罪悪
王宮の寝室には、夜の静寂が広がっていた。
ユグリット、ラーレ、ニルファール——三人はいつものように、同じ寝台に身を預け、早めに眠りについた。
ラーレは隣で穏やかな寝息を立てている。
ユグリットもまた、眠ろうとしていた。
けれど、胸の奥で渦巻く思考が、彼の意識を深い眠りへと導くことを拒んでいた。
——エリオットのキス、そして悪夢のアラゴス。
脳裏にこびりつく感触。
唇を奪われた感覚。
それが、自分の中にある何かを狂わせてしまった気がしてならない。
(……私は、どうして……)
思考の海に沈みかけたそのとき——
「ユグリット」
耳元で、静かに名前を呼ばれる。
びくりと肩が震えた。
——ニルファール。
彼が、ユグリットにそっと触れる気配がした。
「ラーレは、もう深い眠りにつかせました。」
——魔法だ。
ラーレの眠りを妨げることのないよう、彼の意識をそっと深い夢の中へと誘ったのだろう。
ユグリットは、彼の気遣いに微かに息を詰める。
「……あなたの心が、揺れていることに気づいていました。」
静かで優しい声だった。
しかし、それが逆に、ユグリットの心を締めつけた。
——すべてを見透かされている。
ユグリットは、震える唇を噛み締めた。
そして——
「……エリオットに、恋人の泉でキスをされました。」
——告白。
自分の中に秘めていたものを吐き出すように、ユグリットは言葉を紡いだ。
「それだけじゃない……彼の寝所に連れ込まれそうになった。」
そう言った途端、身体がひどく震えた。
「……なのに……」
堰を切ったように、涙が溢れる。
「なのに……私は、拒めなかった。」
ラーレが眠っているというのに、声を抑えることができなかった。
「エリオットのキスが……どこかで……心地よいとさえ感じてしまった……」
自分の声が震える。
そして——それだけではない。
「……悪夢の中のアラゴスとの行為でさえ……甘美に感じてしまった……」
そう言ってしまった瞬間、ユグリットの心は崩れ落ちた。
「もう……どうしたらいいかわからない……」
涙が零れる。
罪悪感、恐怖、そして自分自身が堕ちていくことへの絶望。
ユグリットは、その全てに押し潰されそうになっていた。
(私は、おかしい……)
(こんな風に感じてしまうなんて……)
しかし——
指先が、そっと頬を撫でた。
涙を拭うように、ゆっくりと、優しく。
「……ユグリット。」
ニルファールが、すぐそばにいた。
そして——
触れるだけの、優しいキス。
温かく、静かで、柔らかい。
全てを包み込むような口づけだった。
——エリオットとは違う。
——アラゴスとは違う。
けれど、それでも、ユグリットの心臓は跳ねた。
「私が、愛を教えましょう。」
低く、けれどはっきりと響く声。
ユグリットは、ゆっくりと目を開けた。
そして、目の前にいるニルファールの姿を見た瞬間——
息を呑んだ。
(——これは……)
いつもとは違う。
純粋で、穏やかで、どこまでも優しさに満ちた彼の雰囲気が、まるで変わっていた。
——男性的な気配。
これまでのニルファールとは異なる、どこか強さと確信を孕んだ気配。
ただ優しいだけではなく、もっと……根源的なものを感じさせる。
(……これが、愛を糧とする半神の本当の姿なのか?)
スミレ色の瞳が、ユグリットをまっすぐに見つめる。
その眼差しは、決して揺らがない。
ユグリットの中にあるすべてを受け入れる、包み込むような深い愛。
けれど、それだけではない。
(この人は……)
静かに、けれど確かに、ユグリットの心が引き寄せられていく。
——私が、本当に求めているものは、何なのだろう?
