自殺志願

三毛猫丸たま

自殺志願

 空は青く、太陽が眩しい。

 汗が滲み出てくる。

 この日、今年最高の気温――四十一度を記録した。


 知沙ちさは交差点で立ち止まり、空を見上げた。


 突然、けたたましいクラクションが耳を襲う。

 不機嫌な視線を音の方へ向けた。


 中年の男が窓から顔を出し、怒鳴っている。

 知沙は冷ややかに笑った。


 信号が赤なのに気づき、足早に中央へ進んだ。

 排気ガスの中で、信号が変わるのを待つ。


 目の前を絶えず行き交う車の列は、ありの行列のようだ。

 餌を運ぶ蟻の群れが頭に浮かぶ。


 信号が青に変わると、冷たい笑みを浮かべて交差点を渡った。


(こんなに暑い中ご苦労様です)


 もう一度、空を見上げ、胸の中で呟いた。


 部屋に戻り、シャワーを浴びる。

 熱い湯が体に浸み込む。


 バスタオルを羽織はおり、鏡の前で頬に指を這わせた。


 真横に走るケロイド状の傷――。

 中学三年の時、自らつけた。


 手首にも無数の傷。

 高校入学直後から繰り返したリストカット。

 生死の境を彷徨さまよったこともある。


 両親は精神科に連れて行ったが、医師の診断は「少々鬱気味」。

 薬を渡されただけだった。


 一時は通院していたが、今では薬も袋のまま。


 鳴ることのないスマホを弄ぶ。

 電話する相手はいない。


 登録は五件。

 実家、会社、元彼、病院、宅配ピザ――。


 RINE《ライン》はインストールすらしていない。


 番号ひとつひとつに話しかけてみる。

 返事はないが、空想の会話が少し楽しかった。


 元彼の番号に話しかけていると、涙が落ちた。

 我に返り、虚しさが全身を襲う。


 知沙は登録をすべて削除し、そのまま大の字に倒れた。


 高校卒業後、大手保険会社に就職した。

 成績は良く、就職先としては上々。

 だが、コミュニケーションが極端に苦手だった。

 営業成績が伸びず、先日解雇を言い渡された。


 数日後には、彼氏にも別れを告げられる。


 引っ込み思案でネガティブな知沙は、この現実に耐えられなかった。


 何日も部屋にこもり悩んだ末、アパート前の車道に飛び出した。


 幸いかすり傷で済み、入院は一週間。

 精神安定剤の投与を受けた。



 今日は、その病院からの退院日。


 子どものころから劣等感を抱いていた。

 内気な性格、極度の近眼、百五十センチの低身長。


 小学校から続いたいじめで対人恐怖症になった。

 相手の目を見て話せない。


 自分の弱さがわかるだけに、自己嫌悪が募る。


 そして、自分を傷つける。

 薬を飲んでも劣等感は消えない。


 誰にも助けを求められず、効き目のない薬だけを飲み、殻に閉じこもる。



 翌朝、重い体を起こして洗面所に立つ。


 切れ長の目、高い鼻筋、締まった唇。

 少し口角を上げて笑ってみる。


 一般的には美人。

 いや、普通に美人。

 いやいや、平均以上の美人。

 むしろ、かなり美人。

 いやもう、文句なしの美人。


 だが、その顔は青白く血の気がない。

 まるで死人しびと


 整った顔立ちは、ときに同性の標的になった。

 精神的にも身体的にも、陰湿ないじめが続いた。


 だから、知沙は自分の顔が嫌いだった。


(私ってほんとに生きてるのかな)


 鏡の中の自分は死人なんじゃないか――

 本気でそう思っていた。


 中学三年の時、衝動のまま剃刀で頬を裂いた。

 鋭い痛み、飛び散る鮮血。


 赤く染まった鏡の中、口元だけわらった。


『生きてるんだ』――そう思った。


 自己嫌悪のたび、手首に剃刀を走らせた。

 世界から消えても、誰が悲しむ?

