第4章 夜想

第39話 夜陰に赤く


 血の匂いがします、とリリゼが言った。



◇ ◇ ◇




 教会から帰り、梟葛ふくろうかずらのつるや葉の手入れをして、夕食の席に着く。

 招集を受けて城へ向かったリファイアードと夕食を共にすることはなかったものの、使用人たちもロルブルーミアの存在にすっかり慣れている。なごやかな給仕を受け、何事もなく食事は終わった。


 概ねおだやかな一日だったと言っていい。

 慈善活動の評判は上々で、推進派がこぞって宣伝していることもあり、風向きは多少変わりつつある。教会での打ち合わせも、ロレッタや教皇に会えるので苦でもない。

 庭の花壇は見違えるように生き生きしているし、秋の花であるニルフィアや黄金菫こがねすみれがもうすぐ見頃を迎えるだろう。


 充実した一日の終わりは、リッシュグリーデンドの家族との通話だった。

 父親は外せない会議に出席しており不在でも、兄や姉たちと心弾む時間を過ごして、いつになく夜が遅くなってしまった。ようやく話を終えて、寝室に向かう。


 まずは絹の寝巻に着替えるため、リリゼが背後に回った時だ。髪を軽くほどこうとしていたリリゼが、ぴくりと反応して言った。


「血の匂いがします。恐らくこれは、旦那さまのもののようです」


 鋭い調子で放たれた言葉に、ロルブルーミアは体をこわばらせる。

 血の気配はあの夜の記憶をよみがえらせるし、何より「旦那さまのもののようです」という言葉の意味を理解したからだ。

 旦那さま。リファイアードのことだ。


「屋敷に戻られたようです。お一人で――追手の類はおりません」


 鋭い目つきで辺りを見渡す間、リリゼの丸い耳はぴくぴくと動いている。周囲を警戒していることは一目瞭然だ。

 ただ、追手がいるわけでないことがわかって、わずかに体の力が抜けたようだ。それでも、警戒を完全に解いたわけではない。険しい表情で周囲の気配を探っている。


 その横顔に、確認するようにロルブルーミアは尋ねる。


「――リファイアードさまはお一人なのね」

「はい。誰かに伴われていることもありませんし、自らの足で帰られたようです。それから、ご安心ください、お嬢さま。屋敷の周囲に他の気配はありません」


 リリゼは気配の察知に長けている。周囲の様子を探った結果、不審人物は発見されなかったのだろう。

 ほっとした調子で言うので、ロルブルーミアもこわばりをわずかに解くものの、そのまま安心するわけにはいかない。

 一人で帰ってきたリファイアードは、血の匂いがしているというのだ。


 呼び出しを受けて城に向かったはずで、そこで何かがあったと考えるのが自然だ。

 血が出るような場面に遭遇したのだろう。自身がけがをしているのか、それとも相手の血なのか。少なくとも、穏当な状況でないことは確かだった。


 ロルブルーミアは数十秒考え込む。

 夜は遅く、眠り支度を整えればすぐにベッドにも入れる。誰かにともなわれず帰ってきたということは、自分の足で歩けるのだろう。

 大けがをしているわけではないはずで、このまま何も知らなかった顔で朝を迎えることもできる。

 リファイアードが詳細を語らず城へ向かったことから考えても、そうすることが正しいのかもしれない。そう思ったのだけれど。


「様子を見に行くわ。リファイアードさまはどちらに?」


 きっぱり告げて、リリゼを真っ直ぐ見つめる。

 この屋敷に来たばかりの頃は、鍵を掛けられて外に出ることは叶わなかった。しかし、今は自由に出ていくことができる。

 何より、このまま素知らぬ顔で夜を過ごしたくはなかった。今日の夜番がリリゼだったことは、幸いだったのだろう。


 一体何があったのか、リファイアードは無事なのか。それを自分の目できちんと確認したかった。だからこそ尋ねた言葉に、リリゼは数秒ためらいを流す。すぐに答えることができない理由はわかっていた。


「ご無事かどうかを確かめたいだけなの。そうしないと、きっとベッドの中でもあれこれと考えてしまって寝付けないもの。わたくしのためなのよ」


 にっこり笑ってそう言うと、リリゼははっとした表情を浮かべる。

 すぐに答えられないのは、ロルブルーミアに何かがあったら――と考えたからだろう。血の匂いがするなんて、物騒な事態につながることなのだから。

 それを口にした己の迂闊さも後悔していたことは、表情から伝わった。だからロルブルーミアは、あくまでこれは自分のための行動なのだ、ということを念頭にして告げたのだ。


 その気持ちを受け取ったからだろうか。数十秒の沈黙のあと、リリゼはそっと口を開く。


「――一階の奥応接室へ向かったようです」


 大多数の客人をもてなす応接室より、さらに奥まった場所にある小さな応接室だ。薬箱の類が置いてある給仕室にもほど近い。

 ロルブルーミアは「ありがとう」と言って、一階の奥応接室へ向かった。

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