第7話 帰り道、夕暮れ、そして枕を叩く

校門を出ると、春の夕暮れが街を丸ごとオレンジで包んでいた。

道路標識の金属、信号の柱、並木の若い葉――どれもが柔らかい光を反射して薄く輝いている。

風が一度ふっと頬を撫でる。甘いパンの匂いと、遠くの唐揚げ屋の油の匂いが混ざって鼻先をかすめた。


腕章を外して四つ折りにし、鞄の内ポケットにしまう。

やり切った、はずだ。今日も風紀としての予定は全部こなした。

なのに胸の奥は落ち着かない。昼間に自分で付け足した“四行目”――

(放っておけない)

という言葉が、心臓の裏側でまだ小さく脈打っている。


(誰に、向けた言葉なんだろう)


自分に問いを投げたその時、視界の端で人だかりが弾けて道が開いた。

スーパーの看板の下、透明な自動ドアの向こう側に見慣れた背中がある。

足が止まる。息が止まる。脳内の時間だけが、少し遅れて流れる。


コタ――琥太郎。

両腕に、膨らんだレジ袋を三つ。袋の透明が夕日を透かして、オレンジの果物みたいに光っていた。

隣には美鈴。スマホを片手に、小袋をぶら下げ、にかっと笑っている。

二人の影が、スーパーの出入り口から歩道に長く伸びた。


「それ、重くない? てかさ、もう一個買い足すって言ったらキレる?」


「キレねえけど。……牛乳は一日一本までな」


「えー? うち今日プリン作るんだってばー!」


「おまえんちのプリン事情なんか知るか」


「じゃ、チョコプリンはコタんちの弟くん用ね。ハイ決定!」


「勝手に決めんな」


やり取りのテンポが良すぎて、胸の奥がちくりと刺さった。

真白は咄嗟に電柱の影へ身をよける。

透明ガラスの向こうを人が行き交い、買い物カゴが床を滑る乾いた音が聞こえる。

夕焼けの薄い金が、レシートの白、卵パックの透明、バナナの黄色――ひとつひとつへ不思議な艶を足していく。


(……仲、いい)


口の中が少しだけ渇く。

止める理由はどこにもない。私用の買い物だし、風紀委員の仕事ではない。

それでも視線は、二人の背中に吸い寄せられたまま離れない。


一方———


「……人使い荒ぇな」


琥太郎はブツブツ言いつつ袋を持ち替える。

持ち手が腕に食い込んで少し痛い。けど筋肉が覚えてる。家でこのくらいは毎日だ。

氷の入った袋の冷たさが皮膚に移って、火照った掌の熱を奪っていく。


(美鈴は悪い奴じゃねえし、頼まれたら断れねえのは……まあ、俺の悪い癖だ)


曲がり角、信号待ち。

ふと、昨日の準備室が胸の裏から顔を出す。

赤ペンのキャップを回す音。紙が擦れる音。

「ここ、読点」って、静かに言われた声。

あのとき――視線が合った。

妙にまっすぐで、逃げ場がなくて。けど、嫌じゃなかった。


(……続けてること、もし委員長にバレたらなんて言うだろ。いや、バレるもんでもねえけど)


信号が青になった。

歩き出すとき、背中の方が少し気になる。

視線、とまではいかない。風の向きか、雑音の割れ方か。

(……見られてる?)

思考がそこまで行って、首の動きを止める。振り返らない。

振り返ったら、何かが“確定”しそうで。


「コター、卵割れないようにね? 今日うちプリンなんだから」


「卵はお前が持て。責任者」


「じゃ、アイスはコタの家の冷凍庫! 弟くんが喜ぶやつ買ってくよ」


「俺んちの冷凍庫を勝手に決めんな」


口ではそう言いつつ、袋の配置を自然と組み替える。

割れ物と硬い缶を離し、牛乳パックを縦に固定、肉と冷凍を近づける。

やり慣れた手つきに、美鈴が「慣れてるぅ」と笑う。

ほっとけ、とだけ返す。

ほんとは、少し照れくさい。


そのやりとりを、

真白は手のつけられない感情と戦いながら、

横断歩道の白が、夕日に照らされて淡く発光しているようすの中で見守っていた。


二人が並んで渡るたび、白の上に黒い足跡が交互に刻まれるみたいに見える。

美鈴のスニーカー。コタの黒いローファー。

歩幅。歩調。呼吸。

重なったり、ずれたり。

映画の、ワンシーンのように綺麗で、半分くらい羨ましい。


(……羨ましい? 私が?)


