昨夜の姫は綺麗だった。

yasuo

昨夜の姫は綺麗だった。

「何かやり残したことあるか?」


そんな言葉が口から溢れていた。

行ってしまってから、しまったと思った。

聞くべきではなかったかもしれない。


病室のベッドに横たわる少女は少し驚くように目を輝かせ、それから視線を窓の外に移した。

夕方の、少し染まった空を眺む。

そして少女は口を小さく開いた。


「……海を見たい。」


静かな声だった。

それはあまりに唐突で、それでいて真剣だった。


俺は思わず聞き返してしまった。

「海……?」


少女はこちらを向いて微笑みながら、ゆっくりと頷いた。

「最後に……一度でいいから、海を見たい。」


最後。

その言葉は、とても重みがあり、胸の奥を締め付けた。余命の話を聞いてから、ずっと、避けてきた言葉だった。

耳を塞ぎ、見ないふりをしてきた現実だった。


それでも彼女はあっけらかんと告げた。

まるで、海を見ることが当然の願いであるかのように。


小さく息を吸い込み、そして笑みをつくった。

「わかった。行こう、絶対に。一緒に海に。」


少女は少しだけ目を細めて、笑った。

その笑顔はどこか子供っぽさを残しながらも、大人びた気配を漂わせていて、15歳の彼女は、いまたしかに、俺の知らない表情を見せていた。


その夜、俺は彼女の手を握りながら、胸の奥で密かに誓った。

必ず、この願いを叶えると。




数日後、再び少女のいる病室へ訪れていた。

彼女は病室で小さなノートを取り出した。

そんな何気ないノートの表紙には


『やりたいことノート』


と書いてあった。


小さなノートであるけれど、重みがあった。


「ねえ、見てほしいものがあるの」

彼女は少し照れたように笑った。

手を差し出して、ノートを俺のほうへ押し出す。


俺はそっと受け取り、表紙をめくった。

そこには、ぎこちない丸文字で、箇条書きが並んでいた。




・海を見たい


・夜通し星を眺めたい


・好きなものをお腹いっぱい食べたい


・幼い頃に遊んだ川辺にもう一度行きたい


・きれいなドレスを着たい




俺はひとつずつ目で追った。

どれも、ありふれた願いだ。

誰でも思いつきそうな、子供らしい小さな夢ばかりだ。

しかし、ページをめくる指先がわずかに震えている。

その震えが、願いが叶わないかもしれないことを、無言で語っていた。



「簡単なことばかりじゃん」

つい口に出してしまう。

彼女は目をまるくして俺を見上げる。

「簡単かな……?」

「いや、やるって言ったからには必ずやるさ」

俺は胸を張った。

けれど心の奥では、胸がきりきりと痛んでいた。

簡単に叶うことなんて一つもないのだ。


彼女はしばらく黙ってノートを見つめていた。

そして、ひとつずつ項目について思い出話を始めた。


「海はね、子供の頃にパパと行ったんだけど……覚えてる?」


「うん、覚えてるよ。波に足を取られて転んだよな」


「そうそう、それで砂だらけになって……でも楽しかったの」


目を細めて笑う。

その笑顔は、幼さと大人びたものが混じっていて、眩しくもあり、儚くもある。



「夜通し星を眺めたいのはね、あのときの流星群をもう一度見たいから」


「懐かしいな……あの日は寒かったな」

8年ほど前の冬の季節、流星群の日。両家で山奥の別荘を借りて星を見に行った。


「寒かったけど、あの星空は忘れられないの」


少女の瞳がキラキラと光る。

手を伸ばして、触れられるものなら掴みたくなるほどの光だった。


「好きなものをお腹いっぱい食べたいのは……いつも我慢ばかりしてるから」


「我慢なんてしてないだろ?」


「ううん……病気になると、好きなものを好きなだけ食べられないでしょ」


「そうか……」


俺は胸の奥が締めつけられる思いだった。

願いを叶えることが、どれだけ貴重なことかを改めて思い知らされる。


そして彼女は、最後の項目に小さなため息をついた。


「きれいなドレスを着たい」


「ドレス……」


その一言に、俺の心臓が強く打った。


「海も星も、お腹いっぱいのご飯もいい。でもドレスは……特別なんだな」


彼女は小さく頷く。

「うん、ずっと憧れてたの」


俺は笑いながらノートを閉じた。

「全部、叶えよう。俺が一緒にやる」


