第三章 塩谷夫妻の到来

第三章 塩谷夫妻の到来


 午後の陽射しが傾きかけたころ、一台の小型ワゴン車が施設の門をくぐった。後部座席には、寄り添うように腰掛ける老夫婦の姿があった。

 塩谷正弘、七十三歳。その手を握るのは妻の弘子、七十歳。二人の指は長年の習慣のように固く絡まり、片時も離れることはなかった。


 「着いたな……」

 正弘がつぶやくと、弘子は小さく頷いた。

 通帳の数字はもう限界だった。血圧薬に診察料、冬の灯油代。残された余裕は薄氷のように脆く、割れれば二人はばらばらに沈むしかなかった。

 「ここなら、最後まで一緒にいられる」

 正弘の声は、祈りのようでもあった。弘子は目を伏せて、ぎゅっと指を握り返した。


 受付に案内されると、笑顔の職員が規定書類を差し出した。医療同意書、生活規則、そして「寄付および遺贈に関する確認書」。

 弘子が一瞬、紙面に目を止める。

 「……遺贈?」

 職員は自然な口調で答えた。

 「皆さまにお願いしているわけではありません。ご意志のある方だけです。ただ、ご遺志を尊重するための確認でして」

 正弘は視線をそらした。細かい文字は霞んで見え、ただ妻の手の温もりだけが確かだった。


 廊下を進む途中、夫妻は足を止めた。

 布をかけられたストレッチャーが二人の前を横切っていく。金属の軋む音がやけに響いた。

 「……どなたか、具合を」

 弘子が思わず声を出した。だが先導の職員は振り返り、笑顔のまま答えた。

 「急な発作でして、ご心配には及びません」

 それ以上の説明はなかった。夫妻の胸に、薄い不安が沈殿していく。


 案内された部屋は、二人が並んで横になれるように特別に整えられていた。窓の外には花壇が広がり、香りが風に乗って流れ込む。

 弘子は毛布を整えながら、そっとつぶやいた。

 「……旅行みたいね」

 正弘は苦笑いを浮かべた。

 「旅行なら、帰る場所があるはずだ」

 その言葉に、弘子は返事をせず、ただ彼の手を強く握りしめた。


 夜が近づくにつれ、部屋の外は一層静まり返っていった。足音は遠ざかり、廊下の灯りは落ち、聞こえるのは風鈴のかすかな音だけ。

 二人は背を合わせて横たわり、互いの体温を確かめるように呼吸を揃えた。

 「ここでなら、大丈夫」

 弘子の言葉に、正弘は目を閉じてうなずいた。だがその胸の奥では、布をかけられたストレッチャーの軋む音が、しつこく反響していた。


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