第4話 盤上の駒

「高橋……? なぜ、お前が……」

拓也の声は、かすかに震えていた。目の前にいるのは、いつもゼミの隅で発言もせず、存在感の薄かったはずの男。その男が、今は不気味な笑みを浮かべ、全てを見通したような目で自分を見下ろしている。

「なぜ、だって? それは君が、最高の“作品”だからだよ」

高橋は、うっとりとした表情で言った。彼の声は、普段の気弱なそれとは違い、妙な熱を帯びていた。

「あの本、『爆弾の作り方』は、僕が書いたんだ。いや、正確には、僕の師が書いたものを、僕が完成させた」

「師……?」

「そう。彼は、人間の精神が崩壊していく様を観察することを、至上の芸術だと考えていた。そして、そのための最適なツールとして、あの本を生み出した。僕は、彼の後継者だ」

高橋の言葉は、拓也の理解を遥かに超えていた。この男は、狂っている。

「君を古本屋に誘導したのも、僕だ。君がSNSで退屈を嘆いているのを見て、すぐにわかったよ。君は、最高の被験者になる、とね。君は、僕の予想通り、実に素直に、そして見事に、僕のシナリオ通りに動いてくれた。田中誠、鈴木健太……彼らは君という爆弾の性能を試すための、ただの実験台さ」

拓也が他人に行ったつもりの「実験」は、すべて高橋によって仕組まれたものだった。拓也が感じていた監視の視線も、部屋で起きた不可解な現象も、すべては高橋が、拓也の精神を揺さぶるために仕掛けた演出だったのだ。拓也は、自分がゲームのプレイヤーだと思い込んでいたが、実際は、高橋という狂気の芸術家が作った盤の上で踊らされている、哀れな駒に過ぎなかった。

「僕の日記に書いてあっただろう? 次の駒は伊藤雄大だ。君は、彼を排除して、佐々木美咲を完全に自分のものにしようとしている。違うかい?」

高橋は、拓也の心を見透かすように言った。

「だが、それは許さない。美咲は、この物語のヒロインだ。そして、ヒロインには悲劇がよく似合う」

その言葉の意味を理解する前に、高橋はポケットからスマートフォンを取り出し、誰かに電話をかけた。

「もしもし、伊藤くんかい? 君がストーキングしている佐々木美咲さん、今、大学の西門近くの公園に一人でいるよ。君の想いを伝える、最後のチャンスじゃないかな。彼女、最近、木村拓也って男といい感じらしいからね。早くしないと、取られちゃうよ」

電話の向こうで、伊藤雄大の興奮したような声が微かに聞こえる。拓也は、血の気が引くのを感じた。伊藤は、美咲に対して異常な執着を見せていると噂の男だった。拓也がライバルを排除する過程で、伊藤の歪んだ好意をさらに煽るような情報を匿名で流していたのだ。高橋は、それすらも利用しようとしていた。

「やめろ……! 何をする気だ!」

拓也は叫び、高橋に掴みかかろうとした。しかし、高橋は軽々とそれをかわし、冷たく言い放った。

「これがクライマックスだよ、木村くん。君が仕掛けた小さな爆弾たちが、今、連鎖的に爆発する。そして、その爆発の中心で、君自身が、最も美しい芸術作品として完成するんだ」

拓也は、高橋を振り払い、公園へと全力で走り出した。美咲が危ない。自分が蒔いた種が、最悪の形で実を結ぼうとしている。罪悪感と焦燥感が、心臓を鷲掴みにする。

公園にたどり着いた時、拓也は信じられない光景を目にした。

ベンチに座っていた美咲に、伊藤が刃物を突きつけていたのだ。伊藤の目は血走り、常軌を逸している。

「なんで俺じゃダメなんだ! あの木村ってやつのどこがいいんだよ!」

「やめて……! 誰か、助けて!」

美咲の悲鳴が、夕暮れの公園に響き渡る。拓也は、足がすくんで動けなかった。自分が、この状況を作り出したのだ。自分の身勝手な欲望が、美咲を危険に晒している。

「僕のせいだ……僕のせいで……」

その時、茂みの影から、高橋がゆっくりと姿を現した。彼は、まるで映画監督が撮影現場を眺めるかのように、満足げな表情でその光景を眺めている。

「素晴らしい……! 最高の表情だ、木村くん! 絶望、後悔、無力感! それこそが、僕の見たかった君の姿だ!」

高橋の狂気的な笑い声が、拓也の耳に突き刺さる。そして、高橋は信じられない行動に出た。彼は、隠し持っていたスタンガンを取り出し、興奮している伊藤の背後から、容赦なくその身体に押し当てたのだ。

悲鳴を上げて倒れる伊藤。解放された美咲は、その場にへたり込んだ。

拓也は、何が起きたのか理解できなかった。高橋が、美咲を助けた?

高橋は、倒れている伊藤を一瞥すると、拓也に向かって歩み寄ってきた。そして、彼の耳元で、悪魔のように囁いた。

「これで、君はヒーローだ。ストーカーから彼女を救った、勇敢な騎士。彼女は、君に心酔するだろう。そして君は、罪悪感を抱えたまま、彼女と結ばれることになる。これ以上の“心理的爆弾”はないだろう?」

拓也は、全身の力が抜けていくのを感じた。高橋の計画は、あまりにも悪質で、あまりにも完璧だった。彼は、拓也を破滅させるのではなく、一生消えない罪の意識という名の爆弾を、その心に埋め込もうとしていたのだ。

遠くから、パトカーのサイレンが聞こえてくる。高橋が呼んだのだろう。

「さあ、ショーの終わりだ。あとは、警察にうまく説明するんだよ。君は、何も知らなかった。ただ、彼女を助けようとしただけだ、とね」

高橋はそう言い残し、闇に紛れて姿を消した。

残されたのは、泣きじゃくる美咲と、倒れている伊藤、そして、自分の罪の重さに打ちひしがれる拓也だけだった。彼は、自分が手にした本が、ただの「爆弾の作り方」ではなく、自分自身を爆弾にするための設計図であったことを、この時、ようやく悟ったのだった。

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