24.梟は患者を千尋の谷に突き落とす


 足元をさざ波が寄せては返す。ひんやりと肌を刺激していくそれが、足首から少しずつ水位を上げていく。

 どうしたのかと思って見ると、それは墨を垂らしたかのような真っ黒い波だった。ただひたすら眼前に黒が広がり、まるで真夜中の海辺に立っているようだ。足元の黒い波は段々と水位を上げて、今にも腰に届きそうだ。為す術もなくそれをただ見ていると、どこからか声がした。


「もうすぐだよ」








「さく?」


 ふ、と。意識が覚醒した。頭上にはこちらを覗き込むようにして覆い被さるリヒャルトさんがいる。下から見てもいい男だ。

 ここ、どこだっけ。


「何がもうすぐなんだ?」

「…………? なんだっけ」


 なんの事か分からない、きっと寝ぼけたのだろう。答えに窮していると優しい手が「無理に思い出さなくていいよ」と頭を撫でていく。

 また私のベッドで寝たのかと抗議しようと体を起こすと、まだ覚醒しきっていない体が揺れてまたベッドへ沈む。


「まだ寝てていい。これから少し出かけるから、ちゃんと飯食っとけよ」

「どこ、いくの」

「ヴァルターを送って王都。そう遅くならずに帰るから」

「いく、一緒に」

「お前は留守番。今度こそな」


 眠たくて動けないのをいいことに、顔中にキスが降ってくる。唇を掠めそうになってさすがに手で避けると手にキスをされる。最近はキス魔が重症化している。


「おきる」

「無理すんなって」

「お見送り、するから待ってて」


 私が折れないとなるや、リヒャルトさんは「わかった」と笑って手を貸して起こしてくれる。そのまま、ぽすっと彼の肩に顎を載せると、私よりも高い体温に、また眠くなる。


「昨日、いつかえってきたの」

「二時間もしないで帰ってきたぞ。さくはともかくヴァルターまで寝てやがった」

「疲れてるんだよ、リヒャルトさんのせいで」

「ただの軟弱だろ」


 さすがに団長として部下への評価が厳しい。いつまでもこの温かさにくるまっていたいけれど、そろそろ起きなければ。永遠に惰眠を貪りそうで怖い。

 ぐっ、と力を込めてリヒャルトさんの体を押し返すと、抱き抱えられた体が強い力で押されてまた胸の中に戻ってしまう。腰を支える手が離そうとしてくれない。


「なに」

「ヴァルターと色々話したって?」

「誰かさんが何も話してくれないから。他人から聞かされるのにはうんざりするけど、仕方ないよね。話してくれない誰かさんが悪いんだもん。教えてくれるみんなにはもちろん感謝してるよ」


