第10話 風紀が霞む日常

放課後の準備室は、昼の喧騒を忘れたように静かだった。

外では部活の掛け声が響いているけれど、ここだけ時間の流れが遅い。


真白は机の上に広げた書類を何度も並べ直していた。

理由はひとつ。落ち着かない。


(べ、別に意識してるわけじゃない。あれは事故。完全に事故。机の角が悪いだけ)


自分に言い聞かせながら、ファイルを何度も閉じたり開いたり。

ペンを手にしては、書こうとして止まり、またため息。


(でも……近かったなぁ……)


頭の中でリピートされる「頬の距離」。

思い出すたびに顔が熱を持ち、手元のボールペンを無意味にカチカチさせる。


「……落ち着け、皆川真白。風紀委員長だよあなたは」

小声で自分にツッコミを入れる。

そのとき、廊下の方から足音が聞こえた。


「っ……!」

一瞬で背筋が伸びる。

足音のリズム、覚えがある。


――琥太郎。


扉の前で立ち止まる気配。

ノックもなしに、ゆっくりと引き戸が開いた。


「……来た」

(あ、違う! 声に出てた!?)


琥太郎が一瞬だけ眉をひそめる。

「……呼んだか?」


「い、いえ! えっと、呼んで……ました」


(違う! 言ってること矛盾してる!)


琥太郎は「ふーん」とだけ言って、机の横に立った。

制服の袖口を軽くまくって、何気なく視線を落とす。


「で、話って?」


その声の低さにまた心臓が跳ねる。

落ち着け、落ち着け。

朝のことを蒸し返すわけにはいかない。

それなのに、頭の中では“あの距離”の再生が止まらない。


「……あの、その、朝は……」


「朝?」


「っ、いや! その、黎人先輩に頼まれてた件の……確認です!」

言いながら、頭の中では(ナイス反射神経!)と自分を褒めた。


琥太郎は少し目を細めた。

「別に確認いらねーだろ。ちゃんと渡したし」


「そ、そうですよね! 確認完了です!」


会話が秒で終わってしまった。

(ちがう、そうじゃない……!)


沈黙。

空気が妙に甘く重い。

何か言わなきゃと焦った真白は、なぜか全く関係ない話題を口走った。


「琥太郎くんって、いつも……洗剤、何使ってるんですか?」


「……は?」


「ちがっ……! えっと! 制服の! ほら! すごく清潔感があるから!」


(やめてぇぇぇぇ!!)


琥太郎はぽかんとした顔のまま、少しだけ口元を緩めた。

「……普通の。家のやつ」


「そ、そうなんですねっ」


「ていうか、それ聞く?」


「すみませんでしたぁぁ……!」


両手で顔を覆う。耳まで真っ赤。

頭の中で「風紀委員長の威厳」という単語が粉々に砕けていく。


琥太郎は少しだけ肩を震わせていた。

笑っている。

あの不器用な琥太郎が、静かに笑っている。


(え……笑ってる?)


驚いて顔を上げると、彼はすぐに表情を戻した。

「別に笑ってねえし」


「笑いました!」


「笑ってねえ」


「今、口角、上がりました!」


「……委員長って、意外としつこいな」


「風紀委員ですから!」


思わず言い返した自分に、もう一度笑いがこぼれそうになる。

二人の間に、今朝にはなかった柔らかい空気が流れていた。


沈黙が、もう怖くなかった。

机に差す夕日が琥太郎の横顔を照らす。

光の粒が制服の肩に落ちて、橙に揺れた。


真白はペンを握り直し、意を決して口を開く。


「……その。これからも……お願いしてもいいですか」


「……何を」


「風紀のお手伝い。とか……その、配布物とか。黎人先輩の頼みがなくても」


琥太郎は少しだけ考えてから、短く頷いた。

「……気が向いたら」


それだけの返事なのに、真白の胸はいっぱいになった。

気が向いたら――その一言が、彼にしては十分すぎる約束に思えた。


外の校庭では、部活の笛の音が鳴り響く。

準備室の中には、静かな笑い声と、

壊れそうなほどやさしい余韻だけが残っていた。

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