自分の内側のその言葉に、自分で驚く。

胸の真ん中が、ちいさく縮む。

指先が、無意味に鞄の持ち手を摘んで、また離す。

そんな癖、いま初めて知った。


「委員長?」


背後で一年生女子が声をかけて通り過ぎる。

「お疲れさまです」と会釈をして、すれ違う。

普段ならにこりと笑って返すのに、今日はうまく笑えない。


(止める理由はない。仕事じゃない。――けど)


けど、の先が霞む。

心に手を伸ばすと、するりと逃げる。

風紀委員としての言葉は、こういうとき頼りない。


痛感した———


琥太郎の持つスーパーの袋が掌で汗ばんだのが、持ち手が少しだけ滑るのが遠目に見えた。



琥太郎は———、

指先を変えて握り直す。

紙袋の角が手首に当たって、そこだけひんやりする。

肉のトレーの冷たさ、砂糖の袋の柔い弾力、牛乳パックの四角――

種類の違う“重さ”が身体に語ってくる。

(帰ったら、冷蔵庫の上段は空けとかなきゃな。魚は一番低い段。弁当の準備……今日の晩はどうすっか)


頭の端に、弟と妹の顔が浮かぶ。

宿題のプリント。折り紙。リビングの端っこに積まれた教科書。

帰ってきて「兄ちゃん」と言われる瞬間の、あの、面倒くさくて、嬉しい感じ。

その手前に――

準備室の白い光。

「受理します」って言って、印鑑を押す音。

あの人の、まっすぐな声。


(……見られてたら、やだな。いや、やじゃない、のか?)


自分でもうまく言えない感覚に、舌打ちを飲み込む。

美鈴が前方を指さした。


「コタ、角の店でもう一回だけ寄っていい?」


「“だけ”じゃねえだろ。袋的に限界」


「じゃ、これ持ってもらうから」


「だから限界だっての」


限界、と言いながら、腕は自然と美鈴の袋を受け取っている。

そういう自分の性格は、嫌いではない。

けど、これが目立つのは少し困る。

(――委員長の前では、できるだけ大人しくしてたいんだけどな)


なぜか、琥太郎は真白の顔を思い浮かべていた。


———


商店街のショーウィンドウに映った自分の顔が、

不満げに歪むのを真白は目撃した。


口の形が、言葉にならない言葉を作ってはほどける。


すれ違う人の笑い声、ガチャガチャと回るカプセルトイの音、

路地から抜ける自転車のベルの音。

音が多すぎて、胸の音が余計に大きくなる。

その大きさを誤魔化すみたいに、頭の中で“チェックリスト”を並べてみる。


――今日は巡回済み。

――配布物の仕分け完了。

――回収箱、交換済み。

――忘れ物、なし。


(……仕事は、終わってる)


終わっているのに、足が止まる。

目の前で、美鈴がコタの腕を軽く突つく。

笑い声。肩。距離。

近い。

近いと、思った瞬間、喉が渇く。


(私が近づいたとき――どう見えるんだろう)


