長いトンネル

増田朋美

長いトンネル

涼しくなってきて、そろそろ活動しようかなと考える人が増えてくる季節に鳴ってきた。台風もよく発生するが、それ以上に人間の活動もしやすく鳴ってきているのが今の季節であった。

「はあ、どうしてもやめられないの?」

杉ちゃんと水穂さんは、眼の前に座っている女性にそういった。

「はい。どうしても自分は身分が低いと言うか、そういう気持ちが抜けなくて、行けないと思うのはわかっていてもリストカットしてしまうんです。」

と、その女性は言った。

「そうですか。なにか、医薬品を飲むとか、そういうことしても切ってしまいますか?」

水穂さんがそうきくと、

「はい。なんでこんなにって思うかもしれないですけど、でもやってしまうのです。」

と言って、彼女はTシャツの袖をめくった。そこには多数の切り傷がついてしまっていた。

「いやあ、これはすごいなあ。お前さんの名前はえーと、」

杉ちゃんがそう言うと、

「宇佐美陽子です。」

と、彼女はすぐに答えた。

「わかったよ。宇佐美陽子さんね。ちょっとこれはひどいと思うからさあ、お医者さんへ行って、見てもらったほうがいいぞ。」

「杉ちゃん、医者に見てもらっても、答えはない。それより、彼女がリストカットをやめられない原因を探そう。」

水穂さんはそう杉ちゃんに言った。

「そうやなあ。大変だと思うけど、なんとかしてリストカットはやめてもらうようにしてもらわなければならん。そうなった理由だけではなく対策も必要だ。」

腕組みをして杉ちゃんは言った。

「そうですね。必要があればヒプノセラピーとか、受けたほうがいいかもしれないですね。」

水穂さんも杉ちゃんに合わせてそう言うと、

「そんな、私、そんなつもりで相談したわけではないんです。ただ、どうしようか悩んでいただけで。」

宇佐美陽子さんはそういうのであった。

「でもねえ、こんだけひどい傷があるんだったら、治療が必要なことはお前さんだってわかってるんじゃないの?」

と、杉ちゃんは言った。

「こんだけ、リストカットしてれば、お前さんが苦しんでることはよく分かるよ。それを癒やしてくれる、ヒプノセラピーとかが、必要だってこともよく分かる。もし、必要なら、お前さんが悩んでいることを聞いてくれる人を探そうね。僕らはそのためにいるんだから。」

「本当に、そうしなければならないのでしょうか?」

そう宇佐美陽子さんは言うのである。

「だってリストカットをやめられないんじゃ、そうしてもらわなくちゃ困るなあ。」

と、杉ちゃんが言うと、

「なにか事情でもあるんですか?」

水穂さんが聞いた。

「だって、そういうものを受けられるのは、あたしみたいな人間には到底無理でしょうから。あたしは、大した学校に行っているわけではないですし、仕事だって全然してないのですから。」

陽子さんはそういうのであった。

「うーんそうだねえ。だけど、そういう女性こそ、癒やしてくれる人ってのは必要なんじゃないのかな?まあ、お前さんはあんまり自覚してないでしょうけどね。お前さんのご家族だって心配してると思うよ。だから、そのためにも、癒やしてくれる人にあって、お前さんの悩んでいることを聞いてもらって、解決へ向けてなんとかしなければならないと思うんだよね。のんびりペースでいい。少しずつ、お前さんの傷を癒やしてくれる人を探そうね。」

