星の血潮
花守志紀
第1節
「隠し戸棚を、開けてほしいのです」
薄暗がりのボックス席で、デニス・ミラーと名乗る老人は静かに告げた。
ジャケット姿で身なりはよい。黒縁メガネをかけ、豊かな灰色の髪とあごひげをたくわえているが、どこか作り物めいて見える。
「隠し戸棚……カラクリじかけですか。いいですね、そういうのを探すのは好きですよ」
テーブルの向かいに座る少女が、弾んだ声を上げた。
年のころは十代後半。ショートボブの黒髪に、シンプルな長袖のTシャツ姿。こちらは大ぶりなサングラスをかけているが、整った顔立ちは隠しきれていない。暗がりでやや見えにくいものの、鮮やかな褐色の肌が、少女にどこか神秘的な雰囲気をまとわせている。
「いえ、隠し戸棚の場所や開け方は分かってます。わざわざ探していただくにはおよびません」
あっさりと答える老人に、
「……なんだぁ。がっかり」
少女は落胆を隠そうともしない。
低く弾むような音楽が店内に響き始め、ふたりがいるボックス席とは反対側の辺りが明るくなった。あられもないデザインの衣装を身に着けた娘たちがステージに現れ、エキゾチックな音楽に合わせて煽情的な踊りを披露し始める。
老人も少女もステージのほうをちらと一瞥しただけで、それ以上は気にも留めない。いや、少女のほうが、わずかに混ざりたそうな顔を見せたか。
「それで、その隠し戸棚の中には、なにがあるんでしょう」
手もとのカクテルグラスに口をつけ、少女は続きを促す。
彼女の外見は明らかにアルコールを摂取できる年齢のそれではないが、そんな野暮はこの店では言いっこなしである。
「戸を開ければ、すぐ金庫の扉になってます。錠はダイヤル式です」
「おォ、金庫破りですか。そういうのが好きな奴が、ウチにいますよ」
「いえ、ダイヤルの番号は分かってます。金庫破りをしていただくにはおよびません」
「……そこまで分かっておられるなら、ご自分で開けられてはいかがです」
すっかりふてくされた態度で、少女は突き放すように言う。
こんなに感情がいちいち表に出て、果たしてプロの泥棒が務まるのだろうか。要らぬ心配をしてしまうミラー氏である。
「扉の開け方が分かってても、その扉がある部屋に入れなければ、どうしようもありませんよ。ですから、あなた方〈ボトルムーン〉にご依頼しているのです。少々、複雑な事情があるものでしてね」
鷹揚な仕草でミラー氏はワイングラスに手を伸ばす。
「そうですか。まあ、ウチに依頼を持ち込まれる方は皆さん、なにかしら複雑な事情を抱えておられるので、強いてこだわりませんが。で、金庫の中には、なにが入ってるんですか?」
「十カラットのルビーの指輪です」
「ほう」
「〈星の血潮〉と呼ばれる、さる貴族が所有していた由緒ある品です。五十万ポンドはくだらないでしょうな。この〈星の血潮〉を、あなた方に取ってきてほしいのです」
ミラー氏の手もとのグラスで、赤ワインが妖しく揺らめく。
「〈星の血潮〉ですか……それはぜひとも、実物を見てみたいですね。なんだかようやく仕事がしてきたくなってきましたよ」
たちまち機嫌を直す少女に、苦笑を禁じえないミラー氏。
「ありがとうございます。で、いつまでに依頼をこなしてほしいかなんですが……」
それから、ふたりは仕事の期限や料金など、依頼内容の詰めに入った。両者の間でさしたる駆け引きもなく、打ち合わせはものの数分で済む。最後にグラスのワインを飲み干すと、勘定を卓に置いてミラー氏は席を立った。
「では、よろしく頼みましたよ。芸術作品と名高い〈ボトルムーン〉のお手並み、この私にもぜひ見せていただきたい」
「おまかせください。さながら、月を盗み出して瓶詰めにするがごとき華麗なる手際、どうぞ特等席でご覧あれ」
互いに不敵な笑みを交わし、老人はボックス席を立ち去る。ひとり席に残った少女は、自身のグラスを手になおも数分ほど過ごしていたが、やがて名残惜しそうに腰を上げた。
黒革のジャケットに袖を通し、レジカウンターに向かう。ステージ上で踊る娘たちはすでに、そろって一糸まとわぬ姿になっている。
店を出て、地上への階段を上がる。
ソーホーの裏通りは夜闇のとばりに覆われ、死んだように静まり返っていた。淡々とした足取りで通りを歩きながら、少女はスマホを取り出して操作する。
「……あ、もしもし、ヒデト?」
澱んだ路地の闇に不似合いな、明るく快活な少女の声が響き渡る。
「うん……うん、そう、ぶじ依頼を引き受けることになったよ。うん、わたしたちにとっては少々、張り合いのない内容だけどね」
スマホを耳に当てて通話を続けつつ、少女は無造作にもう一方の手を頭頂部の辺りにやる。
次の瞬間、少女のショートボブの黒髪が、すっぽりと取れてしまった。ウィッグをしまい、結んでいた紐をほどくと、闇の中でもなおまばゆいばかりの銀髪が、優雅に流れる。
「……うん、うん。そういうわけで、いつもどおりヒデトにもついてきてもらう。運転手は、シェリファに頼もうかな。さてさて。〈星の血潮〉とやらが果たしていかほどのお宝なのか、わたしたちで確かめてやろうじゃない」
やや不遜ともいえる笑みを口もとに湛え、少女は通話を切る。
スマホをしまいながら、サングラスも外す。折しも路地に射し込んだ月光に、美しい銀色の瞳が炯々と輝く。
少女の名は、ルナ・ウッドワーズ。
世界を股にかける窃盗チーム〈ボトルムーン〉の、若き首魁である。
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