彼女は目を見開き、それから小さくうなずく。


「本当に……?」

「ああ、本当だ」


俺は胸の奥で誓った。

一つずつ、この願いを叶えていく……それが、俺にできる唯一のことだと。


ノートを机に置くと、彼女は目を細めてにっこり笑った。


「ありがとう。……嬉しい」


その声が、部屋の空気をふんわりと温める。

俺はその声を忘れないだろう。


そして、ノートのページをそっと閉じると、ふたりの間に静かな時間が流れた。

言葉はなくても、互いに心の中で約束を交わしているようだった。




週末の空は、透き通るように青く、雲ひとつない快晴だった。

病院で窓の外を見ていた彼女は、朝からそわそわしている。


「今日は……海に行くんだよね?」


小さな声で、確かめるように言った。


俺は笑って頷く。


「そうだ、約束通り行こう」


車に乗せると、彼女は窓の外の景色をじっと見つめた。

通り過ぎる街路樹の緑や、並ぶ家々の屋根の色に、小さく反応して手を伸ばしそうになる仕草。

「……見て、あの花きれい」

「うん、春だな」

会話は少なくても、沈黙の中で互いの存在を感じられる。


「こんなふうにドライブできるなんて思ってなかった。」

彼女のそんな独り言がとても寂しいように感じられた。


長いドライブの後、ようやく海が見えてくる。

「ほら、もう海に着いたよ。」


彼女は無言で海を眺め続けた。

車が止まるまでずっと。


砂浜に足を踏み入れた瞬間、彼女は口を開けて海を見つめた。


「立ってみる?」


少女は車椅子から降りてゆっくりと砂浜に足を踏み込んだ。


「わあ……」



その瞳には、昨日までの病室の窓の景色とは違う、広大な青が映っている。

波の音が砂浜に打ち寄せ、風が髪を揺らす。



彼女はそっと手を伸ばし、俺の手を取った。

「ここに……ずっといたい」

その言葉は淡く、けれど確かな願いだった。



海岸沿いの小さなお土産屋に立ち寄ると、彼女は楽しそうに棚を眺めている。

色とりどりのミサンガが並んでいるのを見つけると、目を輝かせた。


「お揃いの、買おう?」


「もちろんだよ。」



手首に巻くと、互いの目が合い、小さく笑った。


「ずっと一緒にいられるようにね」


「うん」


その言葉は、ただの願いではなく、二人の時間を刻む約束のように響いた。



夜は、彼女の好きなものをお腹いっぱい食べられるレストランへ。

大好きなパスタに揚げ物、デザートまで頼んで、二人で笑いながら食べる。


普段は我慢していた分、口にするたびに小さな声で「おいしい」とつぶやく彼女。


その仕草を見ているだけで、胸が熱くなる。




食後、砂浜に戻り、星空を見上げる。

流れ星を見つけるたびに、願いごとをささやく彼女。



帰り道、昔よく遊んだ河川敷を通る。

「あ、ここ!懐かしい」


「泥だらけになって遊んだな」

笑い声が夜の空気に溶けていく。


「ドレスは……また今度ね」


「うん、今日は海だけでも十分だよっ」


二人で笑いながら、砂まみれの思い出を胸に刻んだ。



夜、彼女を家まで送り届けると、俺はそっと手を握った。


「今日は楽しかった?」


「うん……ありがとう」


その手の温もりが、今日の海の記憶を柔らかく包み込む。


彼女と一緒に「ただいま」と言い、彼女と一緒にあくびをする。

充実した日になって良かったと思った。



ベッドに横になった彼女は、静かに目を閉じる。

「おやすみ……」


俺は横に座り、手を握ったまま、眠る彼女を見守る。

この時間も、願いのひとつだったのかもしれない。




翌朝、空は淡いグレーに覆われていた。

窓の外に広がる街は、まだ眠ったように静かで、冷たい空気が病院まで続く。


車のハンドルを握りながら、少女の横顔を何度も盗み見た。

眠っているわけではない。目は窓の外に向けられ、思索しているようだった。


「今日は……」

小さく声をかける。


「うん、病院までね」


微かに頷いたその表情に、昨日の海の輝きがまだ残っている。



車内は静かだった。

ラジオもつけず、ただエンジンの音とタイヤの音だけが響く。


俺は考えた。


最後の願いを、どうやって叶えようか………


ミサンガや海や晩御飯、星空、河川敷………

