第2話 歪んだ万能感


田中誠を社会的に抹殺した成功体験は、拓也の心に麻薬のような中毒性をもたらした。彼はもはや、以前の無気力な青年ではなかった。世界は、彼が仕掛けるゲームの盤上となり、人々は彼の意のままに動かせる駒に見え始めていた。万能感。それは、彼の行動をさらに大胆に、そして残酷にエスカレートさせていく。

次のターゲットは、すぐに決まった。大学の映画サークルに所属する、鈴木健太。彼は、サークルのリーダー的存在で、自己主張が強く、しばしば拓也のような物静かなメンバーを軽んじる言動があった。特に拓也は、鈴木が自分が提出した脚本のアイデアを盗用し、自分の手柄として発表したことに、深い恨みを抱いていた。

「あいつのプライドを、ズタズタにしてやる」

拓也は、再び『爆弾の作り方』を開いた。

『標的の最も価値を置くものを特定せよ。名誉、プライド、人間関係。それこそが、心理的爆弾を仕掛けるべき最も効果的な場所である』

鈴木にとって最も価値のあるもの。それは、サークル内での評価と、映画監督になるという夢だった。拓也の計画は、その二つを同時に破壊することだった。

まず、拓也は鈴木のPCにハッキングを試みた。本に書かれていた簡単なソーシャルエンジニアリングの手法を使い、鈴木のパスワードを特定するのは、驚くほど簡単だった。鈴木のPC内には、彼が制作中の自主映画のデータや、次回作の脚本が保存されていた。拓也は、それらのデータを巧妙に、少しずつ破損させていった。ファイルが開けなくなったり、一部のシーンが消えていたり。鈴木は、原因不明のデータ破損に頭を抱え、次第に焦燥感を募らせていった。

同時に、拓也はサークル内に不和の種を蒔いた。匿名のアカウントを使い、複数のサークルメンバーに、鈴木が彼らの悪口を言っていたかのような偽のメッセージを送りつけた。

『鈴木が言ってたけど、お前のカメラワーク、センスないってさ』

『鈴木、お前の演技のこと、大根役者だって笑ってたぞ』

疑念の種は、瞬く間にサークル内に広がった。メンバーたちは鈴木に対して不信感を抱き始め、サークルの雰囲気は急速に悪化していく。鈴木は、データ破損と人間関係の悪化という二重のストレスに苛まれ、リーダーとしての求心力を失っていった。彼のプライドは、日に日に削り取られていった。

そして、拓也は決定的な一撃を放つ。鈴木がコンクールに応募しようとしていた自主映画の完成データを、応募締切日の前夜に、完全に消去したのだ。さらに、バックアップデータも全て破壊した。

翌日、サークル室で自分のPCの前で呆然と座り込む鈴木の姿があった。彼の顔は絶望に染まっていた。仲間だと思っていたメンバーは、冷たい視線を送るだけ。彼の夢と、彼が築き上げてきた場所は、一夜にして瓦礫の山と化した。数日後、鈴木は大学を休学し、実家に引きこもってしまったという噂が流れた。

拓也は、その噂を聞いても、もはや何の感情も動かなかった。罪悪感など、微塵も感じない。あるのはただ、計画が完璧に遂行されたことへの満足感と、自分の力を再確認できたことへの陶酔だけだった。

彼の日常は、劇的に変わった。以前の彼を知る人間が見れば、別人だと思うだろう。自信なさげに俯きがちだった姿勢は、胸を張った堂々としたものに変わった。彼の目には、他人を見下すような、冷たい光が宿っていた。

しかし、彼の歪んだ万能感は、さらなる領域へと踏み込んでいく。それは、恋愛感情という、最もコントロールが難しいとされる人間の感情への挑戦だった。

彼の視線の先にいたのは、同じ講義を受けている佐々木美咲だった。明るく、誰にでも分け隔てなく接する彼女は、拓也にとって高嶺の花だった。以前の彼なら、話しかけることすらできなかっただろう。だが、今の彼は違う。

「彼女も、僕のものにできる」

拓也は、美咲を手に入れるための「ゲーム」を開始した。しかし、今回はこれまでとはアプローチが違った。破壊ではなく、構築。彼女の心を、自分に向けさせるための心理操作。

彼はまず、美咲の周囲にいるライバルとなりそうな男たちを、巧妙な手口で排除していった。ある男には、彼が他の女性と遊んでいるという偽の情報を美咲の友人に流し、評判を落とさせた。また別の男には、ストーカーのような嫌がらせを匿名で行い、美咲に近づけないようにした。

そして、美咲が人間関係に悩み、孤立し始めたタイミングで、拓也は「偶然」を装って彼女に近づいた。「大丈夫?」と優しく声をかけ、親身に相談に乗る。彼は、事前に収集した情報から、美咲が好みそうな言葉を選び、理想の男性像を演じた。傷心していた美咲は、優しく知的な拓也に、次第に心を開いていった。

計画は順調に進んでいるように見えた。美咲は拓也に好意を抱き始め、二人はデートを重ねるようになった。拓也は、自分の思い通りに人の心を操れることに、極上の喜びを感じていた。美咲の笑顔を見るたびに、それは自分が作り出した芸術作品のように思えた。

だが、その頃からだった。拓也の周囲で、奇妙な出来事が起こり始めたのは。

深夜、自室でPCに向かっていると、背後に誰かの気配を感じる。振り返っても、誰もいない。しかし、確かに見られているという感覚が、肌にまとわりつくように離れない。部屋に置いてある物の位置が、自分が置いた場所から僅かにずれていることがあった。PCのデータフォルダに、自分が見覚えのないファイルが作成され、すぐに消去されていることもあった。

最初は気のせいだと思っていた。しかし、不可解な現象は続いた。ある日、彼のスマートフォンに、非通知設定で一通のメッセージが届いた。

『ゲームは楽しいかい?』

心臓が氷水で冷やされたように凍りついた。誰だ? 田中か? 鈴木か? いや、彼らにこんなことができるはずがない。拓也は、自分が獲物だと思っていたゲームの盤上で、いつの間にか自分自身が誰かの駒になっていたのではないかという、漠然とした恐怖に襲われ始めた。

歪んだ万能感に満たされていた彼の心に、初めて亀裂が入った瞬間だった。彼はまだ、その視線の主が、自分の想像を遥かに超える、底知れない悪意を持った存在であることに、気づいていなかった。ゲームの本当のプレイヤーは、拓也ではなかったのだ。

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