第41話 触れる指先

 千夜草せんやそうはしっかり根付いている。夜の庭に飛び出して必要な分を採集してきたロルブルーミアは、そのまま厨房に駆け込んだ。

 幸い、キーレンと何度か料理をしているおかげで、物の所在や使い方はわかっている。千夜草をどう扱えばいいかも熟知しているから、手はよどみなく動いた。

 必要なものをそろえると、息を切らして部屋に戻る。


「リファイアードさま!」


 リファイアードは、ぐったりとした様子でソファにもたれている。座っているというより、ほとんど倒れ込むような姿勢だ。

 目を閉じて、荒い呼吸を繰り返しており、明らかに症状が悪化している。

 ロルブルーミアは、千夜草や乳鉢、水差しなどを乗せたお盆を机に置いて、慌てて駆け寄る。

 体を支えようと手を伸ばすと、リファイアードが目を開けた。赤い瞳は潤んで茫洋ぼうようとしている。


「――父上」


 ぽつり、と言葉が落ちた。リファイアードはゆらゆらと定まらない視線で「父上、いらしたのですか」とつぶやいた。

 ロルブルーミアは何を言えばいいかわからず、沈黙が落ちた。

 どう考えても、国王とロルブルーミアでは体格も容姿が違いすぎる。見間違えるとは思えないから、恐らくリファイアードははっきりと人影を認識していない。誰かが近くにいる、それだけをかろうじて把握している。


「俺なら、大丈夫です。父上がいなくても、一人でも平気です。だから、大丈夫です」


 うわごとのような響きで、ぼんやりとしたまなざしで、リファイアードは言葉をこぼした。

 それは、父親を慮るものだ。多忙な中見舞いになんて来なくても平気だと。

 父親以外に病気のリファイアードを見舞う相手なんていないのだから、一人には慣れている。だから大丈夫なのだと、うわごとのように告げる。


 だからなんだわ、とロルブルーミアは理解した。

 国王とは年齢も性別も背格好も違うのに。もうろうとした意識だとしても、ロルブルーミアと間違えるはずがないと思ったのに。

 リファイアードにとって、弱った自分を見舞う相手など父親以外に存在しない。だから、ロルブルーミアを国王だと思ったのだ。


「すぐによくなって、ちゃんと国をお守りします。父上がいたから、俺は死なずにここにいる。父上がいたから、この世界を恨まずに呪わずに済んだんだ。この身は、父上のためにあるのですから」


