アスファルトで眠る

雷田(らいた)

第1話

 寝苦しい夜だった。A氏は、何度目かの寝返りの後に小さく唸った。若い頃だったら、こんなときは深夜のドライブにでも行ったものだが。車は持っていなかった。息子がしつこく頼むものだから、数年前に、とうとう免許を返納してしまったのだ。こんな田舎では、車がなければ何もできないというのに。A氏にはコミュニティバスが唯一の足だったが、こんな夜中にバスが走っているはずもない。

 耳を澄ますと、窓の外を走っていく車がある。エンジンの音に、A氏の心臓が跳ねた。こんな時間に、どこに行くというんだろう。A氏はベッドから立ち上がり、玄関の外へ出た。車は見当たらない。まばらな街灯と、少し離れた住宅のポーチライトが点いている以外は、まったくの暗闇と、静寂だった。外は生暖かく、パジャマごしにじっとりした空気を感じる。

 いっそ、夜の散歩でもしようかと思い立った。行き先はあそこがいい。団地を下って川沿いに歩いたところにある、ショッピングセンター。あっちの方なら明かりがあるし、気も紛れるだろう。A氏は家に鍵をかけ、パジャマのまま出発した。どうせ誰も歩いていやしないのだ。この時間なら、通りを我が物顔で歩けるに違いない。家のポーチを出るとき、段差に足をひっかけて転びそうになった。A氏は右足が少し悪い。若いときに車に轢かれたことがあるからだ。それでもA氏は車が好きだった。昔は自動車工場で働いていた。あの頃、憧れの就職先といえば自動車工場と決まっていたのだ。A氏の出た高校では、真面目な生徒には自動車工場の職を斡旋してくれた。それでA氏は真面目に勉強し、卒業してからは真面目に働いた。十八歳から定年まで、朝八時から夕方五時まで。来る日も来る日も車を組み立てた。自分が組み立てた車は、何千台、いや何万台になったのだろう。計算してみるたびに、A氏は誇らしい気持ちになるのだった。


 A氏はゆっくりと歩を進めた。夜道は暗く、用心するに越したことはない。けれどA氏には自信があった。働いているときには毎日、何千回と通った道だ。目をつぶっても歩くことができそうだった。

 それにしても、なんて熱帯夜だ。これも地球温暖化というやつなのだろうか。A氏はひとりごちながら、額の汗を拭った。車の排気ガスと地球温暖化の関係はよく知られている。つまり、A氏の人生は、多少なりとも地球温暖化に貢献したということだ。なんとも皮肉なことだ、とA氏は思った。

 家から歩くこと三十分、ようやく目的地に辿り着いた。夜だというのに、大型ショッピングモールの明かりはついたままだ。ガラス張りの壁から、煌々と輝く二階のフードコートが見える。壁面に掲げられた「おもちゃ・ゲーム」の文字は、スポットライトで照らされていた。は真っ暗な田舎の夜に君臨するショッピングセンターは、ほとんど神聖なまでに光り輝いている。まるで、自分の他に何も存在しないかのように。いや、実際にそうなのだ。この町の住民にとっては、このショッピングセンターこそが王であり、この世の全てだった。

 A氏も例外ではない。息子のベビー服を買ってやったのも、毎日の食材を買うのも、たまの外食や、家族で映画を見るのもここだった。家を出る。仕事に行く。車を組み立てる。ショッピングセンターで買い物をする。家に帰る。人生はその繰り返しだ。全てが規則正しく、時間通りに行われなければならない。

 だから仕事を辞めてから——つまり、その繰り返しが破られてから——のことは、A氏にはよくわからなかった。いつの間にか息子は家から出ていたし、毎日の繰り返しは近所の散歩と、スーパーへの買い出しにとって代わられた。しかしショッピングセンターの姿を見ると、A氏は束の間、規律というものの感覚を取り戻した。人生が規則正しく、決められた手順で進められていたころの記憶が蘇るのだった。今ではもう失われた人生。A氏はその日々を懐かしみ、涙ぐんだ。歳をとると涙もろくなっていけない。


 ショッピングモールの駐車場は、A氏のお気に入りの場所だった。週末には、ここに車がひしめき、溢れんばかりになる。車を作ることで生きてきたA氏は、その光景を見る度に感動を覚えるのだった。それは誰かの仕事の成果であり、ここまでその車に乗ってきた誰かの、生活のワンシーンでもある。仕事と生活。これが人生のすべてでなくてなんだろう?