杉ちゃんにそう言われて、陽子さんはとりあえずハイと小さな声で言った。

「でも、そういう人ってどうやって見つけたらいいでしょう?」

「とりあえず、僕らが知っている話を聞いてくれる専門家に連絡してあげよう。涼さんの電話番号どこだっけ?」

陽子さんの質問に杉ちゃんは答えた。

「そうですね。まずは、話を聞いてもらうことから始めたほうがいいですね。少しお待ち下さい。」

水穂さんはそう言って、製鉄所の固定電話で電話をかけ始めた。何度か言葉を交わしたあとで、

「明日、こちらに来てくれるそうです。10時に来てくれます。」

と言って、受話器をおいた。

「ありがとうございます。」

陽子さんは二人に頭を下げた。

翌日。陽子さんは、早々とバスで製鉄所にやってきた。しばらく応接室で待っていると、タクシーが製鉄所の前に止まった音がした。もう数分待ってみると、男性の声で、

「玄関の扉から、時計まで13歩。」

という声がした。

「涼さんこんにちは。もうクライエントさん待ってるよ。」

杉ちゃんが玄関先に出て、迎えると、

「ありがとうございます。応接室まで、7歩。」

と言って、涼さんは、応接室に入ってきた。白い杖を持っているので、盲人であるとすぐに分かった。陽子さんは、そんな涼さんを見て、

「目が不自由なんですね。」

と呟いたのであった。

「そうだよ。それに何も文句言う必要もないぜ。」

と杉ちゃんが言った。水穂さんに手助けしてもらって、涼さんは、応接室の椅子に座った。

「はじめまして。本来は鍼灸師として活動していますが、時々、こうしてカウンセリングをやらせていただいています。古川涼です。」

涼さんは、目を合わせることができないまま、陽子さんと向き合って座った。

「宇佐美陽子と申します。」

陽子さんはそう言った。

「はい、宇佐美陽子さんですね。水穂さんからもらった電話によりますと、リストカットをやめられないで困っているそうですが、いつ頃からですか?」

涼さんがそうきくと、

「高校生の頃からです。」

と陽子さんは答える。

「そうですか。高校はどちらですか?」

涼さんに聞かれて陽子さんは、恥ずかしそうな顔つきで、

「吉永高校だったんですが、そこで、真剣に勉強しようという環境ではなくて、みんな変な生徒というか、勉強しようと言う気持ちが何もなくて、ただ、怒られているだけの環境だったんです。勉強の事を話すとか、そういう事を話すのはご法度みたいなところがあって、どうしても、真剣に生きていこうという人はだれもいなくて。だから友達もいなかったし。担任の先生も、大声上げて怒鳴る人しかいなかった。なんとか、3年間卒業できたんですけど、一人ぼっちのままで、同級生とか、先生とも仲良くなかったので、ずっと一人ぼっちのままなんです。」

と、悩んでいることを告白してくれた。

「そうなんですね。真剣に勉強しようという気持ちでいたけど、それを共有できる人がいなかったということですか。それは、随分寂しかったでしょうね。」

涼さんがそう言うと、

「わかってくださいますか?あたし、家族に何遍も言ったけれど、勉強しないのが普通であるとか言われて、誰も寂しい気持ちを聞いてくれなくて。」

陽子さんはそういった。

「ええ。わかると言うか、あなたが寂しいと感じているのですから、それでは、そう思うしかないでしょう。その気持を、今まで誰にも話せずに、いたのですか?」

涼さんは、陽子さんに言った。

「誰にも話せないと言うか、話しても、通じないから。誰も、寂しかったんだと言うことを共感してくれませんでした。家族も、親戚も、勉強しないのが当たり前みたいな顔で、何も言ってくれませんでした。」

「そうですか。それでは、なにかこうしてほしいとか、欲しいものはありますか?」

涼さんにそう言われて、陽子さんは少し考えて、

「そうですね。できれば、私にも、なにか話ができる仲間が欲しいですね。私、ずっと孤独だったから。一人ぼっちで、誰も寂しいとわかってくれなかったんです。」

と言った。

「わかりました。そういうことなら、それに向けて話していきましょう。大丈夫ですよ。あなたが悩んでいることと、同じ事を悩んでいる人は、意外にいると思いますから。」

「そんなこと本当にわかるんでしょうか?」

陽子さんは涼さんにいった。

「だって私が、いくら寂しいと言っても誰もわかってくれなかったんですよ。一人ぼっちでずっと私はやっていくしかなかったんです。」

「そうでしょうね。」

涼さんは、そう陽子さんに言った。

「そうでしょうねって、私は、この年になるまで、一度も、寂しかったんだとか、そう言ってもらったことはなかったんですよ。あたしの気持ちをわかってくれる人は、誰もいなかったんです。あたしの気持ち、どうしたらわかってくれるものでしょうか?どうしたら私は、寂しい気持ちから解放されるのでしょうか?」

その間涼さんは、見えない目で陽子さんをずっと見ていた。

「仕方ないとでも言うのであれば、その時は私に死なせてください。」

陽子さんはしまいにはそう言ってしまうのであった。

「いいんですよ。それが本当の気持ちなのはわかります。何度でも、本音をさらけ出してしまって構いません。何度でも同じ事を言ってくださっても構いません。どうぞ、してください。」

静かにそういう涼さんを見て、陽子さんは、余計に怒りの気持ちが強くなってしまったようであった。

「なんであたしは、こういうふうに、聞いてくれる人に巡り合わないでしょうね。一人ぼっちでこれほど寂しいのに、なんで私だけ、低い身分の学校にしか行けないで、もうこの学校にしか行けなかったから仕方ないしか言われないのでしょうか。あたしには、ふつうの人にあるような、友達とか、そういう人が持てないのでしょうか。あたしは、どうしていつまでも寂しいままでしょうか?」

