第2話 くらす! はたらく!

 大きな大きな木は、丸ごとお城になっていた。

 吊り橋を渡って、枝から枝へ、ウロのお部屋からお部屋へ。花は咲き乱れ、蝶は舞い、見上げれば空にはいつも虹がかかっている。

 金の髪に緑の瞳、白いドレスのひとが、言った。

 ──いいこと? 決して名前を明かしてはなりません──

 ──名前を明かしたら、お前は死んでしまうのですよ──


(そうだ。妖精の女王様に、そう言われた。私の、名前……)


 人の気配に、目が覚めた。

 目をこすりながら起き上がると、私は半分干し草に埋もれていた。うごうご、ともがいて草から抜け出る。

 薄暗いけれど、朝、それもかなり早い時刻のようだ。コッコッコッコッ、という鳴き声はニワトリで、牛舎の入り口あたりで地面をつついている。


 牛舎の中には、子牛を含めて六頭の牛がいた。乳搾りをしていたディーナが振り向き、にこっと笑う。相変わらず、妖精の女王様みたいに綺麗な人だ。

「おはよう」

《おはよう》

「え? なんて?」

 はっとして、妖精語ではなく人間の言葉であいさつしようとしたけれど、寝起きの頭のせいか、何というのだったか思い出せない。

「めいっ」

 とりあえず、鳴いておいた。

「あはは、おはよう、妖精姫ちゃん」

《姫? 私、お姫様じゃないけど》

 そう思ったものの、私は名乗っていないから、あだ名をつけられたのかもしれない。

 別の牛の向こうから、カイラも顔を出した。

「ちょっと待ってておくれ、もうすぐ終わるからね」

 二人して乳搾りを終わらせると、ディーナが牛舎の戸に渡した棒を外し、大きく開け放つ。

 牛たちはしっぽを振りながら、のんびりと外へ出て行った。


 バケツを提げた二人とともに、昨日の食堂兼台所に入る。二人は牛乳をかまどの鍋に開け、温め始めた。

 手を洗いながら、カイラが聞く。

「朝食を作ろうね。お姫様は何が好き?」

「牛乳!」

「あはは、本当に好きなんだね。他には? 卵かな、パンかな?」

「牛乳だけ」

「ええ?」

 ディーナとカイラは顔を見合わせる。

「でも、牛乳だけじゃ」

「カイラ、妖精は食べるものが違うのかもよ」

「ははあ、なるほど……他のものは嫌い? 全然、食べないのかい?」

 心配そうに聞かれて、私は少し考える。

「たべる。でも、牛乳」

「牛乳があればいいってこと? そう」

 笑いながら、カイラは何やら調理を始めた。トントン、サクサクと野菜を切る音が心地いい。


 その間に、ディーナが手招きをする。

「お姫様、こちらへどうぞ」

 近寄ると、ディーナは棚の上に置いてあった布を手に取り、広げてみせた。

 服だ。小さな女の子用のワンピースである。

「執事のお孫さんのを借りてきたから、これ着て」

(執事……)

 とにかく、ディーナに借りた上着を脱いで、頭からワンピースをかぶせてもらう。少し違和感があるのは、たぶん私はずっと服を着ないで過ごしていたからだろうと思う。

 すぽっ、と頭を出してうごうごと袖を通し、自分の身体を見下ろした。白い丸襟のついた、水色のワンピースだ。

 ディーナが「うん、可愛いね」と笑って屈み、腰の白いリボンを後ろで結んでくれた。カイラが私を見て笑顔になる。

「よかったわぁ、ぴったり! よく似合ってるよ」


「さ、朝ご飯にしよう」

 ディーナに促されて、椅子によじ登る。目の前に木のカップが置かれ、牛乳がうっすら湯気を立てている。

 ごく、ごく、ぷはぁ!

《はぁー。甘みがたまんない》

 後味を堪能していると、ディーナに笑われた。

「ふふ、本当に美味しそうに飲むね」

 パンとスープ、それにサラダを勧められ、少し食べた。牛乳で十分だけれど、他の食べ物も食べられるし、嫌いなわけでもない。

 サラダは好きだ。葉っぱをもしゃもしゃと食べると、太陽から作られた力が身体に満ちていくみたい。バタつきパンには、金色の蜂蜜をたらしてもらう。はむっ、と噛むと、甘くてじゅわっとして、とっても美味しかった。


「お姫様、一晩ここに泊まってしまったけど、おうちはどこ? 帰るところはあるんでしょう?」

 カイラに聞かれ、私は首をぶんぶんと横に振る。

 ここは人間たちの暮らす場所のようだけれど、たぶん私は別のところで暮らしていた気がする。でも、そこにどうやって帰るのかはわからないし、どうして小川のところで寝ていたのかも、さっぱり思い出せないのだ。

 ディーナとカイラが顔を見合わせ、相談を始めた。

ディーナ様・・・・・、ここで面倒を見るのは私は構わないんですが、どうしましょう?」

「とにかく、お父様にお話ししてみるよ」


(あれ?)

