17.5
さくやを連れて、目の前でアウルが消えた。リヒャルトは大切なものを掴み損ねた手を見つめながら、ゆっくりと空いたベンチに腰を下ろした。
自分が呼び止める声よりも、アウルを選んだことが思いの外堪えているようだった。
深く息を吸って、行き場の無い感情を逃がすように更に深く吐き出す。見つめる手のひらをゆっくりと握って、掴めなかった小さな手を思う。
視界の端で、ようやくヴァルターが立ち上がったのを見ながらリヒャルトは「大丈夫か」と声を掛けた。
「私の事よりも、良いのですか隊長」
ヴァルターは赤くなった額を撫で擦りながら、健気にもリヒャルトの心配をする。乱れる心の内を気取られぬよう、笑ってみせた。
「大切な愛娘が非行に走っちまう親の気持ちだよ」
「隊長は、あの娘が神殿に行っては困るのでは」
「…………」
「アウルさんは何を考えているのでしょう……あの人があんなにも他人に肩入れするなど」
「さあな」
それより、とリヒャルトはヴァルターの肩を労わるように叩く。
「さっきはフォロー入れてくれてありがとな。助かった」
「……いえ。隊長が出した条件を守っただけです」
四角四面に答える部下に、リヒャルトは苦笑した。相変わらず真面目一辺倒で、遊びがない。周囲はそんなヴァルターに対して何かと世話を焼きたがり、声を掛けて気にかける。威厳は足りないが、それでもいいとリヒャルトは思っていた。それも一種の才能だと。
そんな彼だから、自分が退いた後の近衛師団を任せたのだが、本人曰く未熟で荷が重いと。それはリヒャルトも分かっていたが、生憎と泣き言を聞いてやるつもりは毛頭なかった。
「あの娘に隊長の許可なく接触しないこと、何一つ気取られないこと、知り得た事実は全て胸に仕舞って口外しないこと。この三つを、私は必ず守ります」
ですがアウルさんがあれでは、とヴァルターは独り言る。
今回はヴァルターのフォローで躱せたが、確かにアウルの動向が読めない。
一流の魔術師として、さくやの主治医として、そして何より友人としてリヒャルトはアウルに絶大な信頼を置いている。何を考えているのか分かり辛い男ではあるが、ここまで振り回されることは無かった。分かり合えなくても、話し合って分かち合ってきた。
たが、いまリヒャルトはアウルに対して不安を抱えている。それが自分の隠していることに対する罪悪感であることには目を瞑りながら。
「あの娘がここで姿を現すと、本当に厄介なことになりかねない。やるのなら、事前に準備をしてからです」
「なんの準備だ、必要ねえよ。一生な」
「貴方がそのつもりなのは分かっています。問題はアウルさんです」
「ま、大丈夫だろ。アイツにとってさくやは貴重な被検体だ。下手なことをして取り上げられる様なヘマはしねえよ」
「被検体……まあ、確かに珍しい娘ではありますが」
「今頃きっと外周でも散歩してんだろ。どの道、神殿には入れない」
「そうですね、今のままでは」
リヒャルトは一度神殿の方を見てから、その内部へ入る為の条件を心の中で復唱して、ふっと息を吐く。
今はまだ、大丈夫。
そう言い聞かせて頭を切替える。今後の自分とさくやの生活が掛かっている話し合いはまだ続いている。
「で、次は? 誰と何の話だ」
「各市町村に配置してある分隊からの
「……めんどくせえな。そういうのはお前の仕事だろ、団長」
「何度でも言いますが、貴方の離職届は受理されていません、団長」
言い合いながら、次の会議のため庭園を後にする。すれ違う者たちが、口々にお久しぶりです、だの復職なされたのですね、だのと笑顔を向けてくるが、リヒャルトにはバツが悪い。
「そもそも今日は俺の勤務状態について話しに来たんだよ。俺は、辞める」
「それについては先程の会議でも申し上げました通り、宰相以下十五名の大臣全員が否です。勿論、陛下も。貴方には今後も近衛師団長として務めてもらわなければなりません」
「退職の自由意志を行使させろ」