 徐々に覚醒してきた脳が、浮かんだ言葉を選別せずに次々放つ。苦笑したような吐息が聞こえたから、一旦口を閉ざす。


「いつかちゃんと話すよ」

「いつか、なんて待てない。話してくれないなら自分で聞きに行く」

「他人から聞かされるのはうんざりなんだろ」

「秘密主義にうんざりしてるってこと」

「今日は朝から機嫌が悪いな」


 頭頂部にちゅっ、と音が振る。不機嫌なんて言いながら、気にも止めていないではないか。いや、そもそも不機嫌ではないけれど。


「私、リヒャルトさんが酷い目にあったら酷いって一緒に怒りたいし泣きたい。嬉しいことがあったらやったね、良かったね、って笑いたい。そういうの、共有したいだけ」


 目を見てはっきりそう言うと、驚いたように灰色の瞳が小さく見開かれた。朝日を受けて煌めく銀色の虹彩が揺れて、泣いてしまうのかと思った。

 けれど、そうはならなくて、眉を八の字に下げて小さくうん、と頷くだけだ。


「ごめん。どんな顔していいか分からない」

「? いま、どんな気持ち?」

「嬉しいと、泣きそうと、胸が、痛い」

「胸が痛いのはなんでだろ」

「教えない」


 眩しそうに目を細めて笑うと、また抱きしめられた。


「じゃあほら、さく。朝の支度して降りておいで」


 名残惜しそうに頭を一撫でしてリヒャルトさんは部屋を出て行った。最近、どうにも不安定に見えて放っておけない。

 眠たい目を擦りながらベッドから這い出て、急いで着替えて一通りの朝の支度を整える。

 階段を早足に掛け下りると、昨日とは打って変わってピシッと背筋を伸ばして立つヴァルターと、リヒャルトさんが会話をしていた。


「おはよう!」

「おはよう」

「ヴァルター、挨拶とかするんだ。意外」

「私をなんだと思っているんだ。挨拶くらいする」

「ヴァルターって、なんか学校の先生みたいだよね、生活指導の」

「王立近衛師団の副団長たるこの私が? 教師だと?」


 心外、とばかりに片眉を上げて睨まれたけれど、自分では的を射た例えとだ思う。ずっと、何か既視感があると考えていたが、解決してさっぱりした。


「いま何の話してたの?」

「さく、良いから飯食って来い」

「隊長の騎士競技大会の褒賞の話だ」

「なにそれ、なにか貰ったの?」

「ヴァルター」

「欲しいものが何でも手に入るという、王家所蔵の魔道具だ」

「何でも!? すごい!」

「それの使い道を聞いていた」

「何に使ったの? リヒャルトさん」


 ヴァルターからバトンを貰って改めて私が聞くと、リヒャルトさんはキッチンだった。

 私の朝食をトレイに乗せながら「うーん」と返すばかりだ。「ねえ」としつこく問い詰めると、ローテブルにトレイを置いて顎を掻きながら笑った。


「酔って適当に使った」

「えー、勿体ないなあ」

「隊長、貴方という人は……」

「多分、世界一美味い酒、とかそんなんだわ」

「王家所蔵の魔道具を……なんという使い方……」

「それ、もう無いの?」

「この世に二つと無い貴重な物だ。それを隊長に下賜なされたということ自体、栄誉なことではあるが」

「もう無いもんは無いんだからうだうだ言うな。さくも早く飯食え」

「はーい」


 私が食事を進める横で、二人は出かける準備を進める。ヴァルターは、どうせまた酔うから、と朝食も辞退したらしい。昨日の夜から何も食べていないのは、辛いのではないだろうか。そう言うと、リヒャルトさんは「軍人なんだから大丈夫」と言い切った。


「でも、あんなに具合悪そうにしてて、見てて可哀想だったよ。もう少し優しく運べないの?」

「こいつが柔なだけだ。鍛錬が足りない」

「私、絶対リヒャルトさんに運ばれたくないな」


 そう言うと、ぴくりと彼の肩が動く。むすり、と唇を尖らせて不本意を前面に出して来るが、鍛え抜かれた軍人のヴァルターでさえあのざまなら、運動不足一般人の私なんて到底無理だ。


「……苦手なんだよ、手加減とか調整とか」

「私を運ぶ練習と思えば良いんじゃない?」

「さくやを?」

「それなら、少しは丁寧に出来るかもよ」


 うんうん唸りながら目を瞑って何やら手をウゴウゴしている。シュミレーションでもしているのだろうか。一連の流れを無言で見ていたヴァルターの顔に、不安の色が差し始める。


「ヴァルターは空間転移、出来ないの?」

「普通はできるものではない。空間と空間を瞬時に繋げるなど」

「……ね、リヒャルトさんって、魔術使うの禁止されてるんじゃないの?」


 甘めの卵焼きを刺していたフォークを置いて、小声でヴァルターに問うてみる。

 唸りながら何やら工夫を凝らそうとしているリヒャルトさんの集中を乱したくない。今後運ばれるヴァルターの為にも。


「度を越した魔術の行使は禁じられているが、一般的な魔術なら使用可能だ」

「わかんないけど、空間転移って一般的なの……?」

「目を瞑れ。普通にアウトだ」


 そもそも空間転移という魔術自体世界的には使用禁止らしい。どこでも自由に行き来できるなど、便利ではあるが確かに恐ろしいことでもある。


「……よし。行くぞ、ヴァルター」

「はい、隊ち……!?」

「おわ~……」


 唸り終わったリヒャルトさんが声を掛けたと思ったら、ヴァルターをお姫様抱っこで抱え上げたではないか。返事をし損ねた副団長は、尊敬する団長の腕の中でフリーズしている。