「そうなんですね。あなたがいつもそう思っているんだったら、そうなってしまうのでしょうね。」

涼さんは、そう陽子さんに言った。

「大事なことは、自分が一人ぼっちなままでいると、思わないことだと思うんですよ。そうではなくて、自分にも、大事な人ができると思って、行動することが大事なのではないでしょうか?」

「そんなことして何になるんです。」

陽子さんはそう言うが、

「いや、一番大事なことは、そういう人ができるって、信じることだと思います。それを、忘れないで、諦めないで生きることだと思います。」

涼さんはそういった。

「本当にそれだけでは何にもならないでしょう?」

陽子さんが言うと、

「いちばん大事なのは、自分ですからね。」

と涼さんは言った。

「それは、一番大事だと思います。」

陽子さんは、涙をこぼして、ただ一言、

「あたしの気持ちなんて、何もわかってくれないでしょうね。目が見えないんですから。」

と言っただけであった。大変失礼なセリフかもしれないが、涼さんは、何も言わなかった。それでカウンセリングはお開きとなり、涼さんはお金も貰わないでそのまま帰っていった。杉ちゃんたちも、彼女にはそれ以上のことは言わなかった。

その翌日。陽子さんは、製鉄所にやってきた。どこにも行くところがないので仕方なく、製鉄所へやってきたという。ずっと家に引きこもっていては行けないという気持ちはあるらしい。

「宇佐美陽子さんと言いましたね。」

と、製鉄所の利用者が彼女に声をかけた。

「はい、そうですけど。」

陽子さんが言うと、

「あたし、今、公募に出す原稿書いてるんだけどね。この原稿、ちょっと読んで感想でも聞かせてよ。」

と利用者は、陽子さんに原稿用紙を渡した。下手くそな字であったが、なにか書いてあった。

「そんな、私は対して文学に詳しいわけではないですよ。」

陽子さんがそう言うと、

「それでもいいのよ。そういう仲間がいてくれることが嬉しいんだから。なんでも良いわ。感想を聞かせてくれることが嬉しい。」

と、彼女は言うのであった。陽子さんは原稿用紙に目を通してみた。それは、小説というより、児童文学のような内容で、一人ぼっちで寂しいと思っている小さな少年が、生まれて初めて電車に乗った事を書いた物語であった。なんでこんな事を書くのだろうと陽子さんは思ったが、一人ぼっちで何もつてのない少年が、丹那トンネルに入って怖がるシーンは、陽子さんも一人ぼっちゆえの辛さがよく投影されていた。

「ありがとうございます。丹那トンネルに入ったときに、怖いなと思う気持ちは私も同じでした。」

陽子さんが素直に感想を言うと、

「本当?ありがとう。あの長いトンネルは、あたしの人生を象徴するようなものでさ。もう入ったら出られないように見えてしまうのよ。」

と利用者は言った。陽子さんにしてみれば、丹那トンネルは、怖いというものでもなかったが、この利用者にはそう見えてしまうのかもしれなかった。

「そうなんですね。」

と、陽子さんは言った。

「そうなのよ。あんな長いトンネル、ほんと一人で入ったら、誰だって寂しくなるわよ。」

と、利用者は言うのであった。なんでそんな事を言ったのかなと、陽子さんは思うのであるが、利用者は、また原稿を書く作業に戻った。

その次の日も、陽子さんは、製鉄所に来訪した。すると、また別の利用者が、陽子さんに声をかけた。

「おはよう。陽子さん。実は、柏餅もらったのよ。もらいすぎちゃったから、一つ食べてよ。」

「柏餅?」

陽子さんが聞き返すと、

「そうなのよ。母の親戚が持ってきたんだけどさ。うち、母と二人暮らしで食べきれないのよ。だから他の人にも分けてって。」

と、利用者はそう言って、陽子さんに柏餅の入ったビニール袋を渡した。美味しそうな柏餅だった。とても地元のスーパーマーケットで売っているような柏餅とは違うものであった。

「いいんですか。こんな高級な柏餅。」

陽子さんがそう言うと、

「いいのいいの。どうせ、私と母しか食べる人もいないし、こんなたくさん食べきれないわよ。」

と利用者はそういうのであった。陽子さんは、袋を開けて柏餅を食べてみたところ、たいへん甘くていい味がした。こんな高級な柏餅もらっていいのかと思ったが、利用者はとてもうれしそうであった。