昨日、準備室の棚に追い込まれた“ゼロセンチ”の事故みたいな距離。

あの距離を思い出すと、胸の奥がまた熱くなる。

忘れたいのに、忘れられない。

忘れたくない、とも思っている。


———


角を曲がると、風の匂いが変わった。

パン屋の甘い匂いから、魚屋の塩っぽい匂いへ。

鼻の奥がむずむずする。

美鈴が鼻を押さえて笑った。


「魚屋だ。今日サバ安いって!」


「骨取んの誰だと思ってんだ」


「コタでしょ? 手先器用なんだから」


「褒めてもやらねぇ」


言いながら、頭の中で包丁の角度を計算している自分がいる。

骨の位置、皮の引き方。

(帰ったら、味噌は薄めで――)

思考が家路に滑り出した時、不意に背中がぞわりとした。

視線、まではいかない。

けど、記憶が背中を軽く叩く。

準備室でのあの視線。

近くて、逃げなくて、ちゃんと見てくる目。

(……見られてる、か? いや、気のせい、だろ)


振り向かないで済むように、わざと前だけを見る。

目の前の信号が、黄色に変わる。

足を速める。

卵が割れないように、腕の角度だけ微調整する。

体は、余計なことをしないで目的だけを遂行するのが得意だ。

心は、そういうふうにできてない。


———


「――お疲れさまです!」


部活帰りの一年生たちが元気な声で挨拶をして、駆け抜けていく。

その声に紛れて、美鈴の笑い声が少し遠のいた。

コタの低い返事が、その半歩後ろを追いかける。

二人の歩幅が、時々合って、時々ずれる。

合うたびに、胸の奥がわずかに脈を打つ。

ずれるたびに、ほっとする。

それを何度か、繰り返す。


(……こうして私は、何をしてるんだろう)


自分に聞いてみる。

答えは、出ない。

“見守る”という言葉を私は簡単に使うけれど、いまのこれは見守りなのか、覗き込みなのか。

線は、どこに引けばいいのか。

昼間に黎人先輩が言っていた。「線を引くのも大事だけど、たまには引かない場所も決める」。

引かない、って難しい。

引かないまま立っていると、風で心が揺れるから。


(――心が揺れたら、深呼吸)


無意識に、胸いっぱいに空気を入れて、ゆっくり吐く。

吐くたびに、さっきの妄想の尖った角が少しだけ丸くなる。

でも、消えはしない。

残る。

残って、私の輪郭を、少しだけ増やす。


———


「コタ、次、ドラッグストア寄っていい?」


「……“だけ”って言った回数、今日で三回な」


「じゃ、四回目いこ!」


「……」


短い沈黙。

その沈黙に、自分の呼吸の速度が少しだけ早くなるのを感じる。

美鈴はこういう時、必ず笑ってくれるから助かる。

からかわれているのは分かっているが、からかい方が下手じゃない。

不思議と、嫌じゃない。

けど――その笑い声が、別の誰かの耳に入ることを想像すると、胸がかすかにさざめく。


(……委員長に、聞かれてねえだろな)


名前を心の中で出して、すぐに引っ込める。

引っ込めた癖に、その名前の形だけが、口の内側に残る。

舌先で確かめたくなる。

甘いでも苦いでもない、まだよく分からない味。



黄昏の端っこ———


二人が角のドラッグストアに入っていく。

自動ドアが開く音。

柔軟剤の甘い匂いが漏れ出して、夕暮れの空気に薄く滲む。

入口の円形カゴにはティッシュの“お一人様二点まで”の札。

美鈴がカゴを押して、コタが袋を持ったまま店内へ。

きっと、歯ブラシ、洗剤、絆創膏、そんなものを買うだろう。

生活の音。

そういう音が、似合う人だ。


(……私、何してるの)


呟いて、足を半歩下げる。

ここに立っていた何分かが、突然まるごと恥ずかしくなる。

でも同時に“ここに立っていた自分”が、少しだけ愛おしい。

その二つを同時に抱えるのは、案外難しくない。

人は面倒なことを、同時にできるようにできている。


(帰ろう)