「なに……してるの、リヒャルトさん」

「さくやだ。これはさくやさくやさくや。俺がいま抱き抱えているのはさくや。可愛いさくや」

「うわ」


 自己暗示だ。てか私、あの状態で移動する羽目になるの。可哀想なヴァルターは未だ固まって動かない。


「じゃ、行ってくるさくや」

「『さくや』は腕の中だよリヒャルトさん。行ってらっしゃい」

「おう」


 リヒャルトさんを中心に正円が宙に描かれて術式が迸る。光って視界が真っ白になったかと思うと、次の瞬間にはもう二人は消えていた。

 

 一瞬で静寂に変わった部屋で、一人取り残された途端にまた眠気だ。欠伸を噛み殺しながら、途中だった朝食を片付ける。

 

 今日はバイトは休みだし、何をしようかな。最近休みとなると日中も寝てしまうから、散歩にでも出ようかな。

 そんなことを考えていると、背後で窓が叩かれた。フォークを加えながら振り向くと、外にアウル先生がいる。フードを外して顎をしゃくっているが、出て来いと言うことだろうか。

 ちょっと待って、と両手で抑える仕草をしてから、残り僅かになった朝食を掻き込む。

 空いた皿を急いでキッチンに戻して、上着を羽織って外に出ると、「遅い」と文句を頂戴した。


「どしたの、先生」

「お前に見せたいものがある」


 先生はそう言うと、体を横に向けて首を後ろに巡らせた。追いかけて視線を向けるが、特にこれといって何も無い。ただ、丘が広がっている。


「なに?」


 先生は眉間に皺を寄せて深く息を吐いた。


「そうだと思った」

「先生……?」

「リヒャルトが居ない、今しかない。お前が知りたい事を知れるチャンスだ」


 けれど、と先生は続ける。夕焼け色の瞳に真っ直ぐ射抜かれて、心拍数が上がる。これは、緊張だ。


「お前が知りたいと望むのなら、導こう。但しオレはお前を千尋の谷に突き落とすぞ」

「…………」

「過保護なあいつとは違う、お前の心情など考慮しない。どうする」


 先生の迫力に凄んで、返事に戸惑ってしまう。以前は迷わず先生の手を取った。でも今は──。


「……リヒャルトさんは、待って欲しいって。いつか話すから、って」

「それを待つか? いつか、とはいつだ。すべて話す保証があるのか? お前は自分の目で確かめずに納得できるのか?」

「それは……」

「お前にひとつ、贈り物をしよう」

「え」


 先生が私の眼前に手を広げた。顔を鷲掴みにされる、と身構えたがそうはならなかった。

 ぱちん、と指が鳴った。ただ、それだけ。何もおかしなことは起きていない、それなのに私は自分の目を疑った。

 先生の後ろに見える丘。いつも家の窓から小さな家庭菜園越しに見える、何度も見てきた景色。そこに、新しいものが加わっていた。


「見えるか」

「…………見える。さっきまで、無かった」

「ずっとあった。お前が見えていなかっただけだ」


 丘の上に建つ豪奢な屋敷と、その奥に見える石造りの神殿。王都の物よりもずっと小さいが、デザインが同じだった。先ほど先生が示した方向にあったのは、あれだったんだ。


 気づかなかった? ずっと? 見えていなかった? どうして?

 同じ疑問がぐるぐると廻って目が回りそうだった。自分の立っている場所さえ分からなくなりそうな不安感に、足が震えた。


「認識阻害の魔術を、俺がいま破った。余程あれをお前に見せたくなかったんだろうよ」

「だれが……」

「聞く必要があるか?」

「ど、して……なんの必要が、あって、こんなこと」

「それはリヒャルトに聞け。オレはただ客観的に事実だけを述べる。お前がそれを自分の目で確かめる、それだけだ」


 どうする、と先生は言う。衝撃と混乱で息が上手く吸えない。

 リヒャルトさんは、なぜあの建物を隠したのだろう。そんなことは彼が帰ってきてから、彼の口から聞けばいいだけの話だ。だけど、本当のことを話してくれる保証は? いつか話す、とまたはぐらかされるのではないの? リヒャルトさんのことが信じられないの? 違う、そうじゃない、でも──。

 堂々巡りで決められない。どうしよう、と助けを求めて先生を見ると、燃えるような夕焼けがこちらをただじっと見ている。

 自分で決めろ、と。この人はいつもそう言ってきた。


 息を吸って、深く吐く。それから、ゆっくりと一歩踏み出した。

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