「国を守る者としての責務を果たしてください」
十分果たしただろうが、と反論しても部下は鉄面皮のまま次の予定を読み上げる。
右から左へ聞き流しながら、リヒャルトは予定されていた会議室とは別の方向へ歩き出す。いい加減正装が堅苦しいのだ。
「着替えてくるから待ってろ」
「お供します」
逃げると思われているのだろうか。リヒャルトはうんざりしながら、追従する部下に向かって金具を外してマントを放る。自分の為だけに特注で誂えたという絹のマントは音もなくするりと手を離れ、ギリギリのところでヴァルターが拾い上げる。もう身に纏うことは無いと思っていた特別なそれに、見向きもしない。
歩きながら次々に装飾をぽいぽいと投げ捨て、その度に後ろを歩く部下がキャッチする。
「更衣室に着く前に廊下で裸になるつもりですか」
「それでも良い」
「子供ですか、貴方はっ!」
シャツに手をかけて第二ボタンまで外したところで、胸元で揺れる黒い石が目に止まる。以前落としてしまったから、再度接着して今度は外れないように補強した。
光を反射しない真っ黒なそれに、導かれるように自然な動作で口付ける。苛立ちも焦りも、まるで吸い込まれたかのように落ち着いて、今度はゆっくり、音を立ててキスをした。
「隊長! だらしのない格好で歩かないでください、せめてボタンは閉めて!」
「はいはい、分かったよママ」
適当に答えていると、遠くから黄色い声や歓声が湧き上がる。行き交う侍女や城務に携わる女性たちが、リヒャルトを見掛けて騒いでいるのだ。
笑顔で手を振ると、またしても割れんばかりの歓声が上がる。このくらい崩れた格好の方が彼女たちにはいい刺激なのだろう。
「歩くだけでキャーキャー言われるなんて久しぶりだ」
「女好きは相変わらずですね」
「モテるのは俺の罪じゃない」
まったく悪びれもなく宣うリヒャルトに、ヴァルターの眉間には大きな皺が刻まれる。
「貴方の娘がここに居たらどんな顔をするか」
その言葉に、数日前の玄関先での騒ぎを思い出す。さくやのあの、汚いものでも見るかのような顔。それを思い出してリヒャルトの顔は自然と綻んだ。
黙ってしまった上司を覗き込み、その顔を見てヴァルターは後悔したように閉口する。
「どういう性癖ですか」
「さくやならどんな顔も可愛い」
本日何度目かも分からないヴァルターのため息と重なって、ヒールが廊下を叩く硬質な音が響いてきた。カツカツと足早に近づいてきたそれは、リヒャルト達の後ろでピタリと止まる。
緩慢に振り返ると、光を背にした女が立っていた。
真っ白い長衣を身にまとい透明なベールを被っていかにも神聖な空気をまといながら、履物は赤いピンヒール。この赤がどこが俗っぽいと、リヒャルトは常々思っていた。
「相変わらずだな、そのヒール」
「久しぶりの挨拶も出来ないの? ウェーバー団長閣下?」
凛とした張りのある声からは自信が滲み出ている。胸まで掛る長い髪を払って、腰に手をやる様は、とても神殿のトップには見えない。
「神殿の巫女が自ら挨拶に出向くとは、俺も偉くなったもんだ」
「冗談はいい。リヒャルト」
ヴァルターは邪魔にならないよう、隅に避けて二人のやり取りを見守る。先程までの騒がしかったギャラリーも静まり返り、波が引くように消えていた。
逆光に慣れた目が、ハッキリと女の象を映し出す。
「久しぶりだな、トーカ」
トーカと呼ばれた女性は胸を張り、リヒャルトに相対する。圧倒的な体格差にも関わらず、二人が対等に見えるのはトーカの堂々とした佇まいから来る一種の圧だろう。
トーカは漆黒の髪をもう一度払って、気の強そうな釣り気味の、こちらも漆黒の瞳でリヒャルトを射抜く。
「私の捜し物は見つかったの?」
リヒャルトは答えずに、目を瞑る。
胸元で黒い石が小さく揺れた。
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