それを知ることになるのは、まだ先のことかもしれない。
だが、今——
ニルファールの指が、もう一度そっと涙を拭う。
「大丈夫。」
ただその一言が、ユグリットの胸の奥に染み込んでいった。
ユグリットの頬を撫でる指先は、あまりにも優しかった。
まるで壊れやすい宝石に触れるように、そっと、慎重に。
それは、エリオットの支配的な指の動きとも、悪夢のアラゴスの強引な支配とも、まったく異なるものだった。
(……これは……)
ユグリットは、目を伏せる。
指先が肌をなぞるたび、微かな震えが背を走る。
けれど、それは快楽によるものではなかった。
これは——
(……心が溶けていくような……)
温かく、穏やかで、慈愛に満ちた触れ方。
けれど、それでも確かに身体は反応していた。
「……ユグリット。」
囁かれる声が、静かに胸の奥に落ちる。
「あなたは、ずっと傷ついてきましたね。」
そう言いながら、ニルファールはユグリットの手をそっと握る。
その手の温もりに、ユグリットは微かに身をすくめた。
(どうして……こんなに……)
愛されていると、分かる。
それは、疑いようのないものだった。
けれど——
(怖い……)
これまで感じてきたものとは、まるで違う感覚。
エリオットやアラゴスに囚われたときの、背徳的な快楽とは違う。
そこには、支配も、力も、屈服もない。
ただ、純粋な愛があった。
「……私は……」
何かを言おうとした。
だが、言葉が出ない。
ニルファールは、ただ微笑み、ユグリットの髪を優しく梳く。
「私の愛は、あなたを縛るものではありません。」
「あなたがどんな姿であっても、どんな選択をしても……私はあなたを愛します。」
——こんな言葉を、誰かに言われたことがあっただろうか。
胸の奥が締め付けられる。
ユグリットは、息を呑んだ。
それでも、ニルファールの指はそっとユグリットの肌をなぞる。
優しく、慎重に、ただ触れ合うだけの愛情のこもった仕草で。
ユグリットの瞳が、ゆっくりと揺れる。
(……これが、本当の愛……?)
自分が今まで感じてきたものは、愛ではなかったのか?
屈服と快楽を混ぜたものしか知らなかったユグリットにとって、
ニルファールの触れ方は、あまりにも純粋で、あまりにも温かかった。
戸惑いながらも、ユグリットはそっと目を閉じる。
(……分からない……)
けれど、この温もりを拒むことは、もうできなかった。
——ユグリットは、ゆっくりと、けれど確かに、愛を受け入れ始めていた。
ユグリットの肌に触れる指先は、あまりにも優しかった。
それは、囚われることも、押しつけられることもない、ただ静かに愛を伝えるもの。
ユグリットは戸惑っていた。
エリオットやアラゴスの触れ方とは、あまりにも違う。
そこには支配も、熱狂的な欲望も、絡め取るような甘美な毒もなかった。
あるのは——ただ、愛。
穏やかで、深く、静かに染み込むような愛。
「ユグリット」
低く優しい声が、自分の名を呼ぶ。
ユグリットは、震える睫毛を伏せた。
指先が頬をなぞる。
涙の跡を拭うように、そっと、そっと——
「……怖くないですよ。」
ニルファールの囁きが、肌を撫でるように落ちる。
怖くない。
本当に?