 もちろん、この時間に止まっている車はない。活気の消え去った駐車場は、墓場のように静かだった。A氏以外に動くものはなく、虫さえ見当たらない。

 A氏は跪き、アスファルトに手をついた。アスファルトの手触り。アスファルトは温かかった。夏だからではない。アスファルトはいつも温かい。アスファルトには液体だったときの記憶が、吹き付けられた排気ガスの記憶があるからだ。まだアスファルトがどろどろに溶けていたときの熱。ここを通ったすべての車が零していった、排気ガスの熱。それらがいつも、アスファルトを温めている。

 A氏は、アスファルトに触れる自分の手をじっと見つめた。何万という車を組み立てた手。筋張って、血管が浮いている。月明かりがその凹凸を際立たせ、同時にA氏の毛羽だったパジャマを照らしていた。ふと、A氏は自分がひとりぼっちだということに気がついた。そして、暗闇の中で顔を赤らめた。やれやれ。自分の中の良識というやつは、どうなってしまったんだろう。パジャマでこんなところに来るなんて、どうかしている。

 A氏は植栽の前に腰かけて、自分の家がある方角を眺めた。当然、ここからA氏の家が見えるはずはない。考えてみると、家はずいぶん遠くのような気がした。夜は優しくA氏の髪を撫で、老いた体を労ってくれた。

 自分には発想の転換が必要なのだ、とA氏は思った。つまり、車が無くてはどこにも行けないと思っていたが、家から三十分歩いてここまで来られたのだ。本当は、自分はどこにでも行けるはずじゃないか。そう思うと、急に元気が湧いてきた。突然息子の家を訪ねて、息子を驚かせることだってできる。その思いつきに頬を緩めながら、A氏は立ち上がった。明るくなる前に、家に帰らなくては。


 そのときA氏の心臓が悲鳴を上げたのは、まったくの予想外だった。A氏には持病はないはずだった。健康そのものとは言えないまでも、自分が病人だというつもりもなかった。どうしたことだろう。A氏は歯を食いしばった。いやな脂汗が滲む。耐えきれずに、A氏は崩折れた。倒れた拍子に右の額を打って、傷がずきずきと脈打った。全身が鉛のようだった。あんまり体が持ち上がらないので、このまま自分も溶けてゆき、アスファルトと一体化してしまうのではないかと思ったほどだ。

 A氏は目だけを必死に動かして、助けを求める先を探した。だが、誰も通りかかる者はいない。アスファルトに這いつくばるA氏に知らんぷりをして、時だけが無情に過ぎていった。


 やがて、夜と朝が混ざり合う時間になった。多くの人が眠りから覚めはじめ、夢と現実が交差する時間だ。夢の欠片がもみ殻のように宙を舞い、風に乗ってA氏の顔の前を通りすぎていった。A氏は意識朦朧としたまま、なんとか顔を上げた。薄ぼんやりとした光が差し込んでくる。そうして、A氏は見た。A氏のように、死に近づきつつあるものにしか見えない光景を。

 それは車たちだった。

 環境を破壊する社会悪、動物の殺害者、人間の肉体を破壊する凶器にして、田舎に住む者の守護天使。サイドミラーの曲がったパッソ。擦り傷だらけのスライドドアのアクア。それらの亡霊が、ショッピングセンターの駐車場にぼんやりと浮かび上がっていた。彼らは駐車する場所を探してうろついたり、トランクの扉を開けて荷物を積み込まれたりしているところだった。

 A氏は驚き、懸命に頭を動かして辺りを見た。右も左も、車でいっぱいだ。生意気そうなフロントグリルのやつ。吊り目のヘッドライトのやつ。自分の工場でも生産していた顔を見ると、ひときわ嬉しくなる。やあ、やってるかい。なんて、声をかけたくなった。周りを取り囲むエンジンの音。排気ガスの熱。束の間そこは、親密な笑いと喧騒に満ちた宴のようだった。なんて心地良いのだろう。

 A氏の視力は衰えつつあったが、そんなことは問題ではない。それは確かに存在したのだ。

 生き物が吐き出す息ににいくらかの生命が含まれるのと同じように、もちろん車の排気ガスにもいくらかの魂が含まれる。一部は上昇し、温室効果ガスになる。また一部はアスファルトの隙間に蓄積し、沈澱する。それが幽霊の正体だ。幽霊とは、記憶の欠片のことだから。

 彼らは地獄に行くことも天国に行くこともできず、ショッピングモールの駐車場を彷徨っている。ここは無数の車たちの溜まり場だった。

 そうか。みんなここにいたのか。A氏は微笑むと、満足げに目を閉じた。アスファルトはいつも温かい。それは優しい毛布のように、あなたを包んでくれる。

 おやすみ、トヨタ ルーミー。おやすみ、ホンダ オデッセイ。おやすみ、ニッサン セレナ。おやすみ、どこへでも行ける自由。おやすみ、滅びゆく者たち。おやすみ。おやすみ。おやすみ。

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アスファルトで眠る 雷田(らいた) @raitotoko

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