第40話 月影に手を伸ばす

 人の気配がない廊下を進み、扉の前で大きく深呼吸をした。

 同行を申し出たリリゼには首を振り、侍女詰所にいるエマジアと共に部屋で控えているよう命じた。繁華街など危険地帯に行くわけではないのだ。屋敷内であれば、リリゼの耳ならば名前を呼べば駆けつけることもできるだろう。

 それに、侍女を引き連れて行動するのは仰々しくなりすぎる。リファイアードは大ごとにすることを望まないだろう、という判断だった。


 部屋の中に、誰かがいるのかどうかはわからない。しかし、リリゼが気配を感じたというならそれが正しいのだろう。

 ロルブルーミアは真っ直ぐ前を向いて、厚樫の扉を叩く。すぐに反応はなかった。

 数十秒待ってから、ゆっくり扉を開く。明るい光が差し込むのと同時に、消毒液の匂いが鼻をついた。


「――ロルブルーミア姫、どうかされましたか」


 石組みの小型暖炉の前に設置された、厚手の革製ソファ。座るリファイアードは、落ち着いた調子で尋ねた。何一つおかしなところはない、至っていつも通りといった様子だ。

 しかし、リファイアードの顔色は距離があってもわかるくらいに悪かった。

 普 段はきっちり着込んでいる軍服も、襟元のボタンは止まっておらず全体的に乱れている。さらに、ソファの前に置かれた一枚板の机には、薬箱と思われる木箱が乗っていた。


 少し喉が渇いて、だとか、眠れなくて、だとか。言い訳はいくつか用意していた。

 しかし、リファイアードの顔を見た瞬間、全ての建前は放棄した。腹の探り合いをしている場合ではないと判断したのだ。


「リファイアードさま、けがの程度はいかほどですの」


 つかつかと応接室に踏み入り、隣に座るのと同時にそう言うとリファイアードが一瞬ひるんだ。どうしてそのことを、と言いたいのかもしれない。


「どこにけがを? 手当てが充分でないなら、お手伝いしますわ」

「いえ、大丈夫です。ロルブルーミア姫が心配するようなことは――」


 机の上の薬箱へロルブルーミアが手を伸ばすと、リファイアードが慌てたように口を開く。しかし、言葉は途中で口から消える。

 ロルブルーミアを制そうとして動かした左腕が不自然に止まり、同時に顔が一瞬歪んだ。それで充分だった。


「左腕をけがされていますのね」

「――大したけがではありません。ロルブルーミア姫に、手当てをしてもらうほどのものではないのです」

「でも、お一人では充分な手当てが難しいのではありませんこと?」


 利き腕ではないにしても、片腕では不自由も多いだろう。決して不自然な疑問ではないはずだ。

 できることがあるかもしれない、と薬箱を自分の方へ引き寄せて蓋を開こうとした。しかし、その瞬間リファイアードが動いた。蓋に手をかけるロルブルーミアの腕を掴んだのだ。


 握りしめるような力強さだった。驚くほど熱い手は、発熱の証拠だろう。ぎりぎりと、右腕に指が食い込む。

 締め上げられるような痛みに何かを言おうとして、しかしすぐにそれは悲鳴のような声に変わる。


「リファイアードさま!?」


 青白い顔をしたリファイアードの体が、大きくかしぐ。

 ロルブルーミアの方へ倒れ込むような形になり、慌てて名前を呼ぶとリファイアードは「申し訳ありません」と言いながら、どうにか体勢を立て直した。とっさに動いたことで、めまいでも起こしたのかもしれない。


「これくらいの手当ては、片腕だけでもできますので本当に心配はしないでください。止血も消毒も済んでいますし、包帯くらい一人でも巻きつけはできます」


 手を離したリファイアードは、ソファの背もたれに背中を預ける。何度か呼吸を繰り返してから、眉間にしわを刻みながらそう言う。

 戦場で長く過ごしてきた身として、これくらいのことはできて当然なのだ、という声は呼吸に紛れているものの、何かをごまかそうという素振りはなかった。

 それに、リファイアードの言葉ももっともだ、とロルブルーミアは自分の態度を恥じた。医療者の心得があるならまだしも、専門の教育を受けたわけでもない。

 戦場でけがの処置などを実践してきたリファイアードの方が、よっぽど的確な処置ができるというのもうなずける。

 だから、よけいなことをされたくはないと、薬箱に手を伸ばすロルブルーミアを制したのではないか、と思ったのだけれど。


「――その中には止血に使った道具も入っています。隠すところが見つからなかったもので……。どれも、気持ちのいいものではありません。特に、あなたは見ない方がいい。血を見れば思い出すでしょう」


 大きく息を吐いたリファイアードは、ロルブルーミアへ視線を向けずに言った。気遣いの類ではなかった。ただ事実を並べるだけの口調だった。

 しかし、受け取ったロルブルーミアは目を瞬かせるしかない。

 恐らくリファイアードは、突然の来訪者に使った道具をとっさに薬箱に押し込んだのだ。処分する暇はなかったからそれも当然だろう。

 止血を施すために使った道具。たとえば、血を吸い込んだ布の類。恐らくそんなものが、薬箱に入っている。


 それをロルブルーミアが目にしないよう、リファイアードは動いた。自由にならない体を動かして、まるでそれが使命の一つのように。

 リファイアードはロルブルーミアの過去を知っている。血を見たら、暴力によって虐げられた死の記憶を思い出すのではないか、と思った。だから、血を吸った道具を見せることをよしとしなかった。

