第43話 祈りの調べを

 リファイアードはゆっくりとした動作で、再びグラスを傾ける。その様子を見つめながら、ロルブルーミアはそっと思っている。

 同じ価値観を持って、同じ立場で生きている。そんな相手を、ロルブルーミアは初めて知った。一人ではなかったのだと、こんなにも近しい相手がいるのだと知ったのだ。


 何もかもがぴたりと重なるわけではなくても、正反対の部分もきっとあるけれど。

 それでも、鏡合わせではなく背中合わせなら、きっと一番近い場所にいるのだ。背中同士が触れあっているなら、それは誰より近いのだから。


(少しだけ位置を変えれば、きっと同じものを見られるでしょう?)


 心でそっと語り掛けるものの、リファイアードがうなずかない可能性は浮かんでいた。

 同じではないですよ、なんて笑うだろうか。実際に、何もかもが同じでないことは事実だろう。


 リファイアードの生きてきた境遇は苛烈かれつだ。

 ロルブルーミアには生まれた時から母親がいて、貧しいながらも寄り添って生きてきた。魔王城へ迎え入れられてからも、父親以外に兄や姉たちにかわいがられて暮らしてきた。

 対するリファイアードは、家族を知らずに暴力にさいなまれる生活を送っていたはずだ。

 さらにそこからは戦場で暮らすようになった。軍隊に迎え入れられて王族の養子になったとしても、仲のいい兄弟姉妹がいたわけではない。

 王子となってからも周囲の目は厳しく、部下からの信頼を得たとしても、決して何もかもが順風満帆ではなかっただろう。


 城の中で家族に守られて、安穏と暮らしていたわたくしより、もっと過酷で苛烈な目に遭ってきたはずだわ、とロルブルーミアは思っている。


 何一つ簡単な道ではなかったはずだ。

 周りと違うという事実だけで、いくつもの障害がある。くわえて、王族という権謀術数けんぼうじゅっすう渦巻く世界で生きてきた。

 国王という存在があるとしても、それ以外に強力な後ろ盾があるわけでもないのだ。歓迎されて守られてきたとはとうてい思えない。

 その上、ロルブルーミアと違って城の内部に引きこもっていたわけではないのだ。最前線で戦うことを選んで、戦場に身を投じて、何度も傷を受けても立ち上がってきた。


 残虐な血濡れの王子だという噂は聞いていた。死体を山積みにして、他者を虐げることを喜びとする恐ろしい王子なのだと。

 そんな相手でも構わないと、ロルブルーミアはこの国にやってきたけれど。


 少しずつ、グラスの薬液が減っていく。それを確認しながらロルブルーミアが思い出しているのは、今日までの日々だった。


 少しずつ知っていった姿は、決して残虐ではなかった。

 言葉が足りず愛想がいいとも言えないので、誤解が積み重なっていくけれど、心の中にあるものを知っていく。

 命を預けるに足る人物だと部下から信頼されていること。見ず知らずの子供へ向ける慈しみのまなざし。父親に対する真っ直ぐの親愛と忠誠。父親の話には饒舌になり、父親の話をすることを心待ちにしている。


 少しずつ、少しずつ、言葉を交わしてリファイアードに近づいた。

 語られなかった過去を知った。今ここで生きているリファイアードのことを知っていった。

 魔族の王子でも、血濡れの王子でも残虐な軍人でもない、ただのリファイアードと同じ時間を過ごしてきた。


 ロルブルーミアの用意したお茶を飲んで、共に話をするのが日常になった。

 ロルブルーミアを蔑ろにすることもなかったし、ロルブルーミアの語る家族の話を聞いてくれた。魔族の国だとか敵国だった王族だとかを気にすることもなく、「家族の話」として当たり前のように受け入れた。

 ロルブルーミアの花壇作りも、苦言を呈することなく何くれと気を遣ってくれる。


 共に時間を過ごして、笑顔を見かけることが増えた。作られたものではなく、思わず浮かんでしまったような。じんわりとした温みを形にしたように笑う。

 本当はとても愛情深いのだと、ロルブルーミアはもう知っている。

 誰にも知られなくても、ただ人にやさしくできる。大事なもののために何もかもを差し出す意志を持っている。

 苛烈な環境で生きてきて、全てを呪ってもおかしくはないのに。この世界の大事な存在を、守るべき相手を知って、憎しみを慈しみに変えられる。自分が大事にしたいものを揺るぎなく抱きしめて、そうして歩いていくと決めている。