 それでも一線を越えられず、生きながらえている。



「ねえ……あなたは誰? 知沙?」



 鏡の中の顔に問いかける。

 笑ってみる。


 ――やっぱり可愛いと思った。



「――あたりまえか」



 ため息まじりに呟き、蛇口を捻った。




 容赦ない太陽が降り注ぐ。

 知沙は手の甲で額を拭い、空を見上げた。


 昨日より暑い。

 太陽を直視すると、眩暈めまいがする。


 このまま溶けてしまいたい。

 アイスクリームみたいに。

 苦しいのも痛いのも嫌だ。

 気持ちよく消えてしまいたい。


 手のひらが淡く光り、指の輪郭が滲む。

 溶けていくアイスのように、境界が曖昧になっていく。

 温もりが雫になって落ち、太陽の下で光る。


――ポツリ。


 頬に冷たい粒が落ちた。

 額にも、まぶたにも。


 まるで誰かが、空の上から涙をこぼしたよう。


 乾いた風が止み、湿った風が肌を撫でる。


 ぽつ、ぽつ、と間を置いていた滴が、やがて音を重ねる。


 次の瞬間――

 世界が崩れた。


 叩きつける雨が、知沙の視界を奪った。

 地面を打ち、屋根を震わせ、足元を濡らす。


 空そのものが、怒りと悲しみを混ぜて落としているようだった。


 スーツの男たちが慌てて駆けて行く。

 その姿が滑稽に見えて、思わず吹き出した。


(蟻が逃げて行く)


 昔、庭で蟻の群れに水をかけたことがある。

 列を崩さず餌を運んでいた蟻たちが、一瞬で逃げまどった。


 今、知沙の目に映る光景はあの時の蟻と同じ。


(働き者の蟻さん……大変ですね)


 しばらく眺めていたが、雨は止む気配がない。

 むしろ勢いを増している。


(カミサマ……どうして私にだけ辛いのですか)


 誰に迷惑をかけたわけでもないのに。

 ただ静かに楽しんでいただけなのに。


 無理やり、大切な時間を奪われた気がした。

 悲しさが込み上げ、涙が混ざった。




 部屋に戻り、濡れた服を洗濯機に放り込む。

 太陽に焼けた肌がひりひりする。


 鏡を覗くと、少しだけ健康そうに見えた。



「健康優良児だね、知沙」



 鏡に向かい、笑顔を作った。


 ――やっぱり可愛い。




 知沙は二十一歳の朝を迎えた。


 誕生日なんて忘れていたが、スマホのアラームが知らせてくれた。

 久しぶりにスマホが鳴った気がする。


 誰からも連絡がない誕生日は、少し寒い。

 いつもは平気なのに、この日ばかりは寂しかった。


 去年の誕生日は彼氏と過ごした。

 少しだけ癒された記憶が残っている。



「ちゃんと憶えててくれたんだ。ありがとね」



 鳴らないスマホに話しかけ、苦笑する。


(……馬鹿みたい)


 ベッドを降り、外に出る準備をした。




 ショッピングモールへ向かう途中、預金をすべて下ろした。


 雑誌をめくり、モデルと同じ服やアクセサリーを探す。

 値札は見なかった。


 白い照明が鏡の中の自分を眩しく照らす。

 試着室で着替えると、知らない誰かが立っていた。


 光沢のある服。

 整えられた髪。

 作られた笑顔。



「可愛いじゃん、知沙」



 BGMにかき消されるほどの声だった。




 モールを出ると、風が少し冷たかった。

 行くあてもなく、人の流れに逆らって歩き続ける。


 同じ通路を、何度も何度も――。


 日が暮れても歩き続けた。

 街の明かりが滲むころ、目に入ったコンビニに立ち寄る。


 メイクは崩れ、靴も擦り切れていた。

 客たちの視線を感じる。


(……見られるのも、いいかな)


 外に出て、水を一口飲む。

 夜風が頬を撫でた。

 人通りはもうない。


 歩道橋に上がり、下を見る。


 トラックがせわしなく行き交い、

 赤と白のライトが地上を流れていた。


 顔を上げると、満天の星空。


(……私も、そこに行ってもいいですか)


 小さく呟く。



「もう、大丈夫だよ。怖くなんかないよ」



 靴を脱ぎ、手すりの向こうへ放る。

 乾いた音が夜の底に吸い込まれる。


 知沙は手すりに上がった。

 風が髪を揺らす。



「お誕生日おめでとう……知沙」



 時間が伸びていく。

 音が遠ざかっていく。

 空も街も、ひとつの色に――ゆっくりと溶けていく。

 


 夜風が知沙の名前を呼んでいた。

 


  了

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