第2話


『…私の生家は関東の北にありました。


関東の北の、山あいに囲まれた盆地にありました。


とても寒い地域でした。


夏だって気温は20度を決して上回らないようなところです。


冬になると雪が酷く降ります。


真っ白い雪が、家に、田んぼに、どこにでも積もって、絵の具を注いだように何もかもめちゃくちゃに塗りつぶしてしまいます。


そんな小さい寒村です。



 私の生家は、あのあたりではとりわけ裕福でした。


大きなお屋敷を構えて、みんなからは「垣口様」と呼ばれ畏れられていました。


なんでも昔はこの一帯を治める武士であったのだそうで、そのころの名残かお屋敷には古い刀や弓、兜などが今でも残っています。



 明治維新以降、垣口家の人間は代々、村の議員、または村長を歴任してきました。


なんでも村長は常に垣口家の当主が務めてきたのだそうで、私の父も例に違わず村長でした。


また一番上の兄、二番目の兄は議員をやっていました。



 4年にいちど市長選挙があるのですが、そのたびに私の父は圧倒的な票数で再選します。


年によっては他に立候補者が出ず、無投票で父が再選することもあります。


村の人たちは誰もそれを奇妙なことと思っていないようでした。


垣口の当主が村長なのは当たり前のことで、それ以外の人が村を統治することなどあり得ない、という具合でした。


幕政など滅んでから随分経っているというのに、私の住んでいる村だけは今でも明治以前の暮らしが続いているように思えました。


垣口家を主体とした小さな国家があるようでした。


 私はそんな家の5女として生まれ、育ちました。



 そんなわけでしたから、村において垣口家の威厳というものはそれは大層なものなのです。


垣口の子供は誰でも厳しい躾を受けます。


食事のマナー、歩き方、礼儀作法、言葉遣い、笑ったり泣いたりする際における顔の適切な歪め方に至るまで何もかも躾けられます。


それは5女たる私にとっても同じことでした。



 食事のとき、箸の使い方が悪いというので何度も母や父に叩かれたのを覚えています。


私としてはみんなと同じように、当たり前の箸使いをしているつもりでした。


しかし父や母は「お前は箸もまともに持てないのか」と叱りました。



 もっとも父や母が間違っているわけはありません。


あのお二人が何かを違えるわけがないのですから、きっと私の箸使いというのは本当にひどいものだったのでしょう。



 でもまだ幼かった私は、そんなことを判るほど分別がついていませんでした。


父や母は私を憎く思っていて、それで特にいじめるのだ、と思い込んでいつも泣いていました。


泣くとまた叱られます。


顔の歪め方が醜い、声が汚らしい、そんな醜い泣き方をする娘なぞ誰も嫁にもらってくれんぞというのです。


ですから私はまた泣いて、そうするとまた叱られ、それがあのころ毎日のすべてでした。



 そんな毎日の中で、私のただ一つの慰めは布団でした。


布団のなかに潜り込むことでした。


…布団のなかに入る、というのは、寝る、ということの形容ではありません。


そのままの意味です。



 私の生家には大きな押し入れがあります。


そこには一家の布団がみんなしまってあって、それは襞をもつ壁のようになり押し入れを埋め尽くしていました。



 幼いころ、私の密かな楽しみは、その押し入れに潜り込むことでした。



 布団の中に身体を入れると、ひんやりした触覚が私の全体を包みます。


うえに幾層も積み重なっているそれは私を常に圧迫して、あわよくば窒息させるために空気を奪っていきます。


うえからしたから、私は布団の壁に圧迫されて、柔らかい鉄で平らにのされているような心持ちになります。


そんなとき私はえも言われぬ快楽を覚えるのです。



 そんなことだけが私のただ一つの慰めでした。


しかしその快楽は、すべての苦痛を打ち消すほど幸福で暖かなものだったのです。



 私にはきょうだいがたくさんいました。


兄と弟があわせて7人、姉と妹が4人。


そのなかには腹違いのきょうだい、また、私生児、というものもいるようでした、しかし幼いころの私はそんなことを知る由もありませんでした。


ただ、あの兄弟はあまりお母様に似ていないなあ、などと思うことはありました。



 兄の中に幸彦という人がいます。


彼はまさに腹違いの兄弟でした。


私が小学校に行っているころ、兄は高校に通っていて、毎日受験の勉強に明け暮れていました。


