15.振り返れば奴がいる


 ちょ、っ……と待って流石にこれはいきなりすぎる。こんな広い空間で一人にされてどうしろと。

 どんどん血の気が引いていくのがわかる。姿が消えるというペンダントを両手で抱えて途方に暮れ一歩も動けずにいると、突如静まり返っていた空気が変わった。

 壁や床を伝う振動が、背後の扉が重い動作で開き始めたことを知らせる。広間に新たな気配が流れ込み、空気が変わったのを感じた。


 心臓が口から飛び出しそうになる。


 恐る恐る振り返ると、現れたのは──リヒャルトさんだった。

 朝に出て行った時とはまったく別の服装で、ひと目で判別ができなかった。

 純白の軍装に身を包み、伸ばし放題だった髪はきちんと撫で付けられて整っている。

 皺ひとつなく完璧に着こなされているその軍服は、金と黒の縁取りが袖口や裾を縫い、肩に掛けられた淡い灰銀のマントはまるで彼の為だけに拵えたかのような色合いだ。この場に相応しい優雅さでもって、空気のようにふわりと翻る。

 腰から下げた大剣は鞘に納められたままでも圧倒的存在感を放つ。柄にまで意匠が施されているのは、実践用ではなく式典用だろうか。


 ──これじゃ、本当に私の知らない人だ。


 リヒャルトさんにだけ注目していると、その後ろをガヤガヤと知らない顔が続いて現れる。身構えたけれど、場違いな小娘を糾弾する声は上がらない。

 本当に私のことが見えていないらしく、誰もこちらを見向きもしない。どういう立場の人達なのかさっぱり検討が付かないが、国家の安定がどうとか、指揮系統がどうとか言い合っている。

 あまりにも非日常すぎる景色に、私の脳は考えることを放棄した。偉い人たちなんだな、という浅い感想しか出てこない。

 そんな人たちを振り切るように、真っ直ぐこちらに歩いてくるリヒャルトさんを見てハッとする。アウル先生は人や物にぶつかるな、と言っていた。

 空気の流れさえ意識してそっと、じれったいほどゆっくりと赤い絨毯から下りて横に避ける。ギリギリでなんとか彼をやり過ごせた。


(…………っ)


 と、思ったのに。私が今まで立っていた場所でリヒャルトさんがびたりと足を止めた。真っ直ぐ前を向いたまま、微動だにしない。私たちの距離はおよそ三〇センチ。

 心臓の音が聞こえたらどうしよう。冗談のように早鐘を打つ胸を抑えて、息を止める。

 けれど、まるで私のことが見えているかのように、彼がゆっくりとこちらを向いた。灰色の瞳の中で、銀色の虹彩が煌めくそれを、間近で見る。目が、合った──。


「どうした、リヒャルト」


 低い声が、響いた。

 いつの間にか玉座に誰か座っている。誰かなんて馬鹿な事を。座る人なんて限られているのに。


 そっと視線だけ動かすと、そこに座っていたのは白い髪の口髭を蓄えたおじさんだった。ここからでは距離があってよく見えないけれど、想像より若いように見えた。


(あれが、王様……)


 仰々しく王冠なんて被っていない、如何にもなド派手な真っ赤なマントも付けていなければ、白いタイツも履いていない。生成りの地味な上衣を身にまとった男が腰かけていた。至ってシンプルな服装はとても王様には見えなかったけれど、騒がしかった空間が水を打った様に静まり返る。全員口を閉じ頭を垂れていた。

 リヒャルトさんを除いて。


「貴方がそんな格好では、正装の私が馬鹿みたいですね」

「久しぶりにお前のその姿が見られて満足だ」


 リヒャルトさんは、もう私を見てはいなかった。玉座へ歩み寄ると、その数歩手前で立ち止まって膝を折り深々と頭を下げた。


「久方ぶりにお目にかかります、陛下。御威光のもと、変わらぬご健勝をお喜び申し上げます」

「ああ。お前も変わらぬ様で何よりだ」


 お前たちも楽にしろ、と王様が声をかけると後ろの方で固まって頭を下げていた人たちがめいめいに緊張をとく。私も、そこでようやく息を吐いた。


「積もる話もあろう。ゆっくりとしていけ」

「日が暮れる前には帰りたいのですが」


 軽口、ともすれば無礼とも取れる言葉に王様はふっと、鷹揚に笑って玉座を離れ、そのまま出ていってしまった。

 一拍置いて、リヒャルトさんと一緒に部屋に入ってきた人たちの言葉が一斉に飛び交う。会議室へ、とか、サイショーも呼べ、とか言いながら王を見送る近衛師団長を手招く。


(あれ……)


