!」


小さな鳴き声が、ユグリットの胸に痛く突き刺さる。

あれは、ユグリットを守るための必死の訴えだった。

けれど、コーネリアにはその意味が伝わらない。


哀れな鳴き声が、次第に遠ざかっていく。

ユグリットを守る存在は、今ここにはいない。


その事実を噛み締めた瞬間——


「……さぁ、これで貴方はもう逃れられませんよ。」


ユグリットのすぐ隣で、エリオットが囁いた。

その声は甘やかでありながら、背筋を凍らせるほどに冷たかった。


「……っ」


ユグリットは恐怖に駆られたように息を呑む。


エリオットは、最初から分かっていたのだ。

わざと人目につく場所で、恋人同士のように振る舞うことによって、ユグリットの逃げ道を塞ぐつもりだったのだ。


恋愛に憧れるコーネリアがこの光景を見れば、間違いなく噂は広まる。

王子のユグリットと、隣国の王子エリオット——秘密の恋を語らうふたり。

そんな話題が、一瞬で宮廷の隅々にまで広がることを、エリオットは計算していた。


「エリオット……!」


ユグリットはようやく、エリオットの策略を理解した。

彼に支配される未来を予感し、反射的に耳にかけられた紅い花を外す。

この花が、彼の所有の証であるかのようで、耐えられなかった。


けれど、エリオットはただ妖しく微笑んだ。

まるで「今さらそんなことをしても、もう無駄ですよ」と言うように。


ユグリットの手の中で、紅い花びらが微かに震えた。

まるで今の彼自身の心のように。


ユグリットは力なく、エリオットの隣を歩いていた。

彼の肩にはエリオットの手が置かれ、逃げることを許さぬように優雅に導かれている。


頭がぼんやりとする。

周囲の侍女や貴族たちの視線が痛いほどに突き刺さった。


——もう、噂は広まってしまったのだろうか?


胸の奥に、絶望がじわじわと広がっていく。

どこへ逃げても、きっと「エリオットのものになった王子」として見られるのだ。


ユグリットの手は小さく震えた。

けれど、彼は何も言えなかった。

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