人間失格
芸術前線集団
反キリスト
覚えはない。全く。自分が、昔どんな人間だったかは。記憶にはないが、しかし変に臆病な奴だったと思う。理由は知らない。多分怖かったのだろう。けれど当時の恐怖なんてたかが知れているし、どれが怖いかなんてわからなかったに違いない。ボールが道路に飛び出て、そこに車がやってくると車に自ら轢かれるよりは、むしろボールが潰れて困ったことになる方を恐れたくらいなのだから、多分酷く臆病ではあるが、それが何かは知らなかったのだろう。
他人を笑わせたいと思ったことはない。思ったことといえば、ただ他人を怒らせたくないというだけ、自分が笑いたいだけ、それだけだ。くだらないと思う。けれど、かの人だって他人を笑わせたいと自らの人生を踏み躙ったのだから、自分が笑いたいと自らの人生を踏み躙たって、たいして変わりやしないだろう?僕はそう思うんだ。絵は描いた試しがない。記憶には、ない。だから絵のことは話さない。芸術は好きだったと思う。芸術だけが他者であったし、友であったのだと思う。現実の友もいたが高校進学の時にみんなはけちまった。だからそれからは現実の友はいない。いるのは芸術というもの言わぬ友であった。太宰の様に、共産思想に被れたこともあった。けれど今はそれもどうでもいい。私が欲しているのは自己だけだ。確固とした自己、私が私と言えるだけの自己が。それだけが欲しいんだ。社会が良くなろうが悪くなろうが私に何の関係があるんだ?金には関わるだろうね。けれど、私は金はいらなかった。そんなもの、はなからほしくはない。
恋愛はどうだ?この点で太宰は恋されることの辛さを書いた。そうやもしれぬ。けれど、私は、彼が他人に愛されることよりも、むしろ自分が他人を愛せないことに絶望しているのではないかと思うのだ。そこが、私の太宰に共感するところであるし、泣きたくとも泣ききれない思いがする場所でもあるのだ。誰かを愛したと言えるのか。私は。誰かを。いや、いえない。家族も私は俗物と思っているし、他者としか思えない。単に気が合わなくとも、好きでなくても、居なきゃならないから居るだけの存在としか思えない。これを愛というのなら、世界中のすべての人間を、私は愛していることになる。愛が見えない。どこにあるのか。神が死んだと呼ばれた様に、私には愛が見えない。愛がわからない人間はキリスト者には決してなれやしない。
決して。
だから私はキリスト的愛に恵まれない。それが愛だと理解できない。他人に愛されても、それが愛だと、何にもわからない。ただそれが私に向けられたものだとは感じるが、それが愛などと、誰が言えるのだろうか?
彼は社会的な指摘により人間を失格させられた。では、私は何だ?誰になるんだ?人間に合格した記憶はない。人間になった覚えもなければ、また、それ以外の何かになった気も。ただ漠然と自分が自分なのだと知っているだけだ。それなら、どうして失格できるのだろうか。私が精神病院に入っても、それで何を失うのだろう。彼の様に、人間を?それはない。では、神を?しかし愛がわからないなら神もわからないはずだ。では、自分?
彼は自分を失ったのだろうか?みんなから馬鹿にされるべく馬鹿にされて、愛されて、当時の流行の、さらにいえば反時代的なる時流、コミュニストにまでなって、最後に女と共に、朽ち果てて。彼は最後の最後まで自分だったんじゃないのだろうか。彼の生き方も、死に方も、彼は彼のまま、生きて、死んだのではないのか?
私はどうだ。愛も、神もないのだとすれば、私には私しか残るまい。じゃあ、私って何だ。わからない、何も、見えやしない。デカルト?プラトン?違う。わからないそんな本読んでも、何にも分かりやしない。自分が、何なのか、全く、失うものが、何もないんだ。人間すら持ち合わせていないんだ。それなら、どうして失格になれるんだろう。教えて欲しい。私も彼の様に生きていれば人間を失格出来たのだろうか?それなら、私はもうダメだ。彼の様な人生とは、私は真逆の人生だったのだから。
目が潰れた感触がした。男は悶えた。月が真紅の朧なるに、竹藪の木漏れ日たる月影は、まさに我が死を象徴するに相応しかった。
「過ぎ去った電車には、石を投げよ!」
人間失格 芸術前線集団 @03603
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