22.正論パンチ! 養父は、無傷だ!


 出入り口脇の窓ガラスを割ったらしく、破片が店内に散らばっている。私も子供たちも口をあんぐりと開けて放心しながら見つめていると、申し訳なさそうに眉を下げたリヒャルトさんが発言した。


「悪い、驚かせて。手が滑った」

「ちょっと、あんた何やってんのよ!」

「ああ、子供たちは動かないでそこに居てね。いま片付けるから」

「俺の心配は無しか」


 するわけない、と幼なじみの夫婦が揃って切り捨てると、箒とちりとりを投げ渡す。それを受け取りながら、呆然としてしまった子ども達にリヒャルトさんが声を掛けた。


「ほら、お前らも明るい内に帰れよ。近頃は魔獣が彷徨いてるんだからな」

「こ、この町にも来るの……?」

「来ねえよ、俺がいるんだから。でも念の為な」


 自信満々の言葉に、それぞれが安堵のため息が吐く。

 子供たちは手早く新たな宿題を鞄に詰めて、先生さようなら、またね、と言って早々に店を出て行った。魔獣は出ないと断言されても、やはり怖いのかもしれない。走っていく後ろ姿を見送りながら心配になったが、そういえばここには伝説のドラゴンスレイヤーがいたのだと、思い直す。きっとこの町は安全だ。


「あんた今日はなんでこんなに早いのよ」


 黙々と箒を掃くリヒャルトさんに投げられた疑問に、私も耳を傾ける。いつも帰りは夜遅いのに、今日はまだ日が暮れる手前だ。


「俺が討伐に参加してるのが近隣の地方師団の奴らに漏れてな。次々と訓練を付けてくれと押し掛けて来たから、帰ってきた。あんだけ師団のヤツらがいるなら魔獣が出たって大丈夫だろ」


 至極迷惑そうな顔をしながらも、ガラスを集める仕草は繊細で丁寧だ。念には念を、と散らばった範囲よりも大きく掃いて仕上げにちりとりへ。屈強な体を小さく折り曲げて、なんだかおかしかった。

 幼なじみ三人で会話を続けながらも、箒モップ雑巾と完璧な役割分担で掃除が進んでいく。

 私はというと、何となく会話に入れずに広げた筆記具を片付けながらその様子を耳で拾う。話しかけるタイミングを逸してしまい、久しぶりにちゃんと顔を見たのに、とそわそわしてしまう。

 そうやって向こうに気を取られていると、鉛筆を掴み損ねた。思わず「あっ」と声が出てしまうが、それは手を離れて床をころころと転がる。

 すると、私の声に敏感に反応したリヒャルトさんが、わざわざ会話を中断して拾い上げてくれた。


「ほい、鉛筆」

「ありがと……」

「ん。ただいま、さくや」

「……おかえりなさい、リヒャルトさん」


 いつも通りの低く優しい声に、安心した。ぎこちない雰囲気なんて私の勘違いだと言わんばかりに、彼は私の頭を撫でて当然のように頭部にキスを落とした。嫌がって頭を振ると小さく笑って、また撫でる。

 最近ずっと難しい顔をしていたけれど、もう解決したのだろうか。少なくとも、いまはリラックスしているように見える。


「帰ろ、さく」

「うん、いま準備する」

「ちょっと待ちなさい」


 ほっと胸を撫で下ろしながら荷物を詰めたショルダーバッグを取り寄せると、エルザさんから待ったが掛かる。リヒャルトさんは眉根を寄せて、「なんだよ」と不満そうだ。


「リヒャルト、あんたねえ。年頃の女の子と一緒のベッドで寝るって一体どういうつもり!?」


 そうだった……! 良い感じの雰囲気に流されて忘れていたが、その話はぜひ詰めてもらいたい案件だった。

 私一人では暖簾に腕押しで、まったく話にならない。


「別に良いだろ。ただ寝てるだけなんだから」

「当たり前でしょ、手を出してたら殺すところだわ」

「あのなあ、」

「あんたもいい歳なんだから一人で寝なさいよ! さくちゃんだって子供じゃないの、もう年頃の娘さんなのよ。こんなことで説教されて恥ずかしくないの、あんた三十五でしょ!」