ユグリットは、知らなかった。
支配ではなく、征服でもなく、
ただ、慈しむように触れられることを——
その手は、ただ確かめるように、
けれど、迷いなく、ユグリットを包み込んでいく。
熱を求めるのではなく、
苦しみを引き出すのでもなく、
ただ愛を伝えるために。
(……こんな愛が……あったのか……)
ユグリットの胸の奥が、静かに揺れる。
ニルファールは、そっとユグリットを抱き寄せた。
暖かな体温が、肌にじんわりと染み込んでいく。
それは、まるで湯の中に沈むような感覚だった。
心も、身体も、ゆっくりとほどけていく。
じわりと、涙がまた零れ落ちた。
ニルファールは、それをそっと指先で拭い、
触れるだけの、優しいキスを落とした。
——ユグリットの胸の奥が、じわりと熱を帯びる。
快楽とは違う、
支配とも違う、
けれど確かに甘い感覚が広がっていく。
触れられるたびに、心が穏やかに満ちていく。
ニルファールの手はまるで光のように柔らかく、ユグリットの肌の上を優しく撫でた。
痛みを知る者が、誰かを傷つけないように慎重に触れるような——
けれど、そこには確かに、彼の深い愛があった。
ユグリットは、微かに瞼を伏せた。
指先に伝わる温もりが、胸の奥をじんわりと溶かしていく。
不思議だった。
ニルファールの腕に抱かれると、自分がとても小さく、けれど大切に守られているような気がする。
「……貴方は、優しすぎる」
ユグリットの唇から零れた言葉は、僅かに震えていた。
「優しいのではありません」
ニルファールは、微笑みながらユグリットの頬にそっと手を添えた。
「私は、ただ……貴方を愛しているのです」
愛している——
その言葉の重みが、ユグリットの胸に深く染み込んでいく。
こんなにも純粋で、こんなにも温かな愛を、自分は今まで知っていただろうか。
支配や執着とは違う、ただひたすらに包み込むような愛。
それを、初めて知った気がした。
「……ニルファール」
無意識のうちに、ユグリットは彼の名を呼んでいた。
そして、そのまま、そっと指先を伸ばす。
ニルファールの頬を撫で、光のような金の髪を指に絡める。
もっと近くにいたい。
もっと、この温もりを感じていたい。
「……愛してほしい」
その囁きは、まるで吐息のように微かで、けれど確かに、求める色を帯びていた。
ニルファールは、ふっと穏やかに微笑んだ。
そして、ゆっくりとユグリットの手を取り、そっと唇を落とす。
触れるだけの、淡く甘い口づけ。
まるで春の花びらが舞い降りるような、繊細で優しいキスだった。
ユグリットは、その優しさに胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
こんなにも、愛おしく思うのは初めてだった。
「貴方が望むのなら、私はどこまでも応えましょう」
囁く声が、ユグリットの鼓膜に優しく溶ける。
それは約束のようで、誓いのようで——
ユグリットの心を、深く満たしていった。
気づけば、ユグリットはそっと目を閉じ、ニルファールの温もりに身を預けていた。
愛されることが、こんなにも心地よいものだったなんて——。
朝の静寂の中、ユグリットはふと目を覚ました。
窓の外にはまだ夜の名残が薄く残り、ほんのりと淡い光が室内を包んでいる。
——いつもより、早く目が覚めた。
けれど、今のユグリットの心は、どこまでも穏やかだった。
昨夜、ニルファールに愛を教えられた。
それは、決して奪うものではなく、与え合う愛だった。
——真実の愛。
それを知った今、ユグリットの心は、まるで静かな湖のように澄んでいた。
隣を見ると、まだ眠るニルファールがいた。
いつもの純粋で神聖な雰囲気ではなく、どこか男性的な気配を纏っている。
昨夜の記憶が蘇り、ユグリットの胸が、じんわりと熱を持つ。
(……愛おしい)
その感情に抗うことなく、ユグリットは自ら、ニルファールの唇に深く口づけを落とした。
——何かに抗う必要は、もうなかった。
愛を求め、求められることの幸福を、今はただ受け入れたかった。
「……ん……?」
唇の感触に、ニルファールの睫毛が微かに震え、瞳がゆっくりと開かれる。
「……ユグリット……?」
まだ眠気の残る声が、耳元をくすぐった。
ユグリットは、そっとニルファールの胸に抱きついた。
昨夜あんなに交わったのに、それでも尚、彼を求めずにはいられなかった。
