第35話 伝う声②
花壇の話や教会での出来事も話すけれど。ロルブルーミアの心の中心にあるのは、いつだって家族のことだ。
里心がついたと思われるのではないか。結婚に対する懸念があると疑われるのではないか。
そう思ったのも事実だけれど、これまで何度も聞いてきたたった一人の父親への言葉は、ロルブルーミアにも染み込んでいた。
そんな風に家族のことを語れるのなら。心に確かな愛情を抱えた人なら。
きっと大丈夫なんじゃないか、とふと口にした言葉をリファイアードは淡々と受け取った。
国に残した家族を思っているなど、オーレオンへの裏切りだと言うでもなく。国へ帰りたいという意味なのかと疑うこともなく。
ただ、家族を大事に思う気持ちにうなずいた。詳しくはわからなくても、それはきっと国王陛下へ向けるものと近しいのだろうと言って。
自分の中にあるものとの親和を認めて答えたのだ。
「お父さまたちにも、薬香草茶を入れて差し上げていたという話をしましたの。だから、花壇の手入れならお手の物だと言っていましたら、なるほどと納得してくださいましたわ。道理で熱心にやっているようだと思っていました、と」
否定しないでも、一国の皇女が土いじりとはと思ってはいたのだろう。しかし、理由を聞いて納得していた。家族のために懸命になるのは、リファイアードにとっては当然のことだからだ。
それ以外でも、リファイアードはロルブルーミアの話を否定しなかったし、蔑ろにもしなかった。これはロルブルーミアに興味がないからではないのだ。
「お父さまやお兄さま、お姉さまの話も聞いてくれますの。笑顔でというわけではありませんけれど、奇異な目も嫌悪も示さずに。わたくしの話を聞いてくださいますわ」
強がりでも何かを隠すのでもなく、ただの事実として今のロルブルーミアは言える。
心配をしなくてもいいと、何も家族が懸念することはないのだと、心から伝えた。たとえ顔が見えないとしても、きっとそれは伝わったのだろう。
「ああ、それはよかった! ルミアが辛い目に遭っていないかどうかが心配だったんだ」
「そうです、そうです。仲良くなっているなら、わたしたちとしてもこんなに嬉しいことはありません」
エッドレードリュトロンが言って、ウィリローロルデも続く。
その声は心からの
「――ああ、その通りだ。相手がどう出るかがわからなかったからな。ルミアはきっと上手くやれるとは思っていたが……決して一筋縄で行くとは思えない相手だろう」
アドルムドラッツァールは、重々しい声でつぶやく。
頭に浮かんでいるのは、恐らくリファイアードにまつわる話に違いない。「鮮血の悪鬼」「血濡れの王子」と称され、おどろおどろしく噂されているのだ。
事実、戦場で先頭を駆け抜けていることもあるし、何も全てが間違いではないのだろう。
父親の言葉に、よみがえるものがあった。
リファイアードにまつわる噂を父親は知っている。ただ、別のことも知っている可能性がある。
思い出しているのは、教会の裏庭での出来事だ。
オーレオン国王と顔を合わせることになり、言葉を交わした。リファイアードの過去を知っているかと問われて首を振った時、言っていたのだ。
――それなら話をしておいた方がいいだろうね。婚約を結ぶ際、ある程度のことは伝えてあるけれど、あなたの耳に入れることは好まなかったんだと思う。
あの言葉が事実であれば、ロルブルーミアに伏せられているだけで父親はリファイアードのことをより深く知っている。だから、それなら。
「――お父さま」
深呼吸をして、ロルブルーミアは声を発した。
空気の変化を感じたのだろうか。音話機の向こうの沈黙も、どこかぴりりとしている。
今ならまだ戻れる。何でもない顔をしていられる。わかってたいたけれど。
「リファイアードさまについて、話してくださいませんか。わたくしの知らない、リファイアードさまのことを」
ぎゅっと手を握って、ロルブルーミアは言う。
声の響きがあまりに懸命だからだろうか。エッドレードリュトロンもウィリローロルデも口を挟まない。ロルブルーミアは言葉を重ねる。
「リファイアードさまにお聞きすることも考えております。ですが、もしもお聞きしていることがあるなら、先に知っておきたいのです。お父さまがわたくしのことを思って伏せていたことも理解していますけれど――今なら大丈夫ですわ」
恐らく快い話ではないから、ロルブルーミアの耳に入れることを厭っていたと察しがつく。
断片的な情報だけでも、見世物小屋での日々は決して明るいものではない。踏みにじられ、尊厳を奪われ、ロルブルーミアにとってのあの夜が繰り返されるような時間だったはずだ。
だからきっと、父親は何も語ることはなかった。血みどろの話など、耳に入れることはしたくなくて。
それでも、聞かなければいけないとロルブルーミアは思った。
