13.華々しい反抗期デビュー
夢を見た──。
お腹が痛い、脂汗が止まらない。試験会場までもうあと少しなのに、これ以上足が進まない。
周りはみんな自分と同じ場所を目指して、前を向いて真っ直ぐ歩いていくのに、どうして自分はこんな所で蹲って地面に額を擦り付けているのか。
誰も助けてくれない、当たり前だみんな自分のことで精一杯だ。とにかく邪魔にならないように、よろけながら道の脇に退ける。
どうしよう、遅刻する。試験が受けられない。でもこのままじゃ会場に着いたってとても座っていられない。
近くにコンビニがあったから、一旦そこへ行って──。いや、そんなことをしていたら間に合わない、
どうして。こんな大切な日に限って、どうして。
空っぽの出来損ない。無能。
もう何度も言われた言葉を、また聞かされる。受験に失敗した私を、叔父夫婦はいつもより苛烈に罵る。同い年の従姉妹が、小さなボストンバッグを投げつけてきた。
出て行け。国立大学以外は認めないと言ったはずだ。
親はあんなに出来が良かったのにどうしてお前はこんなザマなんだ。
結局在学中も一度だって学年一位を取れなかったな。
穀潰しを養う余裕は無い、出て行け恥さらし。
立て続けに雨あられの如く罵倒が降り注ぐ。視界の隅で、従姉妹がざまあみろと笑っていた。
──あなた、一度も私に成績で勝てなかったものね。あの日珍しく出掛けにお茶を淹れて、頑張れって言ってくれたの、嬉しかったのに。
両親の保険金のその殆どを奪われて、少しのお金を持って世話になった家を出る。
前向きに考えよう、やっとあの家から開放されたんだ、と。私は自由で、これからはどんなことだって出来る。空っぽの出来損ないなんてもう言わせない。
自分の頬を叩いて、流れる涙を乱暴に止める。
大丈夫、大丈夫。きっと大丈夫──。
──大丈夫だよ。俺がそばにいる。ひとりぼっちなんかにさせないから──
視界を眩しく照らす、あたたかい声。
急に安心して、なにも問題なんてないような気になる。涙が止まらない。
ああ、なんて、
「ま、眩しすぎる……」
カーテンの隙間から差し込む朝日で目が覚める。ちょうど顔の辺りを照らされて視界が白黒に眩んだ。
「目が……目があ……」
薄目でカーテンを開けると、悪夢も消し飛ぶ晴天で思わず笑ってしまう。
実感は無いけれど、あれは夢ではなく自分の記憶だと確信がある。夢の中で痛んでいたお腹が、いまはぐう、と元気に空腹を訴えて来る。苦笑しながら、まるで他人事のように「酷い話だな」、なんて呟いていた。じりじりと焦れるような痺れが胸を這うが、この程度ならまだ大丈夫。
深呼吸をして伸びをすると、少しだけ縮こまっていた心がしゃんとする。けれど、伸ばした指先の壁掛け時計が七時三〇分を指しているのを見て一瞬息が止まる。
朝の準備を手伝うはずが、悪夢の余韻に引きずられて、ついのんびりしてしまった。慌てて着替えて洗面用具を片手に部屋を飛び出す。
ごつっ
「ん?」
扉が動かない。四、五センチ開いてそこで止まる。
なにか大きなものが扉を塞いでいる、と思って隙間から覗き込むと廊下に正座したリヒャルトさんが居た。項垂れて、まるで覇気がない。
「……え?」
「おはよう、さくちゃん……」
「お、おはようございます」
ボソボソと足元に向かって発せられた朝の挨拶を辛うじて聞き取るが、目が合わない。フローリングを虚ろに見つめながら、正座のまま器用に体をずらして、扉を開けてくれる。
今まで何度も驚かされてきたけれど、これはまた新しい方向で戸惑う。
「なにしてるの……?」
「さくちゃんが……部屋に入るなって……言うから……」
未だかつて無いほどの最小ボリュームで、歯切れも悪く尻すぼみに言葉が消えていく。
「そういえば、そんなこと言ったね」
こくん、と頷く様はまるで幼い子供だ。
多才で、女性にモテモテで、三十五歳で王立近衛師団の団長を務める人が、イタズラを咎められた子供のようにしょんぼり肩を落としている。
