第12話 灯の下
放課後の喧騒が消えた校舎を出ると、空の色はもう藍に近かった。
冷え始めた風が頬を撫で、街の音がゆっくりと戻ってくる。
琥太郎は片手でコンビニの袋を揺らしながら歩いていた。
袋の中では、牛乳と卵、それから安売りだった豚肉がぶつかり合っている。
ポケットの中でスマホが震えた。
画面には「響子」の名前。
“卵、忘れんなよ”の短いメッセージ。
(もう買ってるっつーの)
そう呟いて小さく笑う。
この頃は、笑う理由があれば自分でも驚くようになっていた。
坂道を下りきると、住宅街の明かりがひとつ、またひとつ灯り始めていた。
窓からテレビの音が漏れ、カレーの匂いが漂う。
どの家にも「帰る場所」があるんだな、とぼんやり考える。
自分にも“帰る場所”はある。けれど、少しだけ違う。
古びた二階建てのアパート。階段の鉄柵は少し錆びている。
二〇二号室の表札には、黒いマジックで「皆川家」と書かれていた。
まだそのまま。変える余裕がなかったからだ。
鍵を差し込み、ドアを開ける。
「ただいま」
無意識に口に出たその言葉に、自分でも少し驚く。
この頃は、言葉を省く癖がついていた。
けれど今夜は、なんとなくちゃんと声にしたくなった。
すぐに小さな足音が廊下を駆け抜けてきた。
「おかえり、コタ兄!」
妹の茜が飛びつくように抱きついてきた。
その勢いで袋の中の卵が危うく割れそうになる。
「おい、落ち着けって。危ねぇだろ」
「だって、おなかすいたもん!」
「兄ちゃん! 今日カレー!?」
弟の陸がランドセルを背負ったまま廊下の奥から顔を出す。
「違う。豚汁」
「えー! 昨日も汁だったじゃん!」
「うるせぇ。野菜食え」
ぶつぶつ言いながらも、陸は素直にランドセルを置いて手を洗いに行った。
茜はテーブルの上に置かれたお椀を並べている。
エプロンの紐が背中で少し曲がっているのを見て、琥太郎は無言で直してやった。
「ありがとう」
茜がにっこり笑う。
その笑顔は母親に少し似ていた。
キッチンでは伯母の響子が鍋の蓋を開けていた。
黒髪を後ろでざっくり束ね、白いシャツの袖をまくっている。
腕には小さな火傷の痕。
彼女は数年前、世界を飛び回っていたバーテンダーだ。
今も夜は店を開けている。
夕方から夜中まで働いて、朝方に帰る生活。
琥太郎が家のことを支えるようになったのは、そのリズムのせいでもあった。
「今日、早かったじゃない」
「買い出し、ついで」
「ふうん。……学校の方は?」
「別に。普通」
「“普通”って言葉、あんた口癖ね」
響子が笑う。
「でも“普通”って言えるなら悪くない。波風ないのはいいことよ」
琥太郎は黙ってうなずき、冷蔵庫を開けた。
食材を詰めながら、ふと窓の外に目をやる。
夜の街灯が光の粒を連ねていて、それがやけに綺麗に見えた。
「黎人から聞いたよ」
背中越しに響子の声がする。
「また、風紀の子と会ったって」
琥太郎は動きを止める。
背後の鍋が、ぐつぐつと静かな音を立てた。
「別に……頼まれただけだ」
「黎人が言ってた。“あの子、悪い子じゃなさそうだ”って」
「……別に、悪くねぇよ」
「へぇ。珍しい」
「なにが」
「人のこと、そうやって言うの。あんたが他人を“悪くない”って表現するの、初めて聞いた気がする」
琥太郎は無言で鍋の中を覗いた。
味噌汁の香りが湯気と一緒に立ち上り、窓ガラスを曇らせる。
その曇りに、ぼんやりと自分の顔が映った。
疲れてる。けど――少しだけ、穏やかに見えた。
「……別に、なんもねぇよ」
「ふふ、そう言うと思った」
響子は湯気の向こうで笑った。
その笑顔は、どこか母親の面影を思わせた。
しばらく沈黙が落ちる。
茜と陸の笑い声が居間の方から響いてきた。
テレビの音、小さな咀嚼音。
その全部が、琥太郎の耳には“守らなきゃいけない音”として届いていた。
「……あんた、無理してない?」
「してねぇ」
「高校生が“してねぇ”って言う時点で、だいたい無理してるのよ」
「そういうの、店で客に言ってやれよ」
「客は金払ってるから、説教しても逃げられないのよ」
そう言って響子は笑いながらレンゲを差し出した。
「ほら、味見して」
琥太郎は受け取って一口すする。
「……しょっぱくねぇ?」
「やっぱり。疲れてる証拠だ」
その言葉に、返す言葉を失った。
味噌汁はちゃんとした味だった。
ただ、自分の舌が少し鈍っているのかもしれない。
「琥太郎」
響子の声が、少しだけ優しくなった。
「……ちゃんと笑いな」
「笑う暇なんかねぇよ」
「そう言うと思った」
また、同じ言葉。
けれどその声は、どこか安心しているようにも聞こえた。
湯気の向こう、茜と陸の姿が見える。
兄妹げんかを始めたようで、声が少しだけ大きくなった。
響子がそちらを向き、「はいはい、喧嘩しない」と声をかける。
その隙に、琥太郎は窓辺に寄った。
外はもう夜。
住宅街の屋根を越えて、遠くのビルの明かりが見える。
風がカーテンを揺らし、ほのかにインクのような匂いがした。
ふと、思い出す。
朝の準備室の匂い――朱肉の匂いと紙の擦れる音。
そして、彼女の髪がかすかに揺れた瞬間の光。
「……皆川」
名前を小さく口の中で転がす。
自分でも驚くくらい自然に出てきた。
“誰かが見ててくれた方が助かる”――黎人の言葉が脳裏に浮かぶ。
誰かが見ていてくれる、それだけで少し気が緩む。
今まで、そんな存在はいなかった。
でも――あの目を思い出すと、不思議と息が楽になる気がした。
「兄ちゃん、早くー!」
陸の声が飛ぶ。
「今行く」
琥太郎は返事をして、振り返った。
響子が笑いながら皿を並べている。
茜がスプーンを手に持って踊っている。
陸はテレビのリモコンを奪い合っていた。
騒がしいのに、どこか安心する音。
この音を守るために、自分は立っている――
そう思った瞬間、少しだけ肩の力が抜けた。
窓の外では、街灯がひとつまたひとつ灯り始めていた。
その光の点が、まるでどこか遠くにいる“誰か”の灯りのように見えた。
小さな湯気が頬を撫で、
その温度の中に、昼間の彼女の微笑みが一瞬だけ重なった。
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