昨日叶えた願いは、どれも小さくとも確かな幸せだった。


だが、彼女の胸の奥にある一番大切な願いは、まだ手付かずだ。

「ドレス……あれを叶えるには、どうすればいい?」


彼女の体では、長時間の外出や重い衣装は無理かもしれない。

でも、どうにかして………叶えたい。


病院に着くと、看護師たちが温かく迎えてくれる。

「おはようございます、今日もお元気そうですね」

彼女は少し照れたように笑い、俺の手をぎゅっと握った。


「今日も……よろしくね」

「もちろんだ」


握る手の小ささと温かさが、俺の胸に深く刺さる。


病室に入ると、彼女は窓の外の景色を見ながら小さくため息をついた。


「外に行けるのは……海だけだったね」

「そうだな。だけど昨日は楽しかったね」

「うん……」


その瞳には微かな寂しさと、でも満ち足りたものが混ざっているようだった。


俺はベッドの隣の椅子に座り、彼女の手を取った。



俺は手のひらで彼女の手を包み、ぎゅっと握った。

「絶対に、叶えてやる」


病室に静かに差し込む朝の光が、二人を柔らかく包む。

外の世界はまだ冷たい灰色でも、ここには確かに温かい時間があった。

彼女の願いを叶えるために、俺は何もかも考え尽くす覚悟を固めた。




病院の朝は、いつもと変わらず淡く光に包まれていた。

しかし、その日、病室の静寂は突然の警報で破られることになる。



「患者さんの容態が急変しました!」

ナースコールが鳴り響き、看護師たちが慌ただしく動き回る。



俺は一瞬、言葉を失った。

彼女の顔は苦痛に歪み、呼吸が荒い。

「落ち着いて、落ち着いて……」

心の中で何度も自分に言い聞かせるが、胸の高鳴りは抑えられない。



医師が駆け寄り、説明する。

「緊急手術が必要です。今すぐ準備を」

その声は冷静だったが、俺の耳には重く響いた。

そして、医師が一言付け加える。

「手首のミサンガは外してください」


俺はその言葉に胸が締め付けられた。

昨日、一緒に選んで巻いたお揃いのミサンガ――

彼女との約束の証でもあるそれを外すなんて……。

しかし、命を救うためには必要なのだ。

俺は深呼吸し、手を握り直す。


「大丈夫だ、すぐに戻ってくる」

俺は声を震わせながら彼女に告げた。

小さく頷く彼女の目に、不安が混じる。

「あなた……」

「すぐに、必ず戻る」


手術室の扉が閉まると、俺は廊下で待つしかなかった。

長い時間のようで、実際には数分かもしれない。

手の中のミサンガを強く握り、祈る。

「どうか……成功しますように」


時折、手術室の扉から医師たちが出入りする音が聞こえる。

それが、一瞬の安堵を与え、また胸の締め付けを増す。

俺はただ、握る手に全ての想いを込めていた。


何時間経ったのかも分からない。

ようやく医師が扉から出てきた。


「手術は成功しました」


その言葉を聞いた瞬間、俺は息を呑み、涙が頬を伝った。


「よかった……」


涙の中で、俺は彼女の名前を呼ぶことさえ忘れていた。




手術室から戻った彼女は、まだ意識がぼんやりしている。

だが、微かに笑みを浮かべて俺を見る。

「……戻ってきてくれたね」

俺は手を握り、その温もりを確かめる。


改めて彼女の手にミサンガをつけてあげた。

いま確かに、彼女と心の中でつながった気がした。











あれから5年が経った。

彼女の体は少しずつ回復していって、今では1人で出掛けられるようになった。


この5年でまた海に行った。今度は前よりももっと遠い中部地方の海まで。


流星群も見に行った。昔泊まった別荘ではないが、山の上のコテージを借りて、一晩星を眺めた。


あの河川敷にも行った。昔と同じように、裸足で川の中に入って一緒に水遊びをした。


日本国内、様々なところに旅行して、様々な美味しいものも食べた。



最後に今日、願いが全て叶う。




「新婦、ご入場です。」





純白のドレスを見に纏った彼女はとても綺麗だった。




咲夜さくや、愛しています。」



感動の涙だろうか、彼女の顔から滴り落ちる。


薬指に嵌めた指輪は美しく、彼女を照らしていた。






咲夜の姫は綺麗だった。

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