 私は二人の顔を見比べた。

 カイラはディーナに話しかける時、丁重な言葉遣いになっている。

(ディーナの方が、偉いみたい)


「さてと……一緒に、領主様に挨拶に行こう」

 ディーナが私に手を差し出す。

「この牧場は、領主の、つまりグリーソン伯爵のものだから」

「めいっ!」


 手をつなぎ、私たちは台所を出た。

 ぴょんぴょんと跳ねるように歩く私を見て、ディーナは面白そうにしている。

「ヤギの脚だと、そういうふうに歩く方が楽なのかな? 面白いね」

 そういうディーナの足は長く、ゆったりめの乗馬用ズボンに包まれ、使い込まれたブーツを履いている。つないだ手にも豆があって、いかにも労働している、という風だ。

(どういう人なんだろ?)


 林の小道は上り坂になっていて、その向こうが開けたかと思うと、美しい館が現れた。

 くすんだレンガの壁の三階建て、緑の屋根、並んだ窓は白いアーチ型だ。木の扉に取り付けられた金のノッカーを、ディーナがコンコンとやると、すぐに開く。

「ああ、ディーナ様、おはようございます」

 黒いスーツの、執事らしき中年男性が顔を覗かせた。

(やっぱり『ディーナ様』だ。ディーナは貴族なのかな?)

 ちょっと意外だ。貴族は牧場で働いたりしないと思っていたから。

「おはよう、コルム」

「おお……この子が例の? 本当にヒヅメが……」

 四角い顔のコルムは、じっ、と私の脚を見る。

(そんなに珍しいかな)

「はっ、失礼。どうぞ。今、食堂で食後のお茶を召し上がっておいでです」

 案内され、中に入る。タイルの床にヒヅメが当たって、コツコツと音を立てた。


 玄関を抜けると階段ホールで、階段の奥側が廊下になっていた。そこに開け放した扉があって、中へと入っていく。クリーム色の壁に木の腰壁、そして暖炉。

 白いクロスのかかった丸いテーブルで、誰かが新聞を読んでいた。

「旦那様、おみえです」

 執事の声に、新聞が下ろされる。


 現れた顔を見た時、ふと、胸が温かくなった。

 後ろに流した灰色の髪、高い鼻、きりっとした目元。でも、口や頬のあたりは柔和だ。

 ──懐かしい──

 牧場を走っていた時と同じ、そんな気持ちにさせられる顔だ。


 ディーナが挨拶した。

「お父様、おはようございます」

(あ、やっぱり。お父様、って)

 つまりディーナは『伯爵令嬢』なのだ。労働しています、っていう格好だけど。

「おはよう、ディーナ。ああ、その子が」

「はい」

 ディーナが、私の背を軽く押して、前に出した。おじさんが身体の向きを少し変え、私を見下ろす。

「初めまして。私はネイリウス・グリーソン、このあたりの領主だよ。私の子牛を助けてくれて、ありがとう。君の名前は?」


 また、あの不安な感覚が起こる。

(名前を言ってはいけない)


 私は両手を後ろで組み、つん、と顎を上げた。

「なまえ、ない!」

「そうなのか? ちょっと不便だね。家も覚えていないと聞いたが、記憶がないのかな。それとも……うーん」

 伯爵はうなり、そして提案する。

「どうだろう、もし君にここで暮らす気があるなら歓迎するし、私が名前を考えるけれど?」


 正直、その申し出はとてもありがたかった。

 行くあてがないのでここに住めるのはありがたかったし、何より毎日牛乳が飲める。

 本当の名をいちいち聞かれるのもめんどくさくて、名乗れる名を新たにもらえるなら嬉しい。


「くらす! はたらく!」

「働いてくれるのかい? ものの本には、妖精は仕事好きだと書いてあったが、本当なんだね。ヤギの脚か……」

 グラシュティグかな、とよくわからないことをつぶやいてから、伯爵は笑う。

「名前は、そうだな……プティ、はどうだろう」

「ぷてぃ」

「東の国の言葉で『白』。君は真っ白な脚を持っているから」

 私は自慢げに、右足を軽く蹴るようにして前に出してみせる。伯爵はうんうんとうなずいた。

「綺麗な毛並みだね。妖精は幸せを運んでくるというし、まあ君は姿が見えるから妖精なのは半分だけなのかもしれないけれど……これからが楽しみだ。プティ、よろしく」

「プティ!」

 嬉しくなって隣を見上げると、ディーナも優しい笑顔でうなずいた。

「いい名前をいただけて、よかったね。お父様はとても博識な方なんだよ」

 すると伯爵は、「なあ、ディーナ」と笑い混じりのため息をついた。

「プティを見習って、君もかしこまらずにしゃべってくれていいんだが?」

「ええ……でも、もう変えられなくて」

 ディーナは曖昧に微笑む。

(?)

 どういう会話? と思っているうちに、ディーナは私に視線を落とした。

「牧場に戻ろうか。それでは、失礼します」

「いつでもおいで。プティに必要なものは何でも用意させるから、コルムに言いなさい」

「はい」

 食堂を出る前に、私は一度振り向き、伯爵にブンブンと手を振った。

 伯爵は面白そうに笑い、うなずいた。


 こうして、プティとしての伯爵家での暮らしが始まったのだ。

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