 今なら、ロルブルーミアはシャンヴレットの言葉に心から答えられると思った。

 生きていること、生まれてきたことを否定して間違いだったと言い切る言葉に、心から「いいえ」と言える。

 そんなことあるわけがないわ、と答える。


 同じものを見ていた。大切なものに向けるまなざしも、周りとは違う環境で生きてきたことも、きっと同じだった。

 世界を呪わず愛に変える意味を知っている。そんなリファイアードを否定するのは、自分自身を否定するのと同じなのだ。


 それに、と思いながらロルブルーミアは口を開いた。

 リファイアードのグラスが空っぽになり、全てを飲み切ったのだ。何かをうかがうような調子でロルブルーミアへ視線を向けるので、唇に笑みを浮かべて言う。


「量は充分のはずですから、しばらく横になっていてくださいませ。千夜草の魔力が、体に循環していくはずですわ」


 そう言うと、リファイアードは存外素直に言葉に従った。何度か手を握ったり開いたりを繰り返しており、体に変化が出ていることに気づいたのかもしれない。

 千夜草は水に溶かすと、即効性があるのだ。身体の調子には敏感だからすぐに気づいたのだろう。効果があるなら反対するいわれはない、と判断したらしい。


「目を閉じて横になってくださいませ。刺激は少なく、安静にしていた方が効果はより出やすいんですのよ。ええ、大丈夫ですわ。わたくし、千夜草のことなら詳しいんですの。すぐによくなりますわ」


 落ち着いた声で、ことさらやわらかく告げる。

 リファイアードは「ですが――」と戸惑った空気を流しているけれど、「あら、リファイアードさまはわたくしよりも、千夜草にお詳しいかしら」と問い返すと口を閉じた。「わかりました」と言って、目を閉じる。


 その様子にほほえましい気持ちになりながら、同時に胸に渦巻くのは別の感情だった。


 グラスを飲み切ったあとの、調子をうかがう様子。横になって安静することへの戸惑い。

 それは恐らく、今までそんな扱いをほとんど受けなかったからだと、ロルブルーミアは察していた。

 リファイアードの言葉やこれまでのことを考えれば、看病を受けるという体験がほとんどないことは想像に難くない。


 父親である国王がいくら気にしていたとはいえ、全てに目を届かせることは難しい。

 魔族の王子として忌避されても、見えないところで虐げられても、恐らくリファイアードは父親の負担になることを厭って、何も言わないだろう。

 さらに、人間の医師ではリファイアードの不調の原因に辿り着くことは難しい。看病されたところで効果もないのだから、優先順位が限りなく低くなってもおかしくはない。

 誰からも顧みられず、気にされることもなく、苦しみを抱えてやり過ごすことがきっと当たり前だった。手を差し伸べられることも、労わられることもなく。


(――リファイアードさまは、誰にも頼らず寄りかからずに生きてきたんでしょう)


 グライルの言葉を思い出す。「隊長自身は誰にも頼らない」「大けがして一晩で治るわけないのに、平気な顔して戦場に飛び込む」「誰かを守ることはできるのに守られるのが下手」――。

 きっとそんな風に生きてきたのだ。誰の手も借りず、たった一人で。痛みも苦しみも何もかもを押し込めて。


 魔力欠乏症は、通常一晩で治ることはない。

 千夜草のような豊富な魔力を貯蔵する植物を摂取したならいざ知らず、それ以外の対症療法では数週間引きずってもおかしくはないのだ。

 しかしグライルは、翌日には平気な顔をしていると言っていたし、リファイアードも明日には元通りだと言っていた。

 そんなことは不可能だ。魔力欠乏症のことならロルブルーミアはよく知っている。千夜草もない状況で、翌日には回復しているなんて絶対に無理なのだ。

 しかし、リファイアードは素知らぬ顔をして立っている。恐らく、不調も痛みも苦しみも全てを覆い隠して、何もかもが元通りの仮面をつけているだけだ。


 リファイアードはそうやって生きてきた。誰かに頼ることはせず、誰かの手を借りることもなく、自分一人の力だけで乗り越えてきた。

 きっと、ずっとたった一人だった。味方はいても数は少なく、いつでも近くで守ってくれるわけではなかっただろう。

 だからリファイアードは、全てを一人で背負うことを選んだ。


 こんな風に看病されることも、労わられることもなく。ただ戦い続けることを是として、血を流しながらでも戦場に立つことを選んだのだろう。

 それはリファイアードの高潔な決意なのだと、ロルブルーミアもわかっているけれど。


 目を閉じて横たわる姿に、ロルブルーミアは思っている。

 リファイアードは確かに強いのだろう。魔族としての身体能力に、たゆまぬ努力を続けて実力をつけていった。

 戦場を縦横無尽に駆け回り、ほふった敵は数えきれない。部隊を何度も勝利へと導いたのも事実で、ロルブルーミア自身も危ない場面を助けられている。剣の腕を頼りにされる場面は多々ある。

 だから、リファイアードはその剣で多くの人を守ってきた。


 理解しながら、ロルブルーミアはそっと思う。

 たくさんの人を守ってきた、自分が守られることには無頓着な目の前の相手を見つめて。これは単なる願望で、傲慢で自分勝手な想いなのかもしれないと自覚しながら、それでも。


(苦しみも痛みも負うことなく、安らいで生きられたらいいのに)


 それは、理性や意志の類ではなかった。ただ純粋な、こぼれるような祈りは密やかに夜へ染み入っていく。


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