その次の日も、陽子さんは製鉄所に来訪した。今度はまた別の利用者が、彼女を食堂まで案内し、

「ちょっと相談乗ってくれない?」

と言うので陽子さんは、利用者の前に座った。

「相談ってなんですか?」

陽子さんがそう言うと、

「あたし、今、ボランティア活動で、演奏しているんだけどさ。まあ、水穂さんみたいにすごい演奏ができるわけではないけれど、ちょっとだけ出させてもらってるわけ。それでね、今度演る曲がどうしても決まらないのよ。なんかアイデアでもないかしらね。」

と、三番目の利用者は言った。この利用者は、確か、水穂さんにレッスンを受けている。

「アイデアって、私音楽のことはさっぱりで。」

陽子さんはそう言って断ろうとしたが、

「そうかも知れないけれど、そういう人からアイデアもらったほうがいいのよ。精神障害のある人たちのグループで、ちょっと心の癒やしになるような感じの曲、なにかないかな。」

と利用者は言うのであった。

「そうねえ。あたしは音楽には詳しくないけれどね、ドビュッシーのアラベスクとかそういうのは?」

陽子さんは適当に答えを出したのであるが、

「そうか、それがあったわね。」

と利用者は言った。

「アラベスク一番でしょ?あれは確かに心に響くわ。他の人にも言われてるのよ。よし、陽子さんにもそう言われたんだから、それを候補に入れよう。」

利用者は手帳を取り出して、アラベスク一番と書いた。

全く、この3人の利用者たちは一体何を考えているのだろうと陽子さんは思った。みんな真剣に生きているようには見えないし、ただ面白半分でいろんな活動しているだけではないか。そう考えると、なんで自分は身分の低い学校に行くしかできなかったのか。なんで、自分は、こんな生活しかできないのか、本当に辛かった。そういう気持ちが湧いてくると、またリストカットしてみたくなるのであった。自分には居場所もないし、行くところもない。誰にもこの寂しいとかつらい気持ちをわかってもらえない。なんで私だけこんなに不自由なんだろうなと思ってしまうのであった。こっそり、カッターナイフを取り出して、手首を切ってやろう、陽子さんはそう思ったのであるが、

「こないだはありがとうね。ちゃんと原稿書けたから、あとは提出するだけよ。」

先日、原稿用紙を渡した利用者が、そう陽子さんに声をかけてきた。

「柏餅、喜んで食べてくれたと母に行ったら、良かったと言ってくれたわよ。ありがとう。」

と、柏餅を食べさせてくれた利用者も声をかけてくれた。

「そうなの?」

陽子さんがそう言うと、

「当たり前じゃないの。みんな陽子さんに声をかけてもらったから、モチベーションが上がったり、嬉しかったりするのよ。」

と、三番目の利用者がそういったのであった。

「だから、一人ぼっちだなんて思わないでよ。あたしたちは、みんなそうやって生活してるんだから、一人ぼっちでやってはいけないことなんて、誰よりも知ってるわよ。」

原稿用紙を渡した利用者は、そう陽子さんに言うのであった。

「いいえ、絶対誰かの策略だわ。そんなふうに、あたしの事を必要としてくれる人なんてこれまでいなかった。だって真剣に勉強している人のいるところへ行きたいと言っても、勉強しないのがふつうしか言われなかったんだから。」

陽子さんがそう言うと、

「そうね。それはそうかも知れない。涼さんが、声掛けしてあげてって言ってきたのよ。」

と、二番目の利用者が言った。

「でも、あれだけ心配そうに言われちゃったら、実行せずにはいられないわよ。だってさあ、涼さん本当につらそうだったもん。」

最初の利用者が言った。

「ああして人のことちゃんと考えることって私達にはできないことだわよ。涼さんだからそうしてあげることができたんじゃないの?」

三番目の利用者がそう言ったので、陽子さんは、一気に涙が溢れてきて、

「そうなんですね。私のこと、そんなに考えてくれたなんて、思いもしませんでした。私、謝らなければならないわ。」

と言ったのであるが、

「謝らなくていいの。それより、あなたはあなたらしく、明るく生活していればそれで十分伝わってるわよ。」

始めの利用者が言った。

「丹那トンネルは、抜けたのかな?」

利用者たちに言われて、陽子さんは涙を拭くのを忘れて、小さな声でハイと言ったのであった。

「もっと自分のことを大事にしてあげてね。」

また利用者たちに言われて、陽子さんはもう自分を傷つけるような真似はしないと心に誓った。



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