少なくとも、事前にオーレオン国王から伝えられていることがあるなら、ロルブルーミアはきちんと聞いておくべきだったのだ。
それは、形だけとはいえ婚姻を結ぶ相手だから――という義務だけではなかった。
「ルミアの意志は尊重したいとは思う。だが、無理をする必要はない。過去のこととはいえ、決して快いものではない。それどころか、お前にとって思い出したくないものを呼び起こすことにさえなるかもしれない」
重々しい言葉は
誘拐事件のことを思い出すのではないかと、死にまつわる記憶を呼び起こすのではないかと厭っての言葉だ。
充分わかっているから、ロルブルーミアは言葉に怯む。
そうですわね、と言って引き下がるべきなのではないか。家族の気持ちを汲んで、何も聞かない方が正しいのではないのか。
そう思う気持ちもあって、ロルブルーミアは答えにためらう。
うなずいてしまえばいい。それが一番正しい。誰も傷つけない選択だ。
わかっているけれど、ロルブルーミアはすでに、胸に宿るものを知ってしまった。
ずっとずっと、強く焼きついて離れない。その時は上手く形にならなかった。だけれど、次第に自分の中で言葉になっていった。
思い出す。よみがえる。教会の礼拝堂で、耳飾りを通して聞いた言葉たち。
――あのまま見世物小屋で死ぬべきだった。血と臓物にまみれた汚らわしい失敗作なんて、生まれてきたことが間違っている。
シャンヴレットが告げた言葉。あまりにも強い、憎悪に彩られた声だった。絶対的な事実を語るように断罪していた。
死ぬべきだったと、失敗作だと、生まれてきたことは間違いだったと、シャンヴレットは言っていた。
その言葉に、ロルブルーミアは思ったのだ。
最初は明確な言葉にもならない感情だった。しかし、時間が経つにつれて、じわじわと降り積もるように言葉が形作られていく。
――本当に生きていることは間違いかしら?
リファイアードの何を知っているかといえば、お茶の時間のささやかなやものたちくらいだ。だから、確かな答えは持っていない。
それでも、今まで接した出来事や、受け取ったものたちが、疑問の言葉を投げかける。
本当に? 本当に生きていることを否定されるような存在かしら? 生まれてきたことは間違いかしら?
思い出すものがあった。
リファイアードは愛想もよくないし、言葉も足りない。食事の席でも会話はなく、部屋に閉じ込められて行動は制限される。
しかし、それはロルブルーミアへの憎悪ではなく、ただ守ろうとした結果だった。
奥底にあるものを、少しずつロルブルーミアは知っていった。
同じ部隊で戦う部下に慕われていること。幼い兄弟に向ける慈しみの笑顔。不器用で言葉も足りなくて、だけれど自分なりの方法でロルブルーミアを守ろうとしていたこと。
少しずつ近づいても、振り払うことはしなかった。薬香草茶を淹れてくれば、ちゃんと飲んでくれた。
部屋を訪れれば席を進めて、同じお茶を飲んでお菓子を口にするようになった。ロルブルーミアの話を聞こうとして、好きなものを決して否定しなかった。
話をしたのだ。少しずつ、ゆるやかに。自分のことを取り出して、相手の言葉に耳を傾けて。
普段は無口なリファイアードは父親の話は饒舌になる。興味深く聞いている内に、ロルブルーミアも家族の話をした。
すると、ただ静かに、リファイアードはうなずいた。ロルブルーミアにとっての魔王という存在は、リファイアードにとってのオーレオン国王と同じなのだろうと。
交わした会話は、決して劇的なものではなかっただろう。心が弾むわけでもないし、お互いの心を分かち合ったわけでもない。
それでも、同じ時間を過ごしていた。
リファイアードは話を聞いてくれたし、ロルブルーミアも話を聞いた。どちらか一方だけの関係ではなかった。
ささやかで小さな、だけれど確かな二人だけの時間だった。
シャンヴレットの言葉を明確に否定できるほど、ロルブルーミアはリファイアードのことを知らない。
それでも、一つ言えることはあった。胸に宿る感情が一体何であるのか、今のロルブルーミアは理解している。
絶対の事実を語るように、揺るぎなく告げるシャンヴレットの言葉に、うなずきたくない。違うのだと言いたい。
芽生えた感情は確かで、だからそれなら、とロルブルーミアは思ったのだ。
生まれてきたこと、生きていること、存在を丸ごと否定する言葉たち。
これは理不尽なのだと、心から力強く「いいえ」を突きつけるために、もっとリファイアードことを知りたい。
そのためには、ロルブルーミアは聞かなければならない。全てに耳をふさぐのではなく、たとえどれだけ厭わしくても、家族の望みから反するとしても。
胸に宿る言葉と感情を握りしめたロルブルーミアは、大きく息を吸う。
緊張しながら細い声で、それでも「聞かせてくださいませ」と告げる。
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