剣-後編
静かな夜の闇が、王宮の外を覆っていた。
ユグリットとラーレは、ようやく自室へと戻ると、深く息をついた。
追及をなんとかかわしたものの、まだ心のざわめきは収まらない。
寝台に腰を下ろし、ユグリットはふとラーレと視線を交わした。ラーレの新緑の瞳には、明らかな困惑が浮かんでいる。
「ユグリット、塔で見たアラゴスと、剣が見せたアラゴス……あれは、まるで別人のようだったと思わないか?」
ユグリットは頷く。
「塔の試練で見たアラゴスは……確かに厳しくはあったが、王としての威厳を持ち、国のために動いていた。それなのに、剣の怨念のアラゴスは——」
言葉を選びながら、ユグリットは眉を寄せる。
「……まるで、執着だけで動いていたようだった。」
ラーレも、まるで背筋が寒くなるのを覚えたように、僅かに肩を震わせる。
「あんな冷たく恐ろしい人が王として皆に慕われていたなんて……信じられない。」
すると、人の姿に戻り、その会話を静かに聞いていたニルファールが、そっと唇を開いた。
「……アラゴスは、意図的に人格を使い分けていたのです。」
ユグリットとラーレは、思わずニルファールのスミレ色の瞳を見つめた。
「彼は、宮廷では完璧な王として振る舞いました。冷徹でありながら、強き指導者として。ですが……彼の本性を知る者は、限られていました。」
ニルファールは、静かに目を伏せる。
「真のアラゴスを知っていたのは、ルキウスと……私だけです。」
ユグリットの指先が、僅かに強張る。
ラーレも、言葉を失ったまま、ニルファールを見つめた。
「……だから、誰も気づかなかったのです。アラゴスが、ルキウスにどんな愛を向けていたのかを。」
微かな沈黙が降りた。
やがて、ラーレが疲れたようにため息をつくと、寝台の上にゆっくりと横になった。
「もう……今日は考えすぎて、頭が疲れた。ユグリット、ニルファール、もう寝よう……。」
ユグリットは、ふとニルファールを見やる。
ニルファールもまた、静かに微笑んで、寝台の端に腰を下ろした。
「……ええ。おやすみなさい。」
ユグリットも、ゆっくりと寝台に横たわる。
安心感が、静かに広がるはずだった。
——だが、夜は、静かに囁く。
闇の中、ユグリットはふと目を開けた。
(ここは……?)
見慣れたはずの自室ではない。
赤い天蓋、重厚な寝台——
冷たい石の壁に囲まれた室内に、微かな灯火の影が揺れている。
——ここは、アラゴスの寝所。
ユグリットの意識はぼんやりと霞んでいた。
しかし、すぐに悟る。
これは夢ではない——ルキウスの記憶だ。
「また、私の意に逆らったな。」
低く、冷ややかな声が響く。
ユグリット——いや、ルキウスの腕が、強く掴まれた。
目の前にはアラゴス 。
血のような赤い瞳が、暗闇の中で静かに光を灯している。
「……兄上……?」
震えた声が零れる。
体を引こうとするが、アラゴスの腕は鉄のように揺るがない。
「お前は、私を怒らせた。」
指が、ルキウスの頬をなぞる。
冷たいのに、熱を帯びたような指先。
爪が僅かに食い込むほどの力が込められ、身じろぎしたルキウスの喉から、浅い息が零れた。
「……やめて……」
「やめる? いいや、お前が私に背いたことを忘れさせてやる。」
次の瞬間、強引に引き寄せられた。
胸元にぶつかる硬い鎧の感触。
熱い息が、耳元に落ちる。
「ルキウス……お前は、私のものだ。」
耳元で囁かれる声が、まるで鎖のように絡みつく。
逃げなければ——
そう思った瞬間、ルキウスの背が寝台に押し倒された。
「っ……!」
身を捩るが、アラゴスの手が肩を押さえつけ、自由を奪う。
視界には、緋色の影が覆いかぶさっていた。
「どれほど拒もうと、逃がさない。お前は私の傍にいる他はない。」
支配する者の目だった。
「兄上……やめ……っ!」
口を開いた瞬間、強引に唇を塞がれる。
甘さも、慈愛もない。
ただ所有を刻み込むためだけの口づけ 。
力任せに押し開かれ、絡みつく舌。
歯を噛みしめて抗うが、すぐに顎を押さえられ、更に深く侵食される。
「んっ……!」
喉の奥まで侵され、全身が粟立つような恐怖に包まれた。
唇が離れた瞬間、浅い息が零れる。
熱が奪われたように、体が震える。
アラゴスは満足そうに笑みを浮かべると、ルキウスの細い喉元へ唇を落とした。
「ここも……ここも……すべて、私のものだ。」
冷たい唇が、鎖骨のあたりに触れる。
ぞくりとした悪寒が走る。
「……兄上、お願い……やめ……っ」
ルキウスの懇願は、どこまでも虚しく消える。
その手は、抵抗する腕を絡め取るように縛りつけ、動きを封じる。
アラゴスは満足そうに目を細めた。
「お前は、私の傍にいればいい。」
頬を撫でる指先が、微かな震えを感じ取ると、アラゴスは優越の笑みを浮かべる。
「そんなに震えて……可愛いな、ルキウス。」
静かに囁く声は、まるで恋人を愛撫するかのようだった。
だが、それが偽りの愛だと知っている。
これは純粋な情欲ではない、支配の証。
アラゴスの赤い瞳が、獲物を捕らえた捕食者のそれへと変わっていく。
——逃げられない。
——このままでは、魂まで囚われる。
ユグリット——いや、ルキウスの意識が、暗闇へと沈んでいく。
——そして、途切れた。
——眩しい光。
黄金の輝きが、視界を包み込む。
次第に、現実の世界が輪郭を取り戻していく。
荒い息を整えながら、ユグリットはぼんやりと目を開けた。
「ユグリット……!」
耳元に響く、優しい声。
視線を向けると、心配そうにこちらを覗き込むニルファールの姿があった。
スミレ色の瞳が、不安げに揺れている。
「……ひどく魘されていましたね。」
額に滲んだ汗を、そっと拭うニルファール。
その指先の温もりが、ユグリットを現実へと引き戻していく。
「夢……だったのか……」
ユグリットは荒い呼吸のまま、呟いた。
いや、違う。
これは、ただの夢じゃない。
ルキウスの記憶——アラゴスが見せたものだ。
強く唇を噛みしめる。
体が、僅かに震えていた。
「ユグリット……大丈夫です。」
ニルファールが、そっとユグリットを抱きしめる。
温かい。
先程までの悪夢の冷たさを、全て打ち消すような温もり。
「あなたは、もう囚われてはいません。
あれは、過去の記憶……。
あなたは、ユグリットです。ルキウスではない。」
ユグリットは、そっと目を閉じた。
夢の冷たさを、温かい光が押し流していく。
「……ありがとう。」
抱きしめるニルファールの腕の中、ユグリットはようやく小さく息を吐いた。
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