19.私の養父がメンヘラ彼女


 体が重くて怠い。どれくらい寝ていたんだろう。薄らと瞼を開けると、開いたままのカーテンから強い日差しが差し込んでいた。


 昨日、どうしたんだっけ……。


 その答えが出るよりも背後の温もりに気付いて心臓が跳ねる。

 やけに体の自由が利かないと思ったら、筋肉質な堅くて太い腕が背後から回っていた。足までホールドされて完全に身動きができない。頭頂部の辺りからは穏やかな呼吸。


「ちょっ……やりやがったこの人」


 辛うじて動く首だけを駆使して何とか背後を確認すると、リヒャルトさんが私をがっちり抱き込んで寝ていた。


「起きて! 何でここで寝てるの!?」

「さくちゃんが俺の言うこと聞かないから」


 思いの外ハッキリとした発声に、既に起きていたのだと知れた。目を瞑ったまま、不機嫌が乗った声音で更に続ける。


「だから俺もさくちゃんの言うことは聞かない。約束も破るしお願いも聞かない」

「こ、子供か……」


 ぎゅう、と拘束が強くなってちょっと本格的に体が痛い。せめて寝返りを打たせてほしい。

 どうにか分厚い胸板に手をついて、ようやっと反転するけれど、リヒャルトさん側の協力はゼロだ。分かっていてやってる、この男。

 抵抗の表れで、頭に乗っている彼の顎を小さくゴツ、と頭突きした。「くっ……ふふ……っ」と何故か笑い声が漏れるリヒャルトさん。謎だ。


「さくちゃん、俺に言うことは?」

「いまの?」

「昨日のことも」

「…………」


 謝ろうかと思って、やめた。


「さく」

「謝ったって、私はまた同じことするから」

「だから、ごめんなさいは必要ない?」


 そう言われると確かにこちらの分が悪い。

 肘で体を起こして、やっと拘束を逃れる。なお、足はまだしっかり絡められているので動けはしない。

 上体を起こした私を、リヒャルトさんはムッとした顔で見上げる。顔に手が伸びてきたからピシャリと叩き落とすと、形のいい眉が八の字に下がってしまった。

 罪悪感がないでもないが、そもそも不可侵領域という名のベッドに不法侵入してきた方が悪い。昨日の私が悪いと言うのなら、これでおあいこです。


「リヒャルトさんだって子供の頃は反抗期くらいあったでしょ?」

「俺は反抗期なんて無かった」

「へー、奇遇。私も無かった。多分」


 いま現在、初めての反抗期をお送りしております。感情最優先でなにが悪い、開き直ってやる。


「保護者なら大きな気持ちで見守ってください」

「見守ってるよ、ずっと。怪我しないように、危ない目に遭わないように、泣かないように」

「そうじゃなくて、」


 不意に、ブランケットの下で絡まっていた足が強い力で引かれた。驚いてバランスを崩し、かくんとベッドへ落ちる。そこへリヒャルトさんの腕が滑り込んでまたしても囚われる。


 見下ろす灰色の目が、これまでに無い近距離で煌めく。鼻の頭がくっつくほど近くて、息が掛かる。


「さく、俺のこと嫌いか?」

「な、なんでそんな話になるの!?」

「じゃあ好き?」

「あ~~~~もう」


 なんだろう、未だかつて無いほどにめんどくさい。こういう情緒不安定な人を的確に表す言葉があった気がするけれど、思い出せない。WiFiを繋いで検索したい。


「さくや」

「ハイハイ好き好き」

「そんな適当に言われたって信じられない」

「~~~~~~!!!!」


 首筋に顔を埋めて噛まれた。

 えっ噛んだ? 父親に噛まれました?

 私の小さな聖域ベッドはそもそもこんな大きな男が乗ることを想定していないので、さっきからギシギシと音が鳴り止まない。すごくやだ。


「~~っ!! なに、マジでなに!? ほんとに怒りますけど!!」

「好きなの、嫌いなの」

「あ~~めんどくさい、なんですか今日はほんとにめんどくさいんですけど!?」

「どうせ俺はめんどくさい男だよ。悪かったな、アウルみたいに小ざっぱりしてなくて」

「いや意味わかんない、ちょっと一回ベッド降りて」

「嫌だ」


 一人用のベッドで激しい攻防。軋む音がだいぶ嫌なBGMになっている。

 暴れてみるも体格差からしてまったく歯が立たず、腕の中で完封。


「好きって言ってるじゃん!」

「気持ちがこもってない!」

「~~! 先生! アウル先生!」


 最終兵器アウル先生。呼べば律儀に来てくれるけれど、それがくだらない用事ならおしりを蹴られる。

 大の大人の男が、か弱い少女にケツキックの刑とか信じられないが、あの人はやる。以前やられた。

 今回はそれを覚悟で呼んでみたものの、姿が現れることは無い。トイレ? お風呂?


「アウルはこの家、出禁だ」


 リヒャルトさんが、さっきより更に不機嫌になった声でぎゅうぎゅうとプレスしてくる。


「なんで?」

「昨日、発作が出たらしいな」

「…………」


 そういえば、そうだった。今朝、目が覚めてなにか思い出すことが、と思った矢先にこれだったからすっかり忘れていた。


「アウルから聞いた」

「ちょっとだけ……軽めのやつ」

「それでも、あいつに付いて行ったことは間違いじゃないと言うのか?」


 腕の中に閉じ込められて、見下ろす灰銀色の目が寂しげに揺れた。

 間違いとか間違いじゃないとか、そんなことは分からない。昨日の事で、何か得られるものがあったのかどうか、それさえも。

 それでも無駄じゃなかった。初めて見た景色、そして私が感じた気持ち。そのどれもが、ここに閉じこもっていたら得られないものだったから。


「行って良かったって、思ってる」


 リヒャルトさんの返事は無い。また、眉間にきゅっ、と皺が刻まれる。


「私、前から言ってたよね。自分のことが知りたい、何ができるのか探したいって。昨日のこと、見たもの全て、感じたこと全部、きっと私の糧になる」

「呪いで痛い思いをしても?」

「痛くたっていいの。自分だけの何かを探して、見つけて。やり遂げて満足して死にたいから」

「さくや……!」


 リヒャルトさんに抱きしめられた。これ以上聞きたくない、と言われた気がして言葉が詰まる。


「お願い、ちゃんと聞いて」


 ふるふると横に振られた首。耳元に掠める吐息が、啜り泣いているように聞こえた。


「俺を置いて行くな……」

「置いてなんか、」

「死ぬなんて言うなよ」

「それは……」


 だって【呪い】があるから。そう遠くない未来、体が動かなくなって、ゆっくり死んでいくことが分かっているから。

 何も出来なくなる前に、何かを探したい。何かになりたい、誇れる自分でみんなと同じ場所に立ちたいから。


 まとまらない気持ちを辿々しくなりながらも、自分の言葉にして伝えたけれど返事は無い。抱きしめて動かないリヒャルトさんに腕を回して、その広い背中を慰めるように叩く。


「何かになんてならなくたっていい、生きててくれればそれで良い」

「リヒャルトさん……」

「諦めるなよ、さくや」


  懇願するその言葉に、やっぱり私は何も返せずにただ背中にしがみつくことしか出来なかった。

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