 ロルブルーミアはその事実を受け取り、ぎゅっと両手を握った。こんな時も、この人は他人のことを気にするんだわ、と思っていた。

 けがをして、苦しそうに呼吸をしながら。自分のことではなく、他人がどう思うかを優先して行動する。


 そこまで思ったところで、はっとした表情でリファイアードを見つめる。

 ソファに背中を預ける姿。苦しそうに顔を歪める。顔は紙のように白い。呼吸は荒く、今にも倒れてしまいそうだ。


「手当てが充分だとしても、お体に障っていることは確かでしょう。お医者さまに診せるべきですわ。もっと大きな治療が必要かもしれませんし――」


 この様子はただごとではない、と立ち上がりかける。使用人の誰かに知らせて、使いを走らせなくてはと思ったのだ。しかし、リファイアードは首を振った。


「これはいつものことなので、問題はありません。けがをした後は大体こうなります。今回は少々血を出しすぎたせいですが――屋敷の者たちにも、取り立てて騒がないよう命じています」


 青白い顔のまま、淡々とした調子でリファイアードは言った。

 けがをするたび、体調を崩すのはいつものことだ。けがの程度によって、不調にも変化があることはわかっている。

 これくらいのけがなら、二・三日もすれば体調は戻る。大ごとにする必要はないから、何もしないよう厳命している。


 主人の命令は使用人にとっての絶対である。だからこそ、けがをして夜遅くに帰宅したリファイアードは一人で手当てをしているのだとロルブルーミアはようやく察した。

 使用人たちが眠る別棟は屋敷から多少離れているとはいえ、敷地内である。誰か気づく人間がいても、おかしくはない。しかし、「何もするな」と厳命されているなら、動くことはできないだろう。


「ですので、一晩経てば大丈夫です。明日にはいつも通りに戻っています。だから――ロルブルーミア姫は、気にせず部屋に戻って眠っていてください」


 そう言ったリファイアードは、唇に笑みを浮かべた。無理をしているのは明らかなのに、心からのものだとわかってしまう笑みだった。

 何もしなくていいと、気にする必要はないと、そのままベッドに入ればいいとリファイアードは本気で言っているのだ。


 恐らく、それがリファイアードにとっての当たり前で、疑う必要もない事実なのだとロルブルーミアは思う。

 今までだって、リファイアードはこうしてきた。一人で傷の手当てをして、一人で苦しい夜に耐えながら、翌日には涼しい顔をしていたのだろう。


 ――けがしたって、次の日には平気な顔して立ってるし、調子が悪いところなんて見たことないです。


 グライルの言葉が、耳によみがえる。それはきっとこういうことなのだ。

 たった今、目の前で明らかに苦しんでいるのに。明日の朝には、リファイアードは何ごともなかった顔をして、この夜を消し去るのだろう。

 たとえまだ痛みが体を貫いても、苦しみは去っていなくても。何食わぬ顔をして、ロルブルーミアの前に立つだろう。


「こんな調子ですので、安心できないのもわかるのですが……いつものことなので、気にしないでいただければ。厨房に行けば砂糖なり香草なりもあるでしょうし、問題ありません」


 そう言ってソファから立ち上がろうとするので、「わたくしが持ってきますわ」と押し止める。

 医療の心得がなくても、それくらいはできる――と思ったところで、ロルブルーミアの脳内にかちりと何かが瞬いた。砂糖。香草。それを求める意味。


 頭の中に並んだ言葉や、浮かんだ場面、これまでの記憶。

 それぞれが光を放ち、有機的に結びついて、ロルブルーミアははっとした表情でリファイアードを見つめた。

 青白い顔。呼吸もままならず、苦しそうに顔を歪めている。けがを負っているせいだと思っていた。しかし、リファイアードは言っていた。

 ――けがをするたび、体調を崩すのはいつものことだ。けがの程度によって、不調にも変化があることはわかっている。


 もしかして、という仮説が浮かんでしまえばあとは早かった。

 今まで何度も見てきたのだ。大けがや攻撃・防御で魔力を放出し、大量に消費することで体内から魔力が枯渇してしまったら。

 意識は不明瞭となり発熱などの症状を呈して、呼吸は荒く苦しげになる。魔力欠乏の症状なら、今まで何度も見てきたのだ。


 そうだわ、とロルブルーミアは思う。どうしてすぐに気づかなかったのか、と自分自身に失望するけれど今はそんな場合ではなかった。


 オーレオンに魔力はない。ただでさえ貯蔵できる量に限りがあるのだ。リファイアードは恐らく、甘味を代替手段として魔力を得ていた。微量でも魔力を溜める香草料理を好んでいたのもそれが理由だろう。

 とはいえ、満足な量を体内に貯蔵できるはずがないのだ。けがをすれば魔力は体外に流れ出るし、すぐに枯渇してしまうのが道理だ。


 目の前のリファイアードの症状は、魔力欠乏症の可能性が高い。

 リファイアードは魔力について熟知しているわけではないから、原因がわかっているわけではないだろう。しかし、不調との関連性を長年の経験から察していた。

 だから、今この状態には砂糖と香草に効果があると判断したのだろう。


「――リファイアードさま。少々ここでお待ちになっていただけますか」


 真っ直ぐ見つめて言うと、リファイアードは目を瞬かせる。上手く頭が回らず、どういう意味なのかすぐにはわからなかったのかもしれない。

 ロルブルーミアはぐっとこぶしを握り締めて、言葉を続けた。


「とてもよく効く薬をお持ちしますわ」


 絶対に正しいかはわからない。しかし、もしも魔力欠乏症ならばロルブルーミアは自分にできることを知っていた。

 必要な知識も物もここにはそろっている。やるべきことなど決まっているのだ。あとはただ、動き出すだけだ。


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