心が満たされるほど、もっと欲しくなる。
触れたくて、触れられたくて、どうしようもなくなる——。
「……あなたが、欲しい……。」
囁くように、ユグリットは言った。
自らの手を伸ばし、ニルファールの身体に触れる。
まるで、彼の存在を確かめるかのように。
ニルファールは一瞬、驚いたように瞳を瞬かせた。
そして、ゆっくりと微笑むと、ユグリットの頬を優しく撫でた。
「……愛おしい人……。」
囁くようにそう言いながら、 ニルファールはユグリットの背を引き寄せ、優しく唇を重ねた。
それは、愛しさに満ちた口づけ。
ただの欲ではなく、互いを求め合う、純粋な愛の形。
ユグリットはその感触に身を委ねながら、 心の奥に広がる幸福に酔いしれた。
——けれど、その瞬間。
「……え?」
微かに響いた驚きの声に、ユグリットははっとして振り向いた。
そこには——
寝台の隣で、 目を丸くしているラーレの姿があった。
ユグリットとニルファールを交互に見つめるラーレの表情は、驚きと戸惑いに満ちていた。
「……えっと……僕、寝ぼけているのか……?」
ラーレは、困惑したように目をこすりながら、再びユグリットを見つめる。
けれど、彼の視線の先にはニルファールの腕の中で、まだ熱を帯びたままのユグリット——。
(……見られた。)
ユグリットの頬が、一気に赤く染まる。
「ラ、ラーレ……!?」
動揺し、慌てて身を引こうとするが——
「……ユグリット、ニルファールに愛されているんだな。」
ラーレは、驚きながらも、その言葉を自然に口にした。
まるで、目の前の光景をそのまま受け入れたかのように。
「……え?」
ユグリットが驚いて顔を上げると、ラーレはにこりと微笑みながら、そっと手を伸ばし、ユグリットの頬を撫でた。
「……ユグリット、すごく幸せそうな顔してる。」
そして——
ラーレの唇が、そっとユグリットの額に触れた。
「……ラーレ……?」
戸惑うユグリットの隣で、ニルファールは静かに微笑んでいた。
そして、ラーレの仕草を止めることなく、ただ穏やかに ユグリットの手を握りしめる。
「……あなたは、愛されているのですよ。」
ニルファールの優しい囁きが、 ユグリットの心の奥深くに染み渡った。
そして、ラーレの手がユグリットの身体を優しく撫でた時——
ユグリットの肌は、敏感に震えた。
(……これは……)
ユグリットの中で 何かが目覚めていく——。
けれど、それは堕落の甘美とは違う、愛に満ちた世界だった。
夜の名残が薄紅色の空に溶けていく。
朝の静寂が王宮の寝室を包み込むなか、ユグリットは暖かな温もりに挟まれていた。
——ラーレと、ニルファール。
二人の愛が、交互に触れながらユグリットの肌に刻まれていく。
ラーレの指先は、好奇心と衝動に突き動かされるように、無邪気でありながらも野生的にユグリットの肌を探る。
それは手探りの愛だった。
けれど、だからこそ彼の本能そのままの純粋さが伝わり、ユグリットは思わず甘く息を漏らす。
ニルファールの指先は、柔らかく、慈しむように肌をなぞる。ゆっくりと、確かめるように。
まるでユグリットの全てを愛し、包み込もうとするかのように。
どちらの触れ方も 異なる愛の形。
それでも、 どちらも確かにユグリットを求めていた。
「……っ」
唇が触れる。
一つではなく、 二つの温もりが交互にユグリットの肌に刻まれていく。
ラーレのキスは衝動的で無邪気。
欲望を隠さず、率直にユグリットの存在を確かめる。
獲物を確かめる獣のような、しかし甘える子供のような愛 がそこにはあった。
ニルファールのキスはゆるやかで深い愛を感じさせた。
包み込むような優しさ、そして愛を伝えながら、ユグリットを満たそうとする思いが込められている。
「ん……」
二人に挟まれながら、ユグリットは震える。
愛されることの心地よさと、熱の余韻。
交互に与えられる愛の形に 彼の意識は甘く溶けていく。
野生と慈愛。
無垢と包容。
本能と献身。
まるで対照的な二つの愛が、一つの身体の上で絡み合う。
ユグリットは、どちらも拒まなかった。
彼はその全てを受け止めた。
そして—— 彼自身もまた、二人を癒す存在となっていく。
夜明けの静寂の中で、三人の愛が織りなす音色が、ゆるやかに響いていた——。
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