 エルザさんの怒涛の進撃にさすがのリヒャルトさんもたじろいでいる。レオンさんも掃除用具を片付けながら、同調するように追撃する。


「なあ、リヒャルト。よく考えてみろ、十八の女の子が三十五の男と共寝なんて普通に可哀想だろ。お前も十八の頃なんて、もうアレだったろ」


 アレ、のところに何とも言い難い意味を感じる。その歳でもう遊んでいたのだろうか。

 幼馴染達に容赦のない正論をぶつけられてリヒャルトさんは拗ねたようにそっぽを向いてしまった。ボコボコにしてくださいと言ったのは私だけれど、段々可哀想になってきた。


「あの、二人とももうその辺で……あとは私から言いますから」

「だめよ、そうやってみんなこの顔に騙されて甘やかすから増長するのよ」

「それはまあ、分からないでもないというか」


 エルザさんの言には激しく同意する。あの顔でわがままを言われたら、大抵の女性は許してしまうだろう、と私も思ったものだ。


「だって……」

「だってじゃないのよ、あんた子供じゃないんだから」

「朝、起きてさくの心臓が止まってたらと思うと怖くなる」


 そっぽを向いたまま小さくそう言うリヒャルトさんの横顔が、幼く見えた気がした。その言い分に私たちはみんな口を開けて黙ってしまう。


「だから、夜中に見に行ってちゃんと呼吸してるか確かめる。心臓が動いてるか確認しないと、怖くて寝てられない」


 そういう行動に、身に覚えがあった気がした。そう思うと、ごく自然に幼かった頃の記憶が蘇ってきた。


 小さい頃、不意に母が居なくなっていたらどうしようと思う夜があった。そうなるともう怖くて、夜中にそっと母のベッドに忍び込んだ。腕にしがみつきながら、眠りに落ちる直前、寝ていたと思っていた母が優しく頭を撫でてくれて、泣きたくなるほど安心した。


 いつも思い出す情景は気持ちを暗くさせるけれど、今の記憶は胸が温かくなるような優しいものだった。母の顔も思い出せないけれど、私にもそんな優しい時代があったんだ。

 リヒャルトさんに、そんな幼い頃の自分が重なった。


「あんた、そんな……小さな子供じゃないんだから」

「そっか、子供のすることか」


 自嘲気味にそう言って笑う彼に、夫婦はハッとしてバツの悪そうな顔をした。ごめんと謝ると、いや別にとさらりと返ってきた。


「いやでも、だからって一緒のベッドで寝ることないだろ」

「それは……」


 それについては、思い当たる節が私の方にあって、言い淀む彼に代わり、思わず挙手してしまう。


「もしかして、私うなされてる?」

「…………」

「だから、朝まで一緒に?」


 彼は小さく頷いた。やはりそうだったのか。

 私の夢見が悪いことを、ずっと心配していた彼が、ここ最近の不安定さも相まって添い寝という強硬手段に出たのだ。


「さくがうなされても、抱きしめてやると止む」

「……分かった。だから一緒に寝てるってのは理由があるって。それはそれとして、あんたこれ幸いと布団に潜り込んでるでしょ」

「それは、そう」


 すこーん、とエルザさんが投げたお玉が見事にリヒャルトさんの頭にヒットする。大したダメージでもないように落ちたそれを拾って、厨房へ投げ返す。

 リヒャルトさんが毎晩布団に潜り込んできていた理由がわかって良かった。私欲もありそうだが、私のことを心配してくれていたという事実に嬉しく感じている自分もいた。わだかまりが一つ解消して心が少し軽くなる。今日は、いつも通りの二人で過ごせそうな気がした。


「ところでさ」


 厨房に戻って手を洗いながらレオンさんが改まったように発言する。


「さくちゃんて、リヒャルトに出会った頃は十八だったんだよね」

「そうですよ」

「一緒に暮らし始めて一年以上経つけど、もう十九歳なんじゃない?」


 その場が静まり返った。


「ほ、ほんとだ! 私、十九歳だ!?」

「やだ、私ったら全然気が付かなくて……! お誕生会しましょ、さくちゃん!」

「やっぱりかー。なんか薄々そんな気がしてたんだよな」

「もっと早く言いなさいよ、レオン!」


 いや、ちょっと待って欲しい。受験を失敗した三月時点で十八歳だったし、誕生月次第では私もう二十歳では?

 

「私、成人の可能性も……?」

「さくちゃん、二十なの? 嘘でしょ? そんな初々しい少女のようなお顔で?」

「エルザさん、言い過ぎです」


 衝撃の新事実に、わいわいやっているけれど、リヒャルトさんが一向に話題に入って来ない。どうしたのかと思って振り返ると、深刻な顔をしていた。けれど次の瞬間には錯覚だったかと思うほどに、いつも通り目尻を下げて笑っていた。


「さくが何歳だって俺は構わないよ」

「そういう問題じゃないのよ、リヒャルト。女の子には繊細で大切なことなの。そういうとこほんと無神経」

「お前だって三十五には見えねえよ」

「歳の話すんな!」

「お前らが始めたんだろうが!」


 またしても、二人の言い争いが始まる。それを横目にレオンさんが手招きするので二人を一旦捨て置いてそちらに向かう。


「今度、ほんとにちゃんとお誕生会しよう? 気付くのが遅くなってごめんね」

「謝らないでください、私も気づいてなかったし、誕生日なんて覚えてもいないから」

「それでも、さくちゃんが嫌じゃないならお祝いさせて」

「はい! ありがとうございます」


 温かい言葉に、自然と頬が綻ぶ。誰かに誕生を祝われて嫌なはずなんてない。ましてや、大好きな人達に。楽しみにしてます、と言うとレオンさんも笑ってくれた。

 一方、未だいがみ合いをしているリヒャルトさんの背中を、ため息を吐きながらつつく。こちらの呆れた気配に気付いたらしい、気まずそうに咳払いをしてから、手を伸ばして「帰ろう」と言い出した。