 ぼんやりとした声にもかかわらず、確かな力強さがあった。

 発熱のためだけではない。自身の心からほとばしるものが形になったような、熱に浮かされた響きをしていた。

 意識が不明瞭だからこそ、ただ素直に言葉がこぼれるのだ。これは、紛れもない本心なのだとロルブルーミアは痛切に感じ取る。


「――リファイアードさま、どうかこれを口にしていただけますか」


 深呼吸をして、ロルブルーミアは言った。

 摘み取ってきた千夜草の葉を一枚差し出す。葉はやわらかく、強い苦味や刺激成分もないので、そのまま食べても問題ないことはわかっていた。

 本来であれば水に溶かすのが最も効果的だけれど、今は緊急事態だ。意識の混濁がこれ以上進んではまずいのだ。


 リファイアードは、ロルブルーミアを国王だと思っているからだろうか。千夜草の葉をためらいなく口にする。

 ゆっくり咀嚼する様子を確認しながら、ロルブルーミアは机の上に向き直った。薬液を作る必要がある。


 よく洗った千夜草の葉を手で千切り、乳鉢へ広げるように入れていく。

 乳鉢で押しつぶし、円を描くようにすりつぶしながら思い出しているのは、先ほどこぼれたリファイアードの言葉だった。


 ――父上がいたから、この世界を恨まずに呪わずに済んだんだ。


 頭の中で、繰り返すようにずっと響いている。ほとばしるようにこぼれた言葉、強く焼きつく。

 理由なんて簡単だ。知っている、と思ったのだ。


 この世界は、決して何一つやさしくなかった。廃墟での出来事は、ロルブルーミアに決定的な傷を与えた。

 何もかもが恐ろしくて仕方がなくて、世界は全て敵だった。今か今かと、ロルブルーミアを傷つける瞬間を待っている。

 周りの全ては、自分を取り巻く何もかもは、痛みと苦痛を連れてくる。心と体を蹂躙し、何もかもを奪い去っていく。

 こんな世界は要らなかった。呪って唾棄だきして、めちゃくちゃに壊れてしまえばいいと憎悪すらしていた。


 しかし、それでもロルブルーミアは踏みとどまった。呪うべき世界で今日も生きて、それどころかこれからの未来を願うことを思い出した。

 理由なんてわかっている。あらためて思い出す必要もない。

 ロルブルーミアが世界を呪わなくて済んだのは。恨まずに済んでいるのは。父親や家族の存在があったからだ。


 半狂乱になって暴れまわっても、愛想をつかさず抱きしめてくれた。どれだけ迷惑をかけてもそばにいて、大好きだと一身の愛情を傾けてくれた。

 だから、ロルブルーミアはこの世界で生きていくことができた。呪わずに、恨まずに、これからの未来を思い描けた。


 そうでなければ、とっくにこの世界になんて愛想を尽かしていた。何もかもを呪って、めちゃくちゃに壊して、世界中に呪いを振りまくことを選んだに違いない。

 家族がいなければ。父親がいなければ。ロルブルーミアを抱きしめて、大事なのだと何より強く伝えてくれた力強い腕がなければ。

 こんな世界、とっくに壊して呪っているに決まっている。


 同じなのだと、どうしようもなくロルブルーミアは思う。同じ気持ちを抱いて、同じものを知っている。

 リファイアードとロルブルーミアは別の存在だ。だから、何もかもを理解することはできないとわかっているのに。


(お父さまがいたから、世界を呪わずに済んだの。この場所で生きていけると思ったのは、この世界で生きていられるのは、お父さまたちがいたからだわ)


 リファイアードにとっての国王がどんな存在なのか、手に取るようにわかってしまった。

 きっと同じだと思っていた。その通りだった。

 生きていく理由だ。死なない意味だ。世界そのものだ。

 大事な人と出会った時から、助け出されて救われた時から、世界は新しく生まれ変わった。あの瞬間から、自分の世界は作り替えられた。


 すりつぶした千夜草が、次第にやわらかく粘り気を帯びていく。草の香りが部屋中に広がり、乳鉢の底には濃い緑の汁が溜まり始めている。

 あと少しすりつぶせば充分だろう。ほっと息を吐いて、ソファへ視線を動かした。


 すると、ばちりと目が合った。どうやらリファイアードもロルブルーミアの様子を眺めていたらしい。

 その瞳はいまだ揺らいでいるようだけれど、先ほどと比べてほのかに意志の兆しが見えた。


「――ロルブルーミア姫」


 落ちた声はまだ弱々しい。しかし、口に出された名前は確かにロルブルーミアのものである。

 倒れ込むような体勢から、ソファにもたれかかるように座り直しているし、千夜草の葉一枚でも効果はあったのだろう。ただ、まだ充分ではない。


「もう少しお待ちください。この薬液を飲んでいただければ、体調がよくなるはずですわ」


 慣れた手つきで千夜草をすりつぶしながら言うと、リファイアードはわずかに沈黙を流す。

 それから「お気持ちはありがたいのですが」とつぶやいて、言葉を続けた。


「熱冷ましの類でしたら、あまり効果はないように思います。今までいくつか薬草を試してきましたが、ほとんど体調は回復しなかったので」


 重苦しく息を吐き出しながら言うのは、ロルブルーミアが用意しているのは一般的な薬草の類だと思ったからだろう。

 たとえば人間が医師から処方されるような、そういったものに効果はなかったとリファイアードは告げる。

 料理に使う薬香草や砂糖をそのまま食べる方がまだ効果はあった、と言うのは実体験らしい。

 緊急時にはそれらを口にすることで乗り切ってきた。単なる薬草の類は意味がない。ロルブルーミアの労力も無駄になるから、そんなことをする必要はないのだと続く。


「体調不良の原因は誰にもわかりませんでした。ですので、そこまでしてもらっても無駄になるかもしれない。あなたの手をわずらわせるだけになるなら、何もしなくて構いません。明日にはいつも通りになっていますから」


 苦しみなど自分一人で耐えればいいのだという顔で、リファイアードが言う。

 恐らく国王は、医師にリファイアードを診察させたのだろう。しかし、誰もしかとした原因はわからなかった。

 有効な治療法を提案することもできず、ただリファイアードはベッドに横になっているしかできなかった。


 実際、魔力の欠乏が原因による体調不良であれば、一般的な薬草も効果がなかったのは道理だ。千夜草ほどの保有量を含む薬草でなければあまり意味はない。

 しかし、千夜草は一般的に医療に使われるような効果はないとされているので、わざわざ処方するという判断はされないだろう。


 だからリファイアードは、どんな治療も意味はなかったという。

 経験則でかき集めた対症療法だけが有効で、医師たちはリファイアードの症状に匙を投げた。誰もこの体調不良を治すことはできない。ただ耐えて嵐が過ぎ去るの待つしかない。


 絶対的な事実のように告げられた言葉に、それは当然だわ、とロルブルーミアは思う。なぜなら、この国の誰も魔族の治療法なんて知らないのだから。

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