こんな家からは一刻も早く出てやるんだ、というのが口癖でした。



 私は兄によくいじめられました。


家のそばに蔵があるのですが、あるとき兄が「お前、蔵のなかに入れ」というのです。


私は、どうしてそんなことを言うのですか、と尋ねました。


兄は質問に答えず、いいから入れ、と言いました。



 仕方がないので、私は蔵まで歩いて行って、門のかんぬきを開けて中に入ります。


するとあとからすぐに兄がやってきて、蔵の扉を閉めてかんぬきをかけ、どこかへ行ってしまいました。



 兄は、蔵に閉じ込められたら私が泣くと思ったのでしょう。


大声で泣いて助けを求めて、それを見て面白がるつもりだったのでしょう。


ですが私は、蔵のなかで心地よさを覚えていました。


そこは薄暗くて空気がこもり、じめじめした閉塞感のあるところです。


しかし私にとってはむしろ快感でした。


一種の陶酔に近い気持ちが私を包んでいました。


体の中が透明になったかのような、すっきりした心が私を包みました。


狭い蔵の中にいるというのに大空をかけているような気分がしました。



 結局、兄が痺れを切らして蔵の扉を開けるまで、私は身じろぎもせず座っていました。



 それから私は幾度となく蔵に入りました。


蔵に入るたび、また陶酔感が身体を包みます。


とても気持ちよく、まだ小学生だった私には手に負えないほどの快感。


震えてしまうほどの快感。



 兄は、日夜の如く蔵へ向かう私を見て気味悪がっていました。


あるとき尋ねてきました。「どうしてお前はそんなに蔵が好きなんだ」と。


私は少し窮した後「蔵の外にいるよりも、よほど楽しいからです」と答えました。



 それからは、兄はなぜか私を可愛がってくれるようになりました。


「こんな家の中で、信じられるのはお前だけだ。お前だけが俺の仲間だよ」


とよく言っていたように思います。


私に勉強を教えてくれたり、暇潰しに遊んでくれるようになりました。


私は兄に褒められるたび、その理由がわからなくてもいつも嬉しい気持ちになっていたのです。



 兄は、その後、受験に成功して東京の大学へ行きました。


大学合格が決まった時は家中が晴れやかになりました。



 父の発案で、祝宴まで開かれました。


近所の人が悉く招待され、兄の小学校、中学校の同窓も呼ばれた盛大な祝宴。


…みんなが喜色を浮かべ騒ぐ中、ただ兄だけがひとり暗い顔をしていた。



 祝宴もたけなわというころ、父が言います。


「いやしかし、お前も立派になったものだ。子供の頃は手のつけられない悪童だったが、全く見違えたものだね。お前は私の誇りだよ。東京で勉強して、こちらへ帰ってきて、お前の兄たちを支えてやってくれ」


 幸彦兄さんはその途端、笑い始めました。


笑って、頭がおかしくなったように笑って…


唾を棄てるようにつぶやきました。


「支える、ですか、父さん、僕はもう戻りませんよ。絶対に。こんな牛のクソみたいな家、二度と帰ってやらないからな」



 そのとき、華やかだった祝宴は、まるで雪が降ったように凍りついてしまったのです。



 けっきょく、幸彦兄さんは祝宴の次の日、明け方に出発しました。


誰にも見送られることなく、祝われることなく、ただ一人で。



 でも私のところにだけはきてくれました。


まだぐっすり寝ていた私の肩をこづいて起こし、


「お前も、中学を出たら東京へ来い。一緒に暮らそう。ここはお前のいるべき場所じゃないんだ。お前はここにいたら気狂になってしまう」

とだけいって出て行きました。



 私は兄さんの言う意味がわかりませんでした。


気狂になってしまうとはどういうことなんだろう、私はここで何不自由なく生活できているのに、としか考えられませんでした。



 それでも私は、兄に、東京へ行こう、と言ってもらえたことが嬉しかった。


私にとっても、いつしか兄は心の支えになっていました。


父や母に叱られたとき、兄の顔を思い浮かべると少しだけ我慢できました。


父の悪口を言って笑っている兄の顔、私の心を和らげてくれました。



 思えば、あのころの私にとって、たくさんいるきょうだいの中で心からきょうだいと思えたのは幸彦兄だけだった。



 …私の例の性癖がひどく劇しくなったのも、兄が家を出てからのことでした。

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