「じゃあ、帰りますね」


 私のために怒ってくれた二人にぺこり、とお辞儀をしてから、伸ばされた手を取ってその横に並ぶ。


「会話が足りないせいでこんなことに巻き込んですみませんでした!」

「巻き込まれた、なんて思ってないよ。こいつがさくちゃんに迷惑かけてることは事実なんだから」

「そうよ、また何かあったらすぐ言いなさいね」

「はい!」


 三人で笑うと、リヒャルトさんがムスッと口を尖らせて手を引く。はいはい、いま行きますよ。

 また明日、と笑顔でバイト先を後にして、手を繋いだまま家路を歩く。


 日はほとんど傾いていて、ゆるやかな橙が町に溶けていた。家々の影が長く伸びて、風に乗って夕飯の匂いが流れてくる。いつかどこかで嗅いだような気もするし、そうでない気もする。

 まだ馴染みきれない田舎の風景は、見渡すたびに胸の奥をそっと撫でていく。

 道の向こうでは、手を繋いだ親子が楽しげに話しながら歩いていた。買い物帰りなのか、それとも私たちと同じく家路につくところなのか。反対側では、仕事を終えたらしい男たちが「今日は飲むか」と笑い合いながら夕陽を背にしていく。 

 世界は変わっても夕暮れを行く人々の姿はきっと変わらない。私は元の世界で、どんな夕暮れを歩いていたのだろう。願わくば、誰かと一緒だったら良い。

 そんなことを考えていると、繋いだ手がトントン、と指で小さくノックされた。顔を上げると、リヒャルトさんはまっすぐ前を向いたまま。


「な、さく。新しい薬はちゃんと貰ったか」

「うん、さっき貰った」

「ちゃんと、話も聞いたか」

「最近眠たくなるのは、体が弱ってるからだって」


 繋いだ手に力が入る。痛くは無いけれど、そこからまるで彼の気持ちが流れ込んでくるようで辛かった。私以上に傷ついているこの人に、どう言葉を掛けていいのか分からない。

 いつだって私は大切な時に大切な人へ言葉を掛けられない。


「さくや」

「ん」


 もうすぐ夕日が沈み切る。すれ違う人も少なくなってきて、家の屋根が遠くに見え始める。町中から少し離れたところにぽつんとある我が家が、寂しそうに主の帰りを待っているようだった。


「大切なことを決める時間が欲しい。少しでいいから」

「大切なこと?」

「俺が守るものなんて、お前の命以外ないのにな。ごめん」

「どうして謝るの」

「ずっと本当のことが言えなかった。……まだ、言う勇気もない。知ったらさくやは俺のことが嫌いになるから」

「ならないよ!」


 反射で答えると、ようやくリヒャルトさんはこっちを向いてくれた。微笑みかけてくれたけど、どこか不安を宿しているそれは、途方に暮れてしまった心許ない少年のようにも見えた。


「いつか、必ず言う。そのための準備の時間が欲しい」

「心の準備の時間?」

「お前だけじゃなくて、各方面にいくつか白状しなきゃいけないことがある。そうしないと、届かない場所に行く必要がある」


 決心が遅くてごめんな、とリヒャルトさんは言う。


「なんの保証もないけど、手を伸ばしてみないことには分からないし、今は少しでも足掻きたい」


 家の前まで来ると、リヒャルトさんは立ち止まって私を抱き上げた。「わっ」と声を上げると彼は少し笑って、また謝った。


「謝ってばっかり」

「ん。さくやが大事だから」

「私も、リヒャルトさんが大事だよ。悲しませたくない」


 ぎゅう、と抱きしめる力が強くなる。私も、少しでもこの気持ちが伝わるように必死に頭にしがみついた。


「俺の悪足掻きに、付き合って」


 私の命を、私よりも惜しんでくれている人。悲しませたいわけじゃ、絶対にない。ならばせめて、満足いくまで付き合おう。

 そう腹を決めて何度も頷きながら、慰めるように背中を叩くと、やっと「ありがとう」と言ってくれた。


「ね、リヒャルトさん」

「ん?」

「大好きだよ」


 あの朝、拗ねて布団に潜り込んできた人へ、改めて。

 今度はまっすぐ届きますように。そう願って顔を覗き込んで目を見て真っ直ぐ伝えた。

 灰銀の瞳が煌めいて、やがて蕩ける。


「俺も。愛してるよ、さくや」


 まさかの倍返しで返ってきました。撃沈。

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