小さく頷いて、背を向ける。

私は私の帰り道へ戻る。

夕焼けのオレンジが、電線を細い五線譜みたいに染めていた。

私の今日のメロディは、少し早口で、ちょっとだけ転びそうだ。



薄暗がりの横顔———


ドラッグストアを出ると、空の色がさっきより一段、深くなっていた。

街灯がぱち、ぱち、と順に点く音がする。

袋が増えた。腕がちぎれそうだ。

美鈴が「ごめんってー!」と笑いながら、オレンジ色のアメをひとつ差し出す。


「おつかれ賞」


「いらね」


そう言いつつ、アメはポケットに入った。

舌打ちはしなかった。

ポケットのアメの重さが、ほんの少しだけ心の右側をあたためる。


(……戻るか)


家へ向かって歩き出す。

美鈴と別れる角で手を軽く上げる。

「また明日ねー!」

彼女の声が軽い。

たぶん、風みたいに軽い。

俺は風を掴めない。

掴めないから、前だけ見て歩く。

けど――風の向こうで、誰かが立っていたかもしれない跡を、靴の裏が確かに踏んだ気がした。


(……委員長)


名前を、今度は引っ込めなかった。

口には出さないけれど、胸の中で、その音はちゃんと鳴った。

低くて小さい音。

けれど、消えない音。



———


「――な、な、なんなのあれはぁぁ!」


帰宅して自室のドアを閉めた瞬間、真白はベッドに頭から突っ込んだ。

反動でマットがきしむ。

鞄は部屋の隅に放物線を描き、床にふにゃりと着地。

片手で枕、もう片手で掛け布団を鷲掴みにして、ゴロゴロと何周も転がる。


脳内では、スーパー前の二人がリピート再生されている。

――『プリン! 弟くん用!』

――『勝手に決めんな』

――肩がほんの少し、ぶつかりそうになる距離感。

――袋を持ち直す、あの無駄のない手つき。

――笑いながら、でもどこか不器用さが滲む口元。


「ちょ、近い! 距離! 距離感って学ばなかったの!? いや学ぶ授業はないけど!!」


枕をバシバシ叩く。

頬が熱い。耳まで熱い。

体温で枕が温まって、更に熱い。

やけになって天井をにらむ。

天井は、白くて、何も言わない。


「べ、別に! 嫉妬とかじゃないし! 私はただ、風紀として、あの……あの……!」


言葉が途中で融ける。

“風紀として”は、今日ばかりは頼りにならない。

代わりに、胸の内の紙に、こっそり書き足す。


――五、夕焼けの下では、素直になる。

――六、布団の中では、嘘をつかない。


「……嘘ついてないし!」


一人で反論して、一人で赤くなる。

さらに布団にもぐり、声を小さくして続ける。


「そもそも、私には私だけの……その……」


その、の先に、白い準備室の匂いがふっと香る。

赤ペンのキャップを回した音。

小さな、でも確かな約束。

誰にも言っていない。言えない。

(続けてるの、かな)

思った瞬間、胸の真ん中がくすぐったくなった。


「……つづ、け……(やめて恥ずかしい!)」


布団の中で足をばたつかせる。

まるで見えない敵と戦う体勢のまま、深呼吸を何度も繰り返す。

落ち着け。落ち着け。

“心が揺れたら、深呼吸”。

息を吐くたび、今日見た景色の輪郭が丸くなる。

それでも消えない“熱”だけが、胸にランプのように灯ったままだ。


「……よし。次は、ちゃんと話す。逃げない」


枕に向かって小さく宣言し、枕が「了解」と頷いた気がして、慌てて首を振る。

自分で自分に苦笑して、やっと口元がゆるむ。

スマホの時計は、思ったよりも進んでいた。

通知欄には、風紀のグループから「明日の巡回の割り振り」。

返信を打つ指が、いつもより少し軽い。

“了解。明日は私が南校舎の二階を見ます”

送信。

送信音が部屋にぽつんと鳴って、静けさが戻る。


「……おやすみ」


天井はやっぱり何も言わない。

でも、どこかで、今日の夕焼けのオレンジが、まだ薄く残っている気がした。

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