 王様に、既視感を感じた気がした。

 どこかで、似た人を見たことがあるような。


 そんなことを考えていると、また景色が変わった。映写機のフィルムが切り替わるように、目の前の風景が一瞬のうちに別の場所へと移っていた。


(先生……やるならやるって言ってください……)


 今度は屋外のようだ。目の前には、現実感のない嘘みたいな規模の庭園。おとぎ話の中に迷い込んだかのような色とりどりの美しい花が整然と咲き誇り、地面には草一本、汚れひとつ無い。

 その間を控えめな服を着た人たちが静かに行き来している。庭師? 使用人? とにかく無駄な動きなく手入れや掃除を遂行している。


(プロの仕事だ)


 庭師たちが鋏を動かす音だけが、静けさの中で規則正しく響いていた。この人たちの仕事ぶりを見ているだけで充実した一日を過ごせそうだ。

 自分がここにやって来た目的も忘れて、しばらく見学をさせてもらおうと手近にあったベンチに腰掛ける。……つもりだったけれど、そのベンチもまた高級感がだだ漏れで、つい腰を浮かせたまま止まる。

 アンティークショップで、「絶対に触らないでください」の札が付いているやつ。

 壊れませんように、と祈ってそっと座ると、思いの外安定感があって座り心地が良い。

 安心して一息つくと、今度は庭の方がにわかに慌ただしい空気になる。するとあっという間に庭園から人の姿が消えた。一切の音が消えてしまった庭は、いよいよおとぎ話か絵画の様相を呈してきた。


「陛下、しかし……」

「ほんの気晴らしに庭を散歩するだけだ。気になるのなら遠くからでも見張っていろ」


(え……)


 ごく近くから聞こえてきた会話に体が固まる。

 嫌な予感がして声の方向を振り向くと、先ほどお目にかかった王様が、お供を追い払ってこちらに向かってずんずん歩いてくる。


(どうしよ……あ、もしかしてこのベンチに座るのかな……!?)


 しまった、立ち上がろうとしたがもう王様は私の目の前にまで迫ってきていた。いま動くと絶対にバレる。

 適当なところで回収してくれるって言ったのに先生のバカ!

 王様が私の膝の上に座ってしまう間抜けな図を思い浮かべて血の気が引いた。

 けれどそんな瞬間は訪れず、王様はまるで見えているかのように私を避けて、隣に着席した。


(…………)


 見えて、いるのだろうか。分からず動けず、呼吸も最小限になる。緊張で手汗がやばい。


「先程、リヒャルトの隣にいたね」


 びくり、と肩が跳ねた。声を我慢したファインプレーに自分を褒めたい。

 やっぱり、見えて──


「そのペンダントはアウルのものか。あれが他人にそれを貸すとは驚いた」


 「ちゃんと、見えていないよ」と王様は言う。意味がわからなかった。パニック状態で頭が働かないまま、祈るように胸元で揺れる小さな石を握り締める。


「貴方は私たちとは違うんだね。だから、隠しても分かる」


 分からない、理解できない。何を言っているのか。

 声音は幼子に話して聞かせるような柔らかさだが、その一言一言に重さを感じて身動きが取れない。


「貴方は、どんな子なのだろう。次に会う機会があれば、姿を見せて欲しい」


 顔を上げられずに、ひたすら自分の靴を見つめ続ける。息を殺していると、立ち上がる動作を感じてほっとした。気が抜けてつい見上げてしまうと、自分の想像以上に近い距離に王様がいた。

 遠目には曖昧だった輪郭が、今はっきりと私の中で像を結ぶ。柔らかな垂れ目と鋭い吊り眉が絶妙な均衡を保つ顔は、穏やかさと威厳を同時に宿していた。

 その瞳は、まるで陽が沈む間際の空の色。静かに燃えるような、夕暮れのオレンジだった。


(あ……)


「これに関しては私の管轄外だ。口出しはしないと、伝えなさい」


 私を通り越して、後ろに向かってそう宣うがやはり意味はわからなかった。そっと振り返ってみるが、そこには何も

 虚空に向かって言葉を投げると、王様は満足したように頷いて、踵を返してやがて視界から消えた。


 どっと汗が吹き出す。手のひらには、ずっと握っていた石の形がくっきりと残っていた。

 ただでさえ短くなってしまっている寿命が更に縮んだ、絶対に。ここに来てからずっと、文字通り息つく暇もなく目眩がした。


「老いぼれたと思ったが、やはり侮れんか」


 どこからともなく鬼主治医の声がした。首を巡らせると、さっきまではいなかったはずの鬼畜が背後に堂々と立っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る