その姿を見て、思わずふっと笑みがこぼれてしまう。昨夜感じた寂しさや不安、心の奥に溜まっていたものが、静かに流れ去ったような気がした。
「んふふ」
「……さく?」
「いつからここにいたの?」
「昨夜の一時くらいか……」
「ずっと!?」
またしても、こくん。伺うように向けられた灰色の目が寂しそうで、なんともいじらしく見える。
別に喧嘩をした訳ではないけれど、話し合いが足りなかったのは事実で。
まあリヒャルトさんが秘密主義すぎるせいもあるものの、私も昨日はちょっとわがままが過ぎ気がしないでもない。
ごめんなさい、の気持ちを込めて。
項垂れるリヒャルトさんに思い切り抱きついた。
「っ、さくや?」
リヒャルトさんは私が突然抱きついてもまったく揺らぐことなく、しっかりと受け止めてくれた。当たり前みたいに、抱き返してくれる。
「レオンさん達にリヒャルトさんのお話、聞いたの」
「……そっか」
「リヒャルトさんは偉い人で、女癖は一部事実ではあるけど尾ひれがついてて、」
「ん」
「でも詳しいことは分からないから、出自についてもちゃんと本人に聞きなさい、って」
「ん」
肩に顔を埋めて昨夜の総括を簡潔に述べる。本人のいない所で勝手に聞き出した後ろめたさがあって、彼の反応が見られなかった。
大きな手が、髪を撫でながら項をくすぐる。リヒャルトさんはこの黒い髪が大好きだと言って、なにかと触りたがる。その心境に変化は無いようで、ほっとする。
「俺がなんにも言わないから、不安になっちゃったんだな」
今度は、私がこくんと頷く。優しい声が耳元をふわふわとくすぐっくて、その安心感になんだか泣きたくなってしまった。
「でも良いの。私も反抗することにしたから」
別に泣くことなんてなんにもないのに、涙混じりの声になってしまって思わず鼻をすする。
その音に気づいたのか、リヒャルトさんの手が、再び髪を撫でる。
昨夜、アウル先生に言われた言葉が私の背中を蹴っ飛ばす。
「やっぱり私は、私の事が知りたい。だから、リヒャルトさんが止めたってきっと昨日みたいに私はまた走り出すから」
しっかり、目を見て決意表明すると、リヒャルトさんは悲しそうに眉を下げて口を噤んでしまった。やはり、昨日の今日では認めては貰えない。それでも、良いの。
「私、反抗期だから。目一杯、自分探しをするの」
しっかり宣言して、また抱きつく。
「そっか。反抗期か」
ふっ、と笑ったような吐息が優しく耳に届く。抱え直されて体が揺れた拍子に、彼のネックレスチェーンが跳ねて鼻の頭を掠めた。拗ねたような、寂しがっているような声音に後ろ髪を引かれるけれど、もう決めたから。
「それでも、俺にはさくやがいちばん大切だから。さくやが傷つくような事があれば、全力で守るし、隠す」
「隠されると、暴きたくなるよ?」
「なんだ、それ。いい女みたいなセリフだな」
笑いながら、リヒャルトさんがおでこに優しく唇を落とす。いつもは鬱陶しいそれが、今はたまらなく安心する。
そしてふと、思い付く。
「ね、ね、リヒャルトさん」
「ん?」
不意を付いて、その形のいいおでこに目を瞑って、ちゅっとキスをした。
私もリヒャルトさんを安心させようと思って。同じことをしてみたんだけれど。思いの外恥ずかしくて。どんどん顔が熱くなってくる。
怖くて目を開けられないけれど、無反応のこの沈黙も怖い。てっきり昨日のようにはしゃぎ回るかと思ったのに。
恐る恐る、そーっと、目を開けていくと、予想外の反応が飛び込んできた。
「…………っ」
大きく見開かれた瞳から、今にも零れ落ちそうに涙が揺れていた。
「えっ……と、」
どう反応していいのか分からず、互いの顔を見ながら固まる。
「おーい、人ん家の廊下でいつまでやってんだ。朝飯出来たぞ!」
階下から、天の助けが届く。ありがとうレオンさん!
「い、行こリヒャルトさん! ご飯だって」
「…………」
未だ固まって言葉を発しないリヒャルトさんの腕から抜け出して手を引くと、ようやく小さく、「うん」と返事が聞こえた。
平成を装って階段の手前まで来たけれど、洗面用具を部屋の中に置いてきたままなのを思い出した。
「あ、洗面用具」
振り返ると手を引いていたリヒャルトさんの目から零れ落ちる涙を見た。本人も驚いたようにその跡を指で乱暴にすくって、恥ずかしそうに微笑んだ。
あんまり見た事がない笑い方だ。
「先に降りてるから、行っておいで」
「う、うん」
見送られて急いで部屋に戻る。
どういう感情だったんだろう。いまいち掴みきれないけれど感極まった、とそういう事でいいのだろうか。
忘れ物を携えてまた廊下に出ると、コツン
と足の先になにか当たった。それは廊下を滑って階段の手前で止まる。拾い上げると、それは小さな黒い石だ。
「リヒャルトさんのネックレスの石だ」
常に肌身離さず付けている小さな黒い石のペンダント。宝石なのかと思ったけれど形も歪で宝石特有の輝きがない。光を吸い込んで反射しない真っ黒なそれは、彼の大切なものらしい。
いつもしてるね、と言うと特別なものだから、と愛おしそうにその小さな石を撫でていた。
何の変哲もないその黒い石は、それでも何故か私の視線をよく奪うものだった。
「さっき廊下でバタバタした時に落ちちゃったのかな」
拾い上げて階段を掛け下りると、既にリヒャルトさんはカウンターに座ってレオンさんエルザさんと談笑している。
一通り朝の支度を済ませて食堂へ行くと、食欲をそそる美味しそうな匂いがして、忘れていた空腹が刺激された。
「リヒャルトさーん」
居住区と食堂エリアを仕切るスイングドアを通り抜けながら声をかけると、いつもの様子で振り返る。さっきのぎこちない空気はもう霧散していた。
「これ、石。落としてるよ」
拾った石を掲げながら見せると、リヒャルトさんの表情が消えた。
かと思うと、右手で自分の胸の当たりを叩く。おそらくペンダントが掛かっているであろう場所、そこにあるべきものが無いと理解した瞬間、今度は直ぐに私の石を持つ手に大きな手が伸びてきた。
「わっ」
「ごめん、さく」
そう言うと私の手から石を取り上げて、安心したように深い息を吐いた。握りしめたそれをもう一度自分の掌で確認して、ポケットに仕舞う。
「ありがとな」
いつもと変わらぬ笑顔を見せて、また席に戻る背中を見ながら、驚きで動けないでいる。何事も無かったかのようにまた雑談を始めるその姿に「そんなに大事なもの?」と問おうとして、飲み込む。
言い表せない漠然とした不安、疑念、そんなものが背筋を撫でて行った。
振り返ったリヒャルトさんの綺麗な目が、動けないでいる私を捉えた。朝日を受けて煌めく銀色の虹彩が、世界一愛おしいものを見つけたかのように優しく細まる。
それを見つめ返す真っ白な自分の瞳が、何故か痛んだ。
「どうした? おいで、さくや」
「────」
この人のこの瞳が、自分を絶対に傷つけないと語っている。
だからいまは、このざわめきに蓋をしてその手を取る。
「いま行く」
隣に腰掛けると、満足そうに笑って肩を抱かれた。
「なあ、さく。ちょっと話があるんだが」
「なに?」
「一回王都に行って、元職場に顔見せしてくるわ」
軽やかにそう言って、その場にいた全員を驚かせた本人は